Keep a secret

□わからないよ
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 時谷くんの家から何とか帰宅した私は無気力にベッドに寝転がる。何も考えたくない。
 眠ってしまおうと目を閉じていたらスマホが鳴った。時谷くんからだ。

『こんばんは。明日は午前十時に前と同じ場所で集合にしましょう』

 本当に明日会うつもりなんだ。また今日みたいなことをするんだろうか……

「あーもうっ時谷くんって最低だ!」

 大きな声で吐き出して行き場のないこの苛立ちを枕にぶつける。
 私はこれからずっと時谷くんの言いなりなのかな。もしかして死ぬまでずっと……?
 考えてみれば期限が決まっていないって恐ろしいことだ。

 憎んでいる私の処女を奪ったのだから復讐は達成したんじゃないのだろうか。
 私がどうなったら満足してくれるんだろう? 私とどんな関係でいたいんだろう?

――今は怖くても大丈夫だよ。俺達もすぐに父さんと母さんみたいになれるから。

 この言葉の真意はわからない。
 時谷くんの両親は仲が良くて愛し合っているそうだけど、時谷くんが私とそんな関係になることを望んでいるはずがない。
 でも……あの瞬間の時谷くんは私と愛し合うことを望んでいるように見えた。有り得ないとわかっていても、もしかして……と思わせる優しい微笑みだったのだ。


 明日が来ませんように。そう強く願っていても遠慮なく朝日は昇る。
 もうすぐ十時だ。憂鬱だけれど準備を始めなくては。鏡には昨日の朝と何も変わらない自分の姿が映っている。
 うん……大丈夫。私、何も変わってない。

 処女じゃなくなったら何かが大きく変わるような気がしていたけど、今の私は下腹部が少し痛いくらいで見た目に変化はなかった。
 大丈夫、大丈夫だと精一杯自分に言い聞かせるが、もう一生取り戻すことができないものを失った現実にやっぱり打ちのめされる。

 時計の針が十時を回ったのを見届けてから靴を履く。
 初めて時谷くんと待ち合わせした日は張り切って五分前に家を出た。今は全くそんな気起きないけれど。
 玄関を開ければ容赦のない強い陽射しが降り注ぐ。雲一つない晴天だ。早くも心が折れそうになる。
 私の心はジメジメとした梅雨真っ盛りなんだよ。人の気も知らないで勝手に晴れるのはやめてほしい。

「今日は晴れてよかったですね」

 いやいや、少しもよくないですってば。

「って時谷くん!?」
「はい。おはようございます」

 家の前で制服姿の時谷くんが爽やかな笑顔を浮かべながら待ち構えていた。
 待ち合わせは一応もう少し離れた場所のはずなんですけどね……。

 行きましょうか、と歩き出した時谷くんの五メートルくらい後ろを着いていく。
 時谷くんはたまに振り返って困った顔をしているが知るもんか。隣を歩くのはお断りだ。時谷くんが試すように歩く速度を落とせば私もそれに合わせる。
 無言の攻防戦を繰り広げていたら時谷くんが立ち止まった。私も同じようにする。

 すると、時谷くんが急に走り出した。

「あっ、ちょっと待ってよ!」

 どうせ行き先は一緒だ。急いで追いかける必要はないかもしれないけど、これ以上距離が開いたら時谷くんの機嫌を致命的に損ねる可能性が高い。
 もうすぐで追い付く……というところで時谷くんが突然足を止めた。

「危な……っ、ぶっ!」

 時谷くんの背中に思いきり突っ込んでいった私の顔面に激痛が走る。これで鼻血が出てこないのは奇跡だった。

「大丈夫ですか?」
「……大丈夫じゃない。本気で痛い」
「綾瀬さんが僕の隣を歩いてくれないので嫌がらせをしました」
「な、なんか昨日もこんなことあったよねー?」
「そうでしたか? 忘れました」

 痛がっている私の顔を覗きこむ笑顔の胡散臭いこと。絶対に許さん……この恨みは末代まで忘れないからね。

「走ったから汗かいちゃったよ」
「そうですね。後でうちに寄ってシャワー浴びますか?」
「なっ!? 浴びないよ!」
「外では何もしないんだから隣にいてください」
「……わかった。隣歩くね」

 室内ではどうなのか気になるところだったけど触れるのはやめておいた方が無難だ。
 大人しく時谷くんの隣に並ぶ。

「こっちに来て」
「え?」

 腕を引っ張られて反対側に場所を変えられる。そうか、時谷くんが車道側を歩くんだ。
 守るように歩道側に移動させられたことに気付いて少し嬉しかった。この程度のことで顔面強打の恨みは晴れないけどね。

「行きましょうか」
「うん……」

 私は隣の時谷くんとの距離を少しだけ詰めて歩き出す。
 思うに時谷くんの中には意地悪な時谷くんと優しい時谷くんが存在しているのかもしれない。
 意地悪な時谷くんは私に復讐してやろうと酷いことをする。優しい時谷くんは私のことを許してくれているんじゃないかな。
 だから昨日も時々優しい雰囲気になったりしたのかも。今一瞬だけでも優しそうな時谷くんに昨日のことについて聞いてみよう……。

「あのさ……昨日どうだったのかな……」
「どうって?」

 途中で眠ってしまったから時谷くんがその……射精した瞬間を知らない。

「だから……な、中で……とかないよね?」
「……綾瀬さんはどう思う?」
「あ、ははは……有り得ないよね! ご、ごめん。当たり前のこと聞いて……」
「さあ? もしかしたら僕に中出しされたかもしれませんね」

 時谷くんは私に顔を近付けて楽しげな瞳を向けるけど、そんな冗談笑えないって。

「嘘でしょ? はっきり言ってよ!」
「どうしようかな。今答えたら僕のことを考えてくれる時間が減るじゃないですか。このまま秘密にしておけば綾瀬さんは次の生理が来るまで片時も僕のことが頭から離れないでしょうね。僕にされたいやらしいことを思い出しながら僕の子供が出来たんじゃないかって悩むんです」
「ふ、ふざけてないで本当に教えて……?」

 私の声は震えている。だっていつの間にか優しくない方の時谷くんに変わってしまった。彼には酷い目にあわされてばかりだ。
 だからってさすがに子供が出来るようなことはしないはずだ。そう信じたいけど、どうしても不安になる。
 前回の生理は何日だったっけ。次いつ来るのか数えると……

「普段は気にしていない生理周期のことを考えてますか? 残念ですが気にし過ぎると遅れたりするらしいですよ」
「考えてないよ! 冗談だってわかってるし……」

 図星だと気付かれているんだろう。時谷くんは笑いながら更に続ける。

「少しでも遅れたら綾瀬さんは心配になって妊娠検査薬を買いに行くんでしょうね。いつも行く薬局とは別のところで誰かに見られていないか気にしながら……」
「へ、変なことばかり言うのはやめて……本当のこと教えてよ。お願いだから!」

 もう私は泣きそうだった。
 時谷くんはどうしてこんな意地悪なことばかり言うんだろう。酷すぎるよ。

「頭の中はもしも子供が出来ていたらどうしようって不安でいっぱいなんです。お母さんには話さないといけない……その前に時谷くんに相談した方がいいのかな? でも時谷くんなんかには絶対話したくないよーってね」

 言い返す気力も出てこない。目を伏せて弱々しく首を振った。

「昨日まで処女だったのに今は妊娠の心配をしてるなんて可哀想な綾瀬さん。そんな綾瀬さんに興奮します。あ、でも妊娠してたら僕に一番に報告してくださいね? だって僕がお腹の子の父親……なんですから」

 段々と早口になっていく時谷くんは本当に興奮しているんだろう。なんだか息も荒い気がする。

「時谷くん最低だよ……」
「知ってる」
「っ、私、時谷くんのこと大嫌いだから!」
「……それも知ってるよ」

 時谷くんの声は少し寂しそうで。目を開けてみてもやっぱり寂しげな顔をしていた。

「時谷くんってよくわからないよ」
「僕も……時々自分が嫌になる……」

 さっきまでの雰囲気から一変して俯いている彼は多分優しい方の時谷くんだ。

「自分でも嫌になるようなことしなければいいんだよ」
「それは無理です。綾瀬さんが変わってくれないなら僕も変われない……僕は今まで綾瀬さんに優しくしてきたつもりなんです。それなのに綾瀬さんは僕が初めから嫌ってるんだとか意味のわからないことを言って……初めから嫌っていたのは綾瀬さんの方じゃないですか」
「ん? えっと? 待って……」

 時谷くんの言葉を整理したい。時谷くんは私を嫌いではないってこと?
 いや、でも「今まで」ってことは過去の話なのかもしれない。初めから嫌いだったわけではないってことなのか。
 わからないことだらけで混乱してしまう。

「昨日……中で出してません」
「本当?」
「はい。嫌なことを言ってすみませんでした」
「あ……うん。じゃあもう行こうか?」

 気にしないで、とまでは言えないがやっと本当のことを教えてもらえて安心した。
 私はなるべく明るく切り出した。この話がこれ以上長引くのは嫌だったからだ。

「……本当に……俺の子供を孕めばいいのに」
「え? 今……何て言った?」

 小さな小さな呟きを聞き取れてしまった。しかし耳を疑う言葉だったから聞き返さずにはいられない。

「いいえ。こっちの話です」
「そ、そっか……」

 完全に私も関係する恐ろしい呟きだったけど聞かなかったことにしよう。世の中には知らない方がいいことは多い。
 何しろさっき私に謝ったばかりの時谷くんだ。自己嫌悪に陥り、反省したはずなんだ。妊娠しろなんて言うわけないじゃないか……

「どうしました? 早く行きましょう」
「そ、そうだね」

 爽やかな笑顔を向けてくれてるし……いいや! ごまかされないぞ。絶対に聞いた。聞き間違いではない。


 再び歩き始めた時谷くんの隣にさっきより距離を開けて並ぶ。
 酷くもやもやする。私の気持ちも知らないくせに知ってるとか言わないでよ。
 嫌ってるのは時谷くんの方じゃないか。レイプまでしたくせに何言ってるの。
 私の方が時谷くんを嫌ってるとか……むしろ私は時谷くんのことが……

 まあ……時谷くんが好きとか思ったのはこんな人だって知らなかっただけだし。
 それにもしかしたら時谷くんには他に好きな人がいるかもしれないし。
 考えてみれば酷い話だ。私の初体験を奪っておきながら他に本気で好きな人がいるかもしれないだなんて……。

「あーーっもうやだ!!」
「ご、ごめんなさい」

 ごちゃごちゃ散らかった考えを振り払おうと出した声に時谷くんが肩をびくつかせる。

「よし。学校まで走ろう」
「え……この炎天下で?」
「そうだよ。運動部は部活やってるでしょ」
「綾瀬さん帰宅部なのに……」

 そう、私も時谷くんも帰宅部だ。体育会系ではないけどとりあえず走りたい。
 そのくらいのことをしないとこのもやもやが消えてくれそうもなかったし、意地っ張りな自分が時谷くんの隣を大人しく歩くことを拒んでいた。

「遅かった方はジュース奢りね!」
「やっぱり僕も走るんですか……」

 戸惑う時谷くんを無視して私はスタートダッシュを決めたのだった。
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