Glare5

□海に帰るのはまだ早い
1ページ/1ページ


早起きは何とやら、とはよく言うがまさか厄介事が舞い込んでくるとは思わなかった。
海辺を歩いていたメロウは気だるげに溜め息を吐く。
砂浜にはずぶ濡れになった男が俯せになって倒れていた。
僅かに体が上下しているし生きているとは思うが辺りに荷物も見あたらないところから考えるに恐らく、いや、確実に何処からか流されてきたのだろう。
面倒事、厄介事はごめんだが倒れている人を見捨てるほど冷酷ではない。
メロウは再び短く息を吐くと砂を踏みしめながら男に歩み寄った。



「ねえあんた、大丈夫?」



声をかけても返事はなくて、なんとなしに男の体を仰向けにさせたときメロウは絶句した。
なんて痛々しい、刀傷。
男の肩口から腹にかけて存在する一般人が負うようなものではないそれからはおびただしい量の血が流れている。
こんな傷を負ってよくもまあ生きていたものだ。
しかし今止血しなければこの男はじきに死ぬだろう。
驚きつつもメロウは男を半ば引きずる形で抱き寄せると影使いの能力を駆使して己の影の中へと潜り、喫茶店へと急いだ。



「チェシャ!」

「そんなに大きな声をあげなくても聞こえていますよ。…その方は?」



喫茶店へと戻り、店の主でもあるチェシャを呼べば彼はすぐにメロウの元へやってきた。
平生柔らかな表情を崩さない彼だが今度ばかりは何処か警戒した様子で睨むようにメロウが連れてきた男を見やる。
突然血を流している見知らぬ男を連れて来られたら誰でも警戒するだろう。
メロウは手短に経緯をチェシャに話し、最後に懇願するかのような瞳でチェシャを見上げながら言葉を紡いだ。



「お願い、彼を助けて!」



メロウの必死な様子にチェシャは目を細めながら小さく頷く。
裏社会に敵なしとも謳われた彼は暗殺術や情報処理能力は勿論怪我の手当も得意なのだ。
チェシャの的確な手当により男は無事一命を取り留め、翌々日には目を覚ましたのだった。















「…その男の人って言うのがイカレ?」

「ええ。あたしは壱にとって命の恩人でもある訳。」

「いやあ、あん時は助かったっすよ。メロウが助けてくんなかったら今頃ワタツミの元へ行ってたっす。」

「ワタ、ツミ…?」

「海神バトゥダのことっす。あっしは港町出身でして、港町ではバトゥダのことをワタツミって言うんすよ。」



古代グレア神話に登場する雄大なる海原の主、バトゥダ。
時が進むにつれ人々の記憶から薄れてしまった古代神の一人だが港町など海に面した町では今もまだ海神信仰が厚いのだ。
とある港町出身の壱助は勿論海神を身近に感じながら育ってきたし、成長した今とてそれは変わらない。
そんな壱助にとって死とは蒼き海に住まうバトゥダの元に行くこと、メロウに救われたあの時は確かに死の足音が聞こえたのだ。
海の民は誰しもが最期はバトゥダの元へ帰るのだから恐怖心はなかったがメロウに救われてから世界は一変した。
まだこの世界にいたい、彼女と共にいたい。
命の恩人への感謝の気持ちはやがて一人の女への恋心へと変わる。
今に至るまでの悲しみは大きかった、しかしそれと共に生きていこうとも思えた。



「…あれも全て、ワタツミが導いて下さったんすかねえ。」

「あら、瀕死の男を寄越すなんて海神サマったらロマンの欠片もないのね?」

「あっし達は暗殺者っすよ?そう考えればまだまだロマンがある方っす。」

「やだわそんなにふてくされないでよ、確かに小説みたいに出来上がった恋はあたし達には向いてないわ。少しひねくれた感じの方が落ち着くもの。」



くすくすと笑いながら寄りかかってくるメロウに苦笑しながら思う。
嗚呼、なんて穏やかなのだろう。
ふいに脳裏を裏社会で生きる自分達がこんなで良いのかと言う不安がよぎったがたまにはこんな日も良いだろう。
きょとんとしながらこちらを見つめているアリスの頭を優しく撫でるとメロウに視線を移し、壱助は眉尻を下げながら幸せそうに笑った。




海に帰るのはまだ早い
(我らがワタツミよ、もう少し陸に留まることをお許し下さい)

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ