パラレル小話(セカコイ)

□BARTER
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ああ、スーツもバックもお気に入りだったのに。
律はため息をつきながら、雑踏の中を足早に進んでいた。

小野寺律は一見したところ、ごく普通の青年だ。
学生時代は、美貌と人当たりの柔らかさから、友人は多かった。
特に女子からの人気は高い。
だが大学を卒業してからは、一切過去の友人たちとは連絡を取らなくなった。
学生時代は何とか素性を隠して、普通の生活を楽しんだ。
だからこそ卒業した後、仲良くしてくれた友人たちに迷惑をかけることだけはしたくなかった。

その理由は律の生い立ちによる。
律はある非合法組織、つまりヤクザの一家と血縁関係があるのだ。
律の母は、日本で最大勢力を誇る一派を束ねる「丸川組」の組長の娘。
つまり律は極道のトップに君臨する男の孫に当たる。
生まれながらにして、普通の人生を送れないことを運命づけられていたのだ。

だが律本人は、その事実を冷静に受け止め、むしろ楽しんでいた。
なぜなら律はフロント企業の1つを任されているが、組を継ぐ立場にはない。
祖父には、律にとっては伯父に当たる跡取り息子がいる。
それに伯父にはさらに息子、つまり律の従兄弟がいる。
そもそも律本人に、組を継ぐなんて野心がないのだ。
就職難のこの時代に社長業で悠悠自適、しかも面倒な組の跡目争いもない。
なんて美味しい人生、世の中ちょろい。

だがその状況が一変した。
現在の組長である祖父と、後継ぎの伯父がこの世を去ったのだ。
その死は不慮の事故であり、陰謀でも抗争でもない。
少々予定は早まったものの、従兄弟が平和的に後を継ぐ。。。筈だった。
それなのにそのドサクサのさなかに、騒動が持ち上がったのだ。

律の祖父と伯父、圧倒的な統率力を持つ2人が去ったことで、一部の者が色めき立った。
いきなり年若い従兄弟を組の長として仰ぐことに抵抗があるのだろう。
彼らは何と律を頭に据えて、従兄弟派と戦うことを目論んだのだ。
律にまったく野心がないことは周知の事実であり、思い通りの傀儡になると思ったのだろう。
案の定、何度も「組長になれ」と打診された。

頑として断り続けた今、律は窮地に陥っている。
従兄弟に反旗を翻す者たちからは、とにかく身柄を押さえて説得しようと狙われている。
そして従兄弟を仰ぐ者たちからは、組長の椅子を狙うのかと疑われ始めているのだ。
まったく冗談じゃない。
美味しくてちょろい人生を返してくれ!

困った律は従兄弟が正式に跡目を襲名するまで、身を隠すことにした。
とりあえず深夜。都内の有名ホテルにチェックインする。
ここまで来る間に、すでに尾行はついていた。
従兄弟派か、それとも反従兄弟派か。

律は部屋に入ると、しばらく時間を潰した。
朝になり、大方の客はチェックアウトする時間をやり過ごす。
このまましばらくこの部屋に滞在すると尾行者に思わせるためだ。

その間に、律は服を着替えていた。
ここまで来るのに、わざわざ目立つ鳶色のスーツを着ていたのだ。
しかもこれは一番気に入っているスーツで、よく着ている。
これを脱いでしまえば、かなりの目くらましになるはずだ。

着替えはごくありふれたジーパンとセーターだ。
紙袋に詰めて事前にホテルに送り、部屋に置いておくように頼んでいた。
これも尾行者への目くらましだ。
律は薄いトートバックしか持っていなかったから、着替えているとは考えにくいだろう。

律は紙袋にトートバックや脱いだスーツを入れると、部屋を出た。
すれ違ったホテルの清掃員に「これ捨てておいて」と渡すのも忘れない。
部屋に着替えは残さない方がいい。
もし無人の部屋に踏み込まれても、着替えた証拠はないのだ。
尾行者はせいぜい、どこにもいない鳶色のスーツの男を捜せばいい。
律はそのままフロントを通らず、非常階段から外へ出た。

ああ、スーツもバックもお気に入りだったのに。
律はため息をつきながら、雑踏の中を足早に進んでいた。
だけど命には代えられない。
跡目争いの火種になっている律を、殺そうと考える者もいるかもしれない。
組を守るためなら、法に触れることも厭わないのが極道なのだ。

とにかく少しでも遠くに逃げる。
律は背後の気配に注意しながら、一番近い地下鉄の駅を目指していた。
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