パラレル小話(セカコイ)

□BARTER
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やっぱり今日はツイてない。
吉野はガックリと肩を落とすと、諦めて座り心地のいいシートに身を沈めた。

吉野千秋の本日のスタートは、最悪だった。
朝に独り暮らしのアパートのドアをガンガンと叩かれて、起こされたのだ。
眠い目をこすりながらドアを開けてみれば、そこにいたのは大家さんの老婦人。
そして用向きは、数か月貯まった家賃を払うこと。
1週間以内にそれが果たされないのであれば、早急に立ち退くことだった。

実はこんなことは初めてではない。
吉野はいわゆるフリーター、つまり定職を持たない身だった。
派遣会社に登録はしている。
だが、小柄で細身な上に体力もないので、肉体労働には向かないのだ。
結局単純労働ばかりなので、回って来る仕事は多くないし、賃金も安い。

どうしても金に困ると、吉野は別の派遣会社に連絡をする。
こちらの仕事は、楽な割りに賃金が高い。
その代わり、ひどく怪しいのだ。
ちなみに前回は、他人の預金通帳を使って携帯電話の契約をするというものだった。
顔写真は張られていないのだから、本人の振りをしていればバレない。
そう説明されたが、何だかひどく悪いことをしている気がする。

今回もまた怪しい仕事だった。
行けと言われたのは、一流ホテルの一室だった。
その部屋では見知らぬ男が待っており、スポーツバックと新幹線の往復チケットを渡された。
今からこれを持って新幹線に乗り、新大阪でスポーツバックをコインロッカーに入れる。
その後すぐに引き返して、帰りの新幹線で隣に座る男に、ロッカーの鍵を渡すというものだった。
チケットは指定席で、すでに座席番号が書かれている。

直接その男にバックを渡せばいいのに、ひどくまどろっこしい方法を取る。
何度その理由を想像しても、少しもいい答えを思いつけなかった。
絶対にバックの中身を見るなと言われれば、なおさらだ。
これだけのことで、報酬は50万円。
家賃を払うためだと、吉野は深く考えることを放棄した。

それに思わぬ幸運もあった。
バックとチケットを受け取り、ホテルの部屋を出たとき、2つ隣の部屋の客も出るところだった。
ちょうどそこに居合わせた客室清掃員に「これ捨てておいて」と紙袋を渡している。
客室清掃員は「かしこまりました」とそれを受け取ると、清掃用具を積んだワゴンにそれを乗せた。
吉野はそのワゴンとすれ違いざまに、その紙袋をスリ取ったのだ。
紙袋は高級ブランドのものだし、何か金目のものでもないかと思ったのだ。
どうせ捨てるものならば、窃盗にもならないだろう。

ホテルのトイレに駆け込み、紙袋を開けた吉野は思わず「ラッキー!」と声を上げた。
中身は高級そうな鳶色のスーツと白いワイシャツ、渋い柄のネクタイ、それに革靴だった。
その紙袋のブランドのものだろうか?
その上、これまた高級そうな皮のトートバックもある。
おそらく吉野が普段着ている服とは、値段が2桁違う。

吉野は自分の年季の入ったヨレヨレのセーターとスラックスを見下ろした。
これから新幹線に乗るにしては、かなりみすぼらしい格好だ。
これはきっと天の助けに違いない!
吉野は素早く自分の服を脱いで、鳶色のスーツに着替えた。
どうやらこのスーツの持ち主は、吉野とかなり近い体型だったようだ。
誂えたようにピッタリと身体に馴染む、綺麗なスーツ。
やった、実は今日はツイているのかもしれない!

ほとんど底が抜けかけているスニーカーは、紙袋に入れる。
自分の脱いだ服は、少し考えたがトートバックに押し込んで、トイレを出た。
廊下に先程のワゴンがいたので、スニーカー入りの紙袋を戻す。
そしてトートバックとスポーツバックを抱えて、ホテルを出た。

まずは東京駅に向かわなくてはいけない。
吉野は地下鉄の駅に向かって、足を踏み出した。
だが数歩歩いたところで、耳障りな急ブレーキの音が響いた。
吉野の真横に黒塗りの高級車が横付けされたのだ。
バタバタと乱暴にドアが開き、黒いスーツの2人の男が飛び出して来る。
2人とも美形だが眼光が鋭く、どうも普通の勤め人の雰囲気ではない。

律さん、申し訳ありませんが、一緒に来てもらいます。
2人のうち、年長に見える男がそう言って頭を下げた。
吉野は慌てて「人違いです!」と首を振る。
何だかわからないが、どうやら「りつ」という人物と間違えられている。
2人の男は口調こそ丁寧だが、かなり強引だった。
必死に人違いだと訴えるが、聞く耳を持たないようだ。
両側から腕を掴まれ、かなり強引に後部座席に押し込まれ、すぐに車は走り出してしまう。

せっかく新しいスーツをゲットできたのに、拉致されるなんて。
見知らぬ男2人に両側を固められ、吉野はため息をつく。
だが次の瞬間、ある可能性に気付いた。
彼らが用事があるのは、このスーツの元々の持ち主なのではないか。
いやそれより切実な問題がある。
このままじゃ引き受けたバイトもすっぽかすことになり、金も貰えない。

やっぱり今日はツイてない。
吉野はガックリと肩を落とすと、諦めて座り心地のいいシートに身を沈めた。
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