Keep a secret

□声が聞きたい
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 帰り道――
 時谷くんは自分の家を通り過ぎ、私の家の前まで着いてきてくれた。
 すぐそこの距離なのに送ってもらえるの嬉しいな。女の子扱いって感じで。

「エアコンつけっぱなしで寝ないようにね。風邪引かないでよ」
「は、はい。気を付けます」
「今日はありがとね。バイバイ」
「バ、イバイ……綾瀬さん……」

 玄関の扉を開けながら門の前の時谷くんに向かって手を振れば、彼は元気のない様子で返してくれた。
 疲れているのかもしれない。少し心配になりながらも扉を閉めようとした……

「待って……っ!」

 ところで聞こえてきたのは何だか切羽詰まった声で。急いで外に出ると門の前から動いていない時谷くんと目が合った。

「どうしたの?」
「引き止めてしまってごめんなさい。どうしても顔を見て言いたくて……今日楽しかったって言ってもらえて嬉しかったです。きっと明日はもっと楽しい日にします! だから!……だ、だから、あの……」

 ただならぬ様子で話し始めるから身構えたが、恐らく明日も会おうと誘いたいだけなのだろう。
 でも、時谷くんにとっては深刻な問題だったのかもしれない。今約束しなかったら二度と会えなくなると怯えているような……何故だかそれくらい思い詰めて見えた。

「あ、明日も僕とデートしてくれませんか……?」

 そうか、今日の私達は正真正銘のデートをしたんだ。
 時谷くんは今日一度も写真のことで脅してきたりしなかった。今だって私に断られる可能性に恐怖している。

「い、嫌だったら言ってください! もしも嫌だったら……嫌……ですよね……」

 喋るうちに自信が失われたのか時谷くんの声はか細くなっていく。
 震えながら佇む姿はなんて弱々しいんだろう。まるで私と明日会えなければ彼は消えて無くなってしまうみたいだ。

「……時谷くん、明日楽しみにしてるね」
「はい!」

 私が笑いかけたら現金な時谷くんも笑顔になって力強く頷いた。
 嫌な思いを全くしなかったわけではないけれど。振り返ってみれば楽しい一日だった。
 だから、明日もそうなったらいいな。





 プルルル――

 静かな朝に着信音が鳴り響く。枕元から聞こえる騒がしい音に私は飛び起きた。
 画面には時谷薫と表示されている。迷わず"応答"に指をスライドさせた。

「はい?」
「おはようございます」
「おはよう」

 時谷くんは普段より心なしか低くかすれた声をしている。
 現在時刻は八時五十分。今日の待ち合わせは十一時だ。約束の時間より明らかに早いけどどうしたんだろう。

「寝起きの声をしていますね。ごめんなさい。僕の電話で起こしてしまいましたか?」

 電話越しに弱々しい声で謝罪される。こういう時の時谷くんの姿は簡単に思い浮かぶ。
 しょんぼりと俯いているか見えないのに深々と頭を下げているか、二択だろう。

「もともと九時にアラームかけてたからそんなに変わらないよ。それよりなんか時谷くんも普段より声低いね」
「ご、ごめんなさい綾瀬さん! ごめんなさい、ごめんなさっ……ゴホッゴホッ」
「大丈夫!?」

 謝罪の言葉を詰まらせたかと思ったら咳きこんでいる。口元からスマホを遠ざけたらしく聞こえてくる咳の音は小さいけれどすごく苦しそうだ。

「熱が出てしまって……今日はデートに行けなくなってしまいました。僕から誘ったのに本当にごめんなさい。もう少ししたら病院に行こうと思います」

 言われてみれば喉が腫れているような低い声かもしれない。
 私が昨日暑いから水しぶきのたくさんかかるコースターに乗りたいって言ったんだよな……あれで風邪を引いてしまったのなら私のせいでもある。

「約束のことは気にしないで。熱何度だったの? 私も病院に付き添おうか?」
「お気持ちは嬉しいですが……綾瀬さんも一緒になんて絶対に駄目です」

 時谷くんは一人暮らしだから当然一人で病院に行くんだろう。心配だし、心細いかもしれないから私も付いて行きたかった。

「どうしても駄目? 私だって病院ではちゃんと静かにするし、時谷くんにも他の患者さんにも迷惑かけないよ」
「僕や他人のことはどうでもいいです。それより病院には様々なウイルスに感染した連中が集まってくるんです。もちろん僕もその病人の一人ですが……そんな危険地帯に健康な綾瀬さんを近寄らせるわけにはいきません!」

 時谷くんの意志が固いことは電話越しにも伝わってくる。
 しかし私には時谷くんが体調を崩した原因にもう一つ心当たりがあった。

 一昨日……私に乱暴して謝りもしない時谷くんが許せなくて、頭から水をぶっかけてやったのだ。私がハーブティーをかけられた後はすぐにお風呂に入ったけど、時谷くんはあの後どうしたんだろう?
 もしかしたら体調不良には一昨日の件も影響しているかもしれない。

「で、でも」
「駄目ったら駄目です。僕の家の前も通らないようにしてくださいね。空気感染の恐れがあります」

 時谷くんは未だ諦めていない私にぴしゃりと言い放った。
 本当に心配性だな。病人の家の近くを歩いただけで感染するウイルスが存在したら人類にとってかなりの脅威だと思う。

「マ、マスクして行くから」
「綾瀬さん、僕は今日綾瀬さんと会えるのを楽しみにしていました……でも、綾瀬さんに風邪をうつすことになるのだけは避けたいんです」
「……わかったよ。風邪が治ったら出掛けようね。それじゃあ、お大事に」
「はい! ありがとうございます」

 最後に明るい声を出した時谷くんに少し安心しながら電話を切った。

 そのままスマホを放り投げて再びシーツへと体を沈める。

 熱はどれくらい出ているのだろう。聞きそびれてしまった。
 病院にはタクシーで行くだろうか……?
 タクシー代は安くない。もしも高熱でふらふらの体で自転車に乗ったら、転倒する恐れがある。車道に投げ出された時谷くんに運悪く大型トラックが突っ込んできたら……

「いやぁぁ! 死なないで!」

 最悪なシーンを想像して絶叫する。
 風邪くらいでこんなに心配するなんて普通では考えられないことだった。この気持ちは恋特有のものなんだろうか。

 ならば時谷くんが心配性なのはどうして。
 時谷くんは自分にも他人にも関心がなさそうなのに、私を心配してくれるのは少しおかしい気がする……が、今はそんなことよりも、

「時谷くん大丈夫かなぁ。本当にちゃんと病院行くかなぁ」


 それからしばらくの間、ベッドの上で悶々と過ごし、決めた。
 ――病院に行く時谷くんの姿をこの目でしかと見届けよう。
 じゃないと一日中不安が続きそうだ。そうと決まれば早速行動を開始する。

 お目当ての場所は私の部屋を出てすぐの廊下にある窓。カーテンをめくると夏の陽射しが入ってきた。
 空は昨日と同じく晴れ渡っている。自転車に乗るには厳しい暑さだ。

 二階のこの窓は家の前の道路に面している。角度的に何とかぎりぎり時谷くんの家の門が見えるため、私は窓にへばり付く。
 時谷くんがタクシーで病院に行くかどうかこっそり見届けよう。

 時谷くんの家の様子を窺い始めてから結構な時間が経った。
 代わり映えのない風景に飽きてきた頃、時谷くんの家の前にタクシーが止まった。そこから時谷くんが降りてくる。

 彼は私との電話を切ってからすぐに病院へ行ったのかもしれない。
 これで一安心だ、と思った瞬間――時谷くんと目が合った。気がした。
 慌てて窓から離れてカーテンを閉める。

 大胆に窓にへばり付いていたから気付かれたのだろうか。それならとっさにカーテンを閉めたのも逆効果なのでは?
 ……だけど、目が合ったというのは勘違いの可能性もある。何しろ遠すぎて時谷くんの視線なんてここからじゃ判別できない。

 時谷くんにバレてたら嫌だなぁとその場で数分間頭を抱えてから、窓の外をもう一度チラリと覗く。
 時谷くんが家に入ったかだけ最後に確認しようと思ったからだ。

 でも、すぐ視界に入った時谷くんの姿に驚かされる。彼はさっきと同じ場所で我が家の方角を見つめ続けていた。
 数分間あそこに突っ立っていたんだろうか。何をしているんだろう。
 もしや私がここから覗いていたことに気付いたから証拠を掴もうと……? ストーカー疑惑を持たれていたらどうしよう。

「ハァーー……」

 長いため息の後、スマホを彼に向ける。
 肉眼では見えない時谷くんの視線、表情も、カメラのズーム機能を使えばきっと捉えることができる。
 ああ……プロのストーカーみたいな行動だけど許してほしい。

 緊張で手が震えるなか、遠くの時谷くんをズームしていくと解像度の悪い表情が映る。
 私の家の方角を確かに見ているけれど、目線は決して高くない。二階にいる私に気付いているわけではないらしい。
 なんだかとても切なそうな表情だ。それは昨日の別れ際の表情と同じだった。


 カシャッ――

「あっ!」

 誤って画面に触れたことで時谷くんの一瞬の表情が切り取られる。
 写真はピントが合っておらず、時谷くんも周りの景色もぼやけていて、目線はカメラから外れていた。

 こういう酷い写りの写真には見覚えがあった。
 確か時谷くんのスマホ内にあった大量の盗撮写真は、自宅前にいる私の写真が一番多かったような。あれらの写真は私が今した方法で撮られたんじゃないだろうか。
 我が家の二階の窓から時谷くんの家が見えるということは、当然その逆も同じはずだ。

 時谷くんは去年の十月くらいから私の行動を窓越しに監視していた……なんて恐ろしいことはないと信じたいんだけれど。
 実際に時谷くんのスマホから大量の写真が見付かっていますからね。

 しかし、どういうつもりか知らないが早く家の中に入って安静にしててほしい。
 ピンぼけ盗撮写真を削除し、時谷くんに電話をかける。

「も、もしもし! 綾瀬さん、どうしたんですか?」

 少し緊張しながらスマホを耳に当てると時谷くんはワンコールで電話に出た。
 声はかすれているけど雰囲気は元気そうだ。時谷くんの声と一緒にうるさい蝉の鳴き声も聞こえてくる。

「もしもし。突然ごめんね。いやー病院行ったかなってちょっと気になって……」
「僕のことを心配してくれていたんですか? すごく嬉しいです!……あっ、今病院から帰ってきたところなんです。ただの風邪なのですぐに良くなります」

 もうカメラを向けていないから遠くの時谷くんの表情はわからない。でも笑顔で話している姿が想像できる明るさだ。
 元気そうで何よりだが、ずっとそこにいて熱中症になったらどうするの。

「綾瀬さん? 僕、さっきまで落ち込んでいたんです。本当なら今日は綾瀬さんと会えるはずだったのにってどうしても考えてしまって……せめて声だけでも聞きたいと思っていました。そうしたら綾瀬さんが電話をかけてきてくれたんです」

 言葉選びに悩んでいたら時谷くんが少し落ち着いた声で話し始める。
 私の家を見つめながら、会いたい、声が聞きたいってずっと考えていたんだろうか。
 何で? 嫌いだと何度も言ったくせに、もしかしたら私を好きなのかなって勘違いするようなことも言って……時谷くんはいつだって私の心をかき乱す。

「だからお願い。もう少しだけ僕と話してください。綾瀬さんの声が聞きたいよ……」
「っ!」

 少しの沈黙の後、切なげに言う時谷くんに私はポロッと告白でもしそうな勢いでときめいてしまった。
 窓から見える小さな時谷くんの表情がわからないことがもどかしい。

「話す。もちろん話すよ! でもー……蝉の音が聞こえるからまだ外にいるんだよね? 話す前に家の中に入ってね」
「はい。家に帰りますね」

 私の言葉を受けて立ち止まっていた時谷くんが歩き出す。姿が見えなくなった直後に電話口からは玄関の扉が閉まる音が聞こえた。
 帰宅が確認できて嬉しい……けど、時谷くんが見えなくなったことが少し寂しい。

「やっぱり迷惑ですよね……」

 さっきまで時谷くんのいた道路をぼんやりと眺めながら私はまた沈黙していたらしい。時谷くんが悲しそうに呟く。

「迷惑じゃないよ。ごめん、ちょっとぼーっとしちゃって……あ、あのさ……やっぱり電話はもう切ろう」
「え?」

 私は溜まった唾液を飲み込む。一昨日の心情を思うと驚きのことを言うつもりでいた。

「時谷くんの家にお見舞いに行ってもいい?」
「えっ」

 時谷くんはそのまま黙ってしまった。
 やっぱり断られるかな。前の電話では家に近付くことすら駄目だと言っていたし。
 ただ、時谷くんは私が電話をしなかったらいつまでも外にいたかもしれないし、一人で安静にしていられるのか心配だった。

「風邪をうつしてしまうから……駄目……です……」
「そ、だよね。わかった」

 想像通りの返事。ぽつりぽつりと話す時谷くんの声はとても小さい。
 私も全然気にしてない風を装いたいのに多分沈んだ気持ちを隠せていない。

「綾瀬さんは……僕のこと迷惑じゃないの?」

 そんな少ししおらしくなった私よりも時谷くんは元気がない。
 なかなか困る質問が来た。端的に言ってしまえば迷惑な存在だ。私にとって時谷くんは良くも悪くも一番の悩みの種なんだから。

「迷惑かけてごめんなさい。もう電話切りますね!」
「ちょっと待って! 迷惑じゃないよ」

 早口になった時谷くんを慌てて引き止める。時谷くんに対する複雑な思いはともかく、お見舞いの件は私が行きたくて言い出したんだから迷惑なはずがない。

「本当の本当に?」
「本当の本当だよ」
「ぼっ、僕! 家中のマスクを重ねてします。咳なんか絶対にしません。なるべく呼吸も止めます。綾瀬さんが飛沫感染しないよう全力を尽くすから、だから……会いに来てほしいです」

 時谷くんが段々元気になっていくのが電話越しでも伝わってくる。私もお見舞いを許可してもらえて思わず笑みがこぼれた。

「うん! 準備したら行くね。何か欲しい物とかある?」
「綾瀬さんがいてくれるなら他に何も要りません」
「わ、わかった。また後でね!」

 相変わらずの時谷くんの発言に目眩すら覚えながら私は階段を駆け降りた。
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