Keep a secret
□ただ何となく
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「……どうして綾瀬さんはスマホを見てるんですか」
「息抜きだよ。息抜きも必要だってば」
リビングに戻り、勉強を再開した……けれど。時間が経つにつれてさぼり始めた私に代わり、時谷くんが課題を進めてくれている。
楽をするのは私の為にならない、二学期が始まったら勉強がわからなくなってしまう、時々そんなお説教を挟みながら。
しかし、これは作戦だった。なにせ時谷くんはこのことが万が一にも先生にばれたら私が怒られてしまうから「筆跡を似せます」などと言って真剣に取り組んでいる。
目の前の課題だけに集中している時谷くんは隙だらけだと言えよう。
彼が黒崎さん達のいいパシリにされてしまっていたのも納得だった。なんて頼み事を押しつけやすい人だろうか。
私に課題をやらせたいなら命令だと言えばいい。時谷くんの家へ来てからこれといって何も強要されていないのもおかしな話だ。
仲が良かった頃とほとんど変わらない態度を取られて複雑な気持ちになってくる。
私が今ここにいる理由は時谷くんに写真をばらまかれたくないからだ。
時谷くんはどういうつもりなんだろう。私と何がしたくて家に呼んだんだろう。
まさか課題を善意で手伝ってあげたいと考えてのことではないと思うんだけど。
考えても答えは出ない。それより隙だらけの時谷くんのスマホを狙った方がいい。
幸いにも私は時谷くんの右側に座っているから右ポケットに手を伸ばしやすい。
彼のスマホを抜き取ったら何食わぬ顔でトイレにでも行こう……左手をゆっくりとポケットに近付けながら時谷くんの様子を観察するが、やはり真剣そのものな表情で私に似せた字を書いている。
大丈夫だ……いける。私の指先がポケットから顔を出しているスマホに触れる。心臓がどっどっと早鐘を打つ。
大丈夫、大丈夫。落ち着いて――
「綾瀬さん」
「なにっ?」
突然の呼びかけに急いで手を引っ込める。もしかしてばれた……?
固く目を閉じて時谷くんの次の言葉を待つ。
「課題終わりましたよ」
「……課題? あ、ああ、課題ね」
明るい声に目を開けば時谷くんは自分のことのように嬉しそうに笑っている。
「これで明日提出出来ますね」
「うん。ありがとう。助かったよ」
だが、この感謝の気持ちと写真の件は別問題だ。あと数時間はかかると思っていたのに時谷くんが問題を解くペースが早すぎた。
これから何をするんだろう?
私からすれば課題が終わったら何もすることはない。まだ写真は削除できていないけどそれは別の機会にするとして、今日のところはおいとまさせていただきたい。
暇になってしまった今、男女二人きりの家でやることといえば……。
「綾瀬さん……食べたいな」
「きゃあっ」
ぼーっとしながら考えを巡らせている私の顔を時谷くんが覗き込んできた。
視界いっぱいに広がる大きな目と、それを縁取る長いまつ毛。近過ぎる距離だ。私は慌てて飛び退いた。
「綾瀬さんは食べたくないですか?」
た、食べたい?……ついに貞操の危機か?
「嫌だよ! 食べたくないよ!」
「そうでしたか……ごめんなさい。もう三時過ぎですし、少しお腹空いたなって……」
「三時? お腹?」
「綾瀬さんも同じかなと思ったんですけど」
「あ、あー……」
私の体から力が抜けていき、へなへなとその場にしゃがみ込む。
もう、時谷くんが紛らわしい言い方をするから勘違いしてしまったじゃないか。
時谷くんは私を犯すためにあの部室へ呼んだ、と言っていたからてっきり今日もそのつもりだと思っていた。
でも、今日の時谷くんにおかしな素振りは見られない。もしかしたら今日はちょっと暇だったから……とかそんな理由で家に呼んだの? そうであってほしいと願う。
「綾瀬さんが今考えていることを当ててみせましょうか?」
唐突な言葉に驚いて時谷くんを見上げる。時谷くんはしゃがんで目線を合わせると、困惑している私を眺めながら少し笑った。
「どうして今日は手を出してこないんだろう……でしょ?」
時谷くんの視界にはぽかんと口を開けた間抜けな私が映っていることだろう。
ほとんど正解だから動揺して視線が泳ぐ。この場を上手くやり過ごせる返しがとっさに出てこなかった。
「……本当にそう思ってたんだ」
時谷くんは面白くなさそうに呟いてそっぽを向いてしまう。心外だと言いたげな態度だが、私に警戒されるのも仕方ない前科持ちじゃないか。
とはいえ時谷くんを怒らせるのはまずい。何とか機嫌を取らなければ。
「綾瀬さん」
「時谷くん、ごめ――」
ごめんね。そう続けようとしたが時谷くんの思いがけない行動に飲み込まれた。
時谷くんに抱き寄せられている。突然のことで抵抗する間もなかったから私の体は大人しく腕に収まってしまっていた。
「あの……この体勢はなに?」
「……ただ何となく。今の流れで抱きしめたらどんな反応するかなと思って」
衣服越しに時谷くんの体温と静かな呼吸が伝わってくる。
このまま抑え付けられたら逃げられない。写真を消すこともできずに私の大切な何かが失われる可能性大。
「あ……今度こそ襲われると思ってますか」
「そっそれが何か!?」
「いいえ、何も」
ええ、思っていますとも。最早態度を取り繕うこともせずキレ気味で返したら耳元でくすくすと笑う声が聞こえる。
そうしてまるでわがままな駄々っ子をあやすみたいに優しく背中を撫でられる。
「綾瀬さんって可愛いですよね」
「ふ、ふざけないで」
「ふざけてないです。真夏に長袖を着てくるところも可愛い」
「っ!」
衣服に包まれた私の腕と太ももを時谷くんの手がゆっくりと撫でていく。
長袖の理由を見抜かれていたらしい。朝も私の全身を見ながら可愛いとか言っていたが、あれは小馬鹿にされてたんだ。
時谷くんの遠慮のない手が服の上から執拗に這う。隠された肌の感触を堪能するように内ももをやわやわと撫でられる。
そのいやらしい手つきはこれからの行為を私に想像させるには十分だった。
初めてがこんな形で失われるなんてあんまりだよ……!
プルルル――
多分、哀れな私に神様が救いの手を差し延べてくれたのだ。
「電話! 時谷くんのだよ。早く出なきゃ」
「親からでした。別に出なくても」
時谷くんは画面を一瞬だけ確認して再びポケットにしまった。
まさか出ないつもりか。そんなの困る。私は脳をフル回転させて説得を試みる。
「時谷くん、この着信が親御さんとの今生の別れだったらどうするの? 最後に何か大切なことを伝えたいと思っているのかもしれないよ。親って失ってから大切だったことに気付くんだよ。きっとこの電話を取らなかったら後悔するよ。一生後悔し続けるだろうね。あの時綾瀬さんの言うことを聞いておけばよかったなぁって!」
「構いません」
私の熱い説得は一言で片付けられた。鳴りやまない親からの着信を無視して、私の身体を更に強く抱きしめる。
だけど私だって神様がくれたチャンスを無駄にはできない。強い力に全力で抗って時谷くんの瞳をしっかりと見据える。
「この親不孝者! 今電話に出なかったら地獄行きなんだから!」
そして、泣きの一言。
「ハァ……わかりました」
引き下がらない私の相手をするのが面倒になったのか時谷くんは廊下へ出て行った。
顔も知らない時谷くんのご両親――勝手に危篤みたいな扱いをしてごめんなさい。
ですが私は、あなた方が海外に行っている間にお宅の息子さんに酷い目にあわされています。これくらいの失礼は寛大な心でお許しいただきたく思います。
私がほっとできたのはわずかな間だった。
「早かったね」
「充電が切れてしまいました。でも特に用事はないみたいだったので大丈夫です」
「そ、そう」
「映画でも見ますか?」
今生の別れなどではなかったのだろう。
時谷くんはテレビの前でスマホを充電器に挿してラックの上に置いた。その動作を見て名案が浮かんだ。
ああ、やっぱり今日の私には神様が味方してくださっているんだな。
クリスマスにパーティーをし、神社へ初詣に行き、ご先祖様の仏壇にお線香を上げる。節操なしの私になんて慈悲深いんだろう。
「さっきお腹空いてないか聞いたでしょ? なんかお腹空いてきちゃったよ」
「それならダイニングに行きましょうか」
「ここでお茶会しようよ。映画見ながら!」
自分でも驚くほど自然に喋れていた。
時谷くん、お願いだから私が考えた通りの行動をして。
「わかりました。僕はお菓子と飲み物を持って来ますね。紅茶とハーブティーどっちがいいですか?」
「どっちでもいいよ」
「DVDはラックの中にあるので好きなのを選んでおいてください」
「うん、ありがとう」
時谷くんは思惑通りリビングから出て行った。充電中のスマホを残して……。
念のため耳を澄ませると、廊下から物音は聞こえてこない。時谷くんがキッチンに入った……そう確信するのと同時に彼のスマートフォンを手に取った。
画面に光はない。電源が落ちてからそのままなんだろう。慌てて電源を入れた。
早く、早くして。焦る気持ちが電源がつくまでの時間を何十倍にも長く感じさせる。
時谷くんはスマホの電源が切れた状態でよく平気でいられるものだ。ラインや電話が来るかも……と心配にならないんだろうか。
少しの間でも気になってしまう私には理解できない行動だった。
やっと電源がついた。しかし、待ち構えているのはロックを解除するためのパスワード入力画面だ。
パスワード……パスワード……
今は一分経ったかどうか。時谷くんはあと一、二分で戻って来るはずだ。時間の余裕はないのにパスワードが検討もつかない。
誕生日が定番だけれど、時谷くんの誕生日は聞いたことがなかった。
その他に時谷くんが設定していそうな数字や単語を考えてもこれといって浮かばない。私は時谷くんのことをまだ全然知らなかったことを今になって痛感する。
例えばゆかりんなら愛犬の名前や彼氏の誕生日なんかをパスに選びそうだ。
私も中学時代は好きな人の誕生日を密かに設定したりしていた。パスワードって難解すぎて忘れてしまうものはよくない。
秘めた想い人の誕生日はいつだって頭の片隅にある大切な数字だからパスワードとして機能するのだと思う。
といっても時谷くんに現在好きな人はいないだろう。さすがに好きな人がいるのに他の女子を家に呼んだりしないと思うし、強姦未遂なんてもっての他だ。
パスワードを冷静に分析するには時間が足りないから、この際思いついた数字をやけくそに入れていく。
『1111』違う。『6666』これも違う。
「えっと、えーっと……あっ」
焦りながら何回かやり直すうちに何気なく入れた馴染み深い四桁の数字……私の誕生日で、ロックは解除された。