「何か…」
いつもの通り洗濯物を干す樹君を、いつもの通り窓の此方側から見守りながら、俺はそう呟かずにはいられなかった。
The thing which is uncertain that I am important, a midway point named the atmosphere
「怒ってないか?樹君…」
何もかもがいつもの通り。
少なくとも自分にはそう映っていた日常が、彼にとってはそうではなかったのだろうかと、光がもどかし気に屈折を起こすガラス窓を見つめながら考えた。
それに伴って俺の頭は、「原因の追究」と「諦め」とを同時にやってのけるという、器用な芸当を見せる。
聞けば早いと頭が命令する一方で、彼の怒気に逸早く反応した肉体が待ったをかけていた。
「…俺、何かしたっけ?読んだ本は元の場所に戻したし、洗い物も手伝ったよな…あとはー…」
「あーあ、知ーらない」
その時ひょっこりと横から姿を現したアレスが、楽しんでいるとしか思えない声色で俺にそう投げかける。
言葉は俺に向かっていたが、その視線は完全に俺を無視して、ガラス越しの樹君を見つめていた。
「樹、一回ああなると大変だよ?」
やっぱり俺のせいかよと思いながらも、俺も同じように視線を樹君に戻す。
「ま、頑張りなよ」
例えそれが視線の目的地であっても、俺とのシンクロをまるで拒否するようにアレスは身を翻した。
あっという間に、小柄な体躯と金色の頭は扉の向こうに隠れてしまった。
せめて、そうせめて――
「ヒントくらい出してけよ…」
あとは自分で解決するから。
初めから全てを人任せにするつもりなど毛頭ない。
それは他ならない自分自身が許さないことを分かっていたけれど、皆目見当もつかないこの難題に挑むには、小憎たらしい神様の助けも借りたいところである。
「………」
樹君が、洗濯物の一枚を鮮やかに翻した。
きっと外では小気味のいい音が一つ、響いただろう。
「………」
かけては伸ばし、また拾い上げてはかけて、伸ばす。
かけては伸ばし、拾い上げて、時折翻す。
夜中降り続いた雨が、地面に泥濘を作っていた。
大小の水溜りの中に、黒雲を着々と追い遣りつつある太陽が映る。
かけては伸ばし、拾い上げ、かけては伸ばし、拾い上げ。
外は少し、しっとりと肌寒いだろうか――?
「……ああ…っくそ…!」
俺は外へ飛び出した。
勿論、見つめ続けていた窓を突き破ったわけではない。
きちんと部屋の扉を潜り、廊下を抜けて、入り口の扉も開けて、おまけに少し手荒に閉めた。
飛び出すくらいの、気概だったということだ。
「樹君!」
「…ディル?」
聞けばいいんだ!
分からないこと、気になること――聞きたいこと。
そうしたいなら、直接聞けばいいんだ。
喋るための口があって、相手を見るための両目もある。
それを可能にするための言葉を知っていて、他に一体、何がそうさせないって言うんだ。
「何か、怒ってる?」
「え?」
「俺が何か気に障ることしたんなら、謝るけど…」
樹君の両目が、じっと俺を見つめる。
紫っていうのは、何だか不思議な色だ。
今日、知った。
落ち着くような、不安なような。
とても怪しげな色合いであることは違いないのに、それでいて魅力的だと思わずにはいられない。
「べ、別にディルに怒ってたわけじゃないよ!?ごめんね、勘違いさせて…」
「勘違い?」
「うん、実は洗濯物地面に落としちゃって……。ほら、ドロドロになっちゃった」
白くあるはずがそうではなくなってしまった洗濯物を広げて見せて、困ったように樹君が笑う。
「………」
何だ、そんなことか、と思わずにはいられなかった。
身体中の変な力が抜け落ちて、急に姿勢が楽になった気がした。
「これ、俺洗ってくる」
「え、いいの?」
「樹君ばっかにやらせてちゃ悪いだろ?」
ついでに、小さな黄色い頭を探してこよう。
どんな仕返しをしてやろうか、今から思いつくのが楽しみだ。
「ありがとう」
「どういたしまして」