Keep a secret

□矛盾した感情
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 昨日……登校日の放課後、綾瀬さんの体だけでも俺のものにしてしまおうと思っていた。
 俺のネクタイで自由が奪われた彼女の体はあの時間だけは確かに俺のものだった。
 彼女は今まで誰にも体を許したことがないんだ。俺が初めての存在になれば彼女にとって特別になれたのに。
 それは同時に彼女を深く傷付け、心を開いてもらえる可能性がなくなることを意味する。彼女の泣き顔を見たら最後の最後で気持ちが揺らいでしまった。

 俺は結局どうしたいんだろう。どうすれば綾瀬さんは俺のことを――


「……おる……ん……薫くん!」
「え?」

 昨日の出来事に思いを馳せていた俺の意識が現実へと戻ってくる。
 ゴミ捨てのために外へ出たら綾瀬さんの家が見えて、そのまま考えこんでしまっていたみたいだ。

「おはよう。ぼーっとしてたけど大丈夫?」
「おはようございます。大丈夫です」

 俺は返事をしながら俯く。明るい笑顔を向ける声の主に合わせる顔がなかった。
 この様子だと綾瀬さんは昨日のことを母親に相談しなかったようだ。

「実は七花が体調を崩しちゃったみたいなの。薫くんも風邪とか引かないように気を付けてね」
「っ! 大丈夫なんですか!? 綾瀬さんは今どうしてますか?」
「き、昨日帰ってきてからずっと部屋にこもってるよ。食欲もないみたい」

 変に必死なことが伝わってしまったらしく綾瀬さんのお母さんは目を丸くする。
 部屋から出てこないという綾瀬さんはどんな気持ちでいるんだろう。きっとたくさん泣かせてしまったんだろうな。

「薫くん……? 泣いてるの?」
「あ……本当だ……」

 指摘されて初めて気付く。俺の頬には一筋の涙が伝っていた。
 おかしな涙だ。彼女の心に消えない傷を付けたかったからあの部室に呼び出したのに、泣いている綾瀬さんを想像したら胸が張り裂けそうな思いがするんだ。

 俺は昨日、未遂で終わってしまったことを後悔すらしている。
 未遂で終われば許してもらえるわけじゃない。なら最後まですればよかった、なんて悪びれもなく思っていた。
 そんな俺が傷付いている綾瀬さんを思うと悲しいだなんて矛盾もいいところだ。

「ごめんなさい」
「どうして薫くんが謝るの?」
「…………」

 思わず口からこぼれた謝罪は本心からのものだった。
 昨日したことへの後悔も罪悪感も物足りなさも全て俺の中に存在する感情だ。

 綾瀬さんの「特別」になるために消えない傷を付けようとした。
 だけど……綾瀬さんを泣かせたくない。普通の友達に戻れるのなら戻りたい。
 綾瀬さんの特別になれるなら嫌われてもいい。嫌わないでくれるなら特別になれなくてもいい。
 俺はただ綾瀬さんのことが好きなだけなんだ。どんな形であっても彼女のそばにいたい。

 同時に存在する矛盾した感情は俺を苦しめる。


 謝ったきり口を閉ざした俺に綾瀬さんのお母さんは「喧嘩して気にしてるなら本人に謝るように」と言い、仲直りのきっかけになればと時計の修理を俺に頼んだ。
 昔から手先は器用な方だ。少しの希望を胸に分解し、一から組み直した時計はまた動き始めた。

 しかし、今――
 その時計は無惨な姿で足元に転がっている。

「また壊れちゃった……」
「そうだよ。もう絶対に直せないね」
「もう……直せない」

 修復不可能な時計はまるで俺と綾瀬さんの関係みたいだ。
 俺は落ちている破片を自然と拾い始める。
 もう一度直せるのかはわからない。それでも、大切な時間の欠片達を拾い集めずにはいられなかった。

「綾瀬さんの大切な物ではなかったんですか」
「大切だったよ。でも……」

 もういいの。そう言い残して綾瀬さんが俺のそばを離れていく。
 その背中を今引き止めなかったらもう永遠に話せない気がした。
 彼女を俺のそばに繋ぎ止めておくにはどうしたらいいか、必死で思考を働かせたらあっさり方法は見付かった。

「ほら、これです。僕の顔の上で腰を振っているところです。よく撮れてるでしょ? 覚えていますか?」

 綾瀬さんにゆっくりとスマホの画面を向ける。

 お願いだからちゃんと画面を見て。もう俺から離れた方がいいよ。大好きな綾瀬さんが傷付くところは見たくないんだよ。
 だってほら、写真なんて本当は……。

 彼女が画面から目を背けることは何となくわかっていた。わかっていたからこんな大胆な行動をとったのだ。
 それなのに俺は相変わらず矛盾したことばかり考えていた。
 でも、それもやっぱり俺の気持ちの一部だったんだと思う。
 綾瀬さんが想像通りに目をつぶってくれたのが嬉しくて可愛くて、少しだけ寂しかった。

 明日俺の家に来るよう約束させた。
 人の知られたくない秘密を使って脅す……人間のクズみたいな行為を嫌悪していた俺が、綾瀬さんに同じことをした。
 どうして俺は彼女に嫌われる行動ばかり取っているんだろうな。本当は綾瀬さんに好きになってほしいのに。

 明日……綾瀬さんにどんな風に接しよう。一縷の望みにかけて友達に戻れるよう努力すべきだろうか。
 いや、写真で脅して繋ぎ止めただけの歪んだ関係だ。都合良く友達になんて戻れるわけがないんだから昨日の続きをすればいい。
 でも、そんな乱暴なことをしてまた泣かせたくはないし……


――定まらない気持ちのまま当日を迎えた。
 今日の綾瀬さんは俺を警戒していることが一目でわかる服装だったが、今のところは和やかに過ごせている。

 綾瀬さんの夏休みの過ごし方について軽い言い争いをしてしまったものの、それだって関係修復の第一歩かもしれない。
 本当に親しい間柄というのは言いたいことを素直にぶつけ合うものだと思うから。
 俺は綾瀬さんに好きになってもらいたいんだ。自業自得とはいえ嫌われている現状を変えなくてはならない。

 それにしても綾瀬さんがうちのリビングにいるなんて奇跡みたいだ。
 スマートフォンを持っている綺麗な手を盗み見る。細い指と色白の肌がとても女性らしい。さらさらと落ちてくる髪を耳にかける仕草は少し大人びて見えた。

 どうして俺の目には綾瀬さんの何気ない一瞬がこんなにも魅力的に映るんだろう。
 いつもそうだ。綾瀬さんを見つめる度に彼女の可愛さに気付かされて、もっともっと好きになる。

 ……ただ、今は課題をするべき時間だ。
 あまりうるさいことは言いたくないけど、サボりは二学期からの成績に響く。

「……どうして綾瀬さんはスマホを見てるんですか」
「息抜きだよ。息抜きも必要だってば」

 集中が切れた彼女はこうやって怠けて勉学を放棄してしまう。
 授業中に彼女の様子を観察しているとよく見かける光景だ。
 特に苦手な数学の授業中に多いのだが、こっそりスマホを弄ったり、落書きをしたり、教師の咳ばらいの数や口癖なんかを「正」の字で数えたり……ろくなことをしていない。

 そんな彼女を眺めるのに忙しくて教師の話を聞いていないのは俺も同じなのだが、俺は一応それなりの成績が取れる。
 綾瀬さんはそういうわけにはいかないようだから、もっと真面目に授業を受けるべきだ。

 彼女の評価を落とさないためにも課題は必ず明日までに終わらせたい。
 綾瀬さんは俺とは違う可愛らしい筆跡だけど、似せるのは簡単だった。
 俺は日直の時に綾瀬さんの自学ノート全ページを写真に収めたことがある。筆跡鑑定もしてみたが、鑑定で分かる性格などが驚くほど当たっていて感動したものだ。

 それからというもの綾瀬さんの機微に気付くために新しい筆跡を入手しては調べてみることを密かに行ってきたから、俺は彼女の筆跡を知り尽くしている。
 おかげで完璧に似せることができた。
 綾瀬さんと同じシャーペンの芯を使い、少し弱めな筆圧も再現しているし、担任にバレる可能性は限りなく低いはずだ。
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