Keep a secret

□すっきりした
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 その後――時谷くんを追い出してから一人で後処理を済ませた。
 あそこからぬるぬるが止まらなくてティッシュを何枚も使ってしまった。
 昨日目が覚めたら綺麗になっていたのは時谷くんがしたんだろうな……生涯の恥だ。

「時谷くん、これからどうすっ!? 何やってるの!?」

 廊下に出て、時谷くんの姿が目に入ると思わず声がひっくり返る。

「……何も」

 彼は自身の手に舌を這わせていたのだ。何も、ってことはない。

「てて、手っ! 手と顔を洗ってきて!」
「わ、わかりました」
「早く! ダッシュで!」

 私を待っている間に水道で洗っておいてほしかった。
 のろのろと歩き始めた背中に野次を飛ばすと、時谷くんは気まずそうに振り返る。

「綾瀬さん、先にトイレに行ってもいいですか……?」

 時谷くんが前屈みになり、下腹部を押さえているのはもしかして……お腹を壊したの?
 私のせい? 私のあそこを舐めたから?

「ど、どうぞ……あと、なんか……ごめん」

 なんかわからないけど……申し訳ない。
 この上手く言い表せない複雑な気持ちを"なんか"という曖昧な言葉に全て込めた。

「い、いえ。謝らないでください。綾瀬さんは悪くないです」
「もうっ、時谷くん早く行って! 行っていいよ」
「は、はい。あの、もしかしてイッて……とかわざと言ってますか?」
「……わざと?」

 気まずさに耐えかねて急かすが、時谷くんは赤い顔でよくわからないことを言う。

「もー……いいから我慢しないで出してきて!」
「ハァ……イッてきます」

 最後に大きくため息をついた時谷くんに手を振って、その後ろ姿を見送った。


「……綾瀬!」

 水道で手を洗う私を呼んだのは、よく通るはっきりした声だった。
 急速に血の気が引いていくのを感じる。

「く、黒崎さん」
「ちょっと話いい?」
「うん……」

 私は静かに頷いた。





「え!? もう一回言ってくれる?」
「だから、あの約束は無しにするって言ってんの!」

 黒崎さんの話はつい聞き直したくなるくらい予想外なものだった。
 私と黒崎さんが交わしていた約束をもう守らなくてもいいと言い出したのだ。

 黒崎さんいわく、時谷くんがどんな反応をするか面白がっていただけ。十分楽しんだからもういい。時谷くんの秘密を流すつもりもない……なんて、さすがに何事かと思う。
 不気味だが、黒崎さんだって鬼じゃないんだ。血の通った一人の人間として多少は良心を持ち合わていたのかもしれない。

「今後時谷くんと一緒にいても問題ないってことでいいんだよね?」
「好きにすれば。でもさ、あんた達って付き合ってんの?」

 時谷くんとは昨日も今日もいかがわしいことをしてしまったけれど付き合っていない。
 私は時谷くんに逆らえないわけだから主従関係に近いんだろうか。少し大袈裟な言い方の気もするが。

「付き合ってないよ。ただの友達……」
「ふーん? 友達、ねぇ?」

 私の本心を探るような視線から目をそらす。本当は友達ですらないけど少しくらい見栄を張らせてほしい。

「じゃあ、私は行くね……」

 話も済んだことだし長居は無用。時谷くんが戻ってくる前に別れた方がいい。
 時谷くんと黒崎さんが顔を合わせるとまた面倒なことになるかもしれない。

「待って。お願いがあるんだけど」
「お願い?」
「今日みたいにあたしを探るような真似、二度としないで。簡単なことだろ?」

 真っ直ぐに私を見つめる黒崎さんの瞳はいつになく真剣だった。
 私達が廊下から保健室の様子を探ってたこと、やっぱり気付いてたよね。

「時谷にも言っておいて」
「うん、わかった」

 このお願いなら素直に頷ける。時谷くんは何故か変に気にしているようだったが、黒崎さんのことを探る必要などない。
 ……ただ、当の時谷くんは黒崎さんの言うことに素直に従わないかもしれない……という一抹の不安はあった。

「あ、あのさ。それって約束とかじゃなくて、あくまでお願いなんだよね? お願いを無視した行動を取った場合って……」
「まぁね、約束じゃないよ。でも……友達のお願いは聞くもんでしょ?」

 こんな時だけ友達呼ばわりされてもな。
 文句の一つでも言ってやりたいけれど黒崎さんの凄みのある表情に萎縮してしまう。

「わかった……」
「じゃ、よろしく!」

 黒崎さんは機嫌良く私の肩をばしばし叩いてから元来た方へと歩き出した。
 これで時谷くんと鉢合わせする危険性はなくなって一安心だ。
 ほっと息をついたところで黒崎さんがピタリと足を止めた。

「友達を裏切る奴には……制裁を加えるから覚悟してね」
「っ!」

 振り返った黒崎さんの冷たい目は本気だった。
 約束やお願いなんてもんじゃない、これは命令だ――
 この命令を聞かなければ今度こそやばいことになってしまう。怯んで声が出ない代わりに何度も首を縦に振る。
 そうして黒崎さんは今度こそ姿を消した。


 私は黒崎さんが行ったのとは真逆の方向、時谷くんのいるトイレに向かう。
 するとちょうど時谷くんがハンカチで手を拭きながら出てきたところだった。

「時谷くん! 話があるの」
「な、何ですか?」

 時谷くんの様子が変だ。私の顔を見るなり背中を向けて、声は上擦っている。

「どうかした?」
「い、いえ。ただ少し申し訳ないというか気まずいというか……」
「あ……ごめん。もう大丈夫なの?」
「は、はい。すっきりしました……」
「そ、そっか」

 そうだった。時谷くんは私のせいで腹痛になってたんだ。
 時谷くんがこちらに向き直っても妙にぎくしゃくしながら私達は話す。

「それで、話なんだけどね。さっき黒崎さんが来たんだ」
「あの女が? わかりました。僕に任せてください。二度と綾瀬さんに近付くなと言ってやりますね。話があるなら僕を通してほしいです」
「ちょ、待ってよ! 続きを聞いて!」

 時谷くんと黒崎さんが話したら絶対こじれる。速攻で電話をかけ始めようとする時谷くんの手を慌てて止めた。


「時谷くんわかった? 黒崎さんには金輪際近寄らないようにしようね」
「なるほど……」

 さっきの黒崎さんとの会話の内容を伝え終えると時谷くんは眉間に皺を寄せた。

「やっぱり黒崎さんにも探られたら困ることがあるということですね……」

 難しい顔をしている彼は何か余計なことを考えていそうで不穏だ。
 恐らく、時谷くんがもう秘密をばらされてもいいと言っていたのは強がりなどではなくて本心からなのだ。
 黒崎さんに開き直った態度を取るようになったのもそれが理由だろう。

 でも、私は嫌なんだ。今は黒崎さん一派しか時谷くんに実害を与えていないが、秘密が学校で広まったら他の生徒からも何かしらの嫌がらせを受けるかもしれない。
 勝手な思いだけど時谷くんがいじめられるのは嫌だ。

「もう黒崎さんに変な探りを入れようとしないでね。見付かったら時谷くんの秘密が流されちゃうんだよ。私はそんなの嫌だよ! 時谷くんがよくても私は良くないの。だから駄目! 反対!」

 今は黒崎さん一派しか時谷くんに実害を与えていないが、もしも学校で広まったら他の生徒からも嫌がらせを受けたり、偏見の目で見られるかもしれない。
 勝手な思いだけど、時谷くんがいじめられるのは嫌だ。

「綾瀬さんっておかしいよ……」
「ごめん……」

 私の主張をぴくりとも動かず静かに聞いていた時谷くんが、震える声でそう呟いた。
 確かに私が口出しするのは変かもしれない。時谷くん自身の問題なのだから彼がしたいようにすればいいんだ。きっと。
 わかっていても私は時谷くんのことが勝手に心配で、気になってしまう。時谷くんからしたら迷惑な思いだろうけれど……。

「どうして僕に優しくしてくれるんですか。僕は綾瀬さんに酷いことしかしていないじゃないですか」
「え?」

 私を見つめる時谷くんの瞳はいつの間にか潤んでいた。

「別に、そこまで優しくした覚えないよ」

 昨日は色々な作戦を決行し、入ったらいけない部屋に無断で入ったし、帰り際に時谷くんに水もぶっかけてやった。

「綾瀬さんは優しいよ。怖いくらいに優しい。本当は僕の気持ち悪い秘密を言い触らしてもおかしくないのに黙ってる……」
「当たり前でしょ。そんなことしないよ!」
「そう、ですね。綾瀬さんは中学時代のあいつらとは違う。怖かっただろうに前にも僕のためにあの女と約束までしてくれた。綾瀬さんは……僕以上に僕を守ろうとしてくれる」

 時谷くんは震える声も潤んだ瞳も全部まとめて笑顔に変えてゆっくりと言葉を紡いだ。
 時谷くんを守ろうだなんて、大それた考えがあったわけじゃない。
 だけど時谷くんが私を優しいと言ってくれるなら、間違いだったと後悔していた行動も全てが無駄ではなかったのかもしれない。

「黒崎さんに干渉したりしません。綾瀬さんが僕の秘密が流れるのが嫌だと言ってくれるなら、僕にとってもそれは嫌なことです」
「うん!」

 これで黒崎さんからの"お願い"という名の命令は守られる。
 肩の荷が下りたような、すっきりとした気持ちで私は頷いた。

「っと、もう正午ですね。どこかでお昼を済ませて遊園地に行きましょう」

 スマホで時間を確認した時谷くんは私の腕を引いて、階段を駆け降りていく。

「遊園地に行くにしてはちょっと時間が遅くない? 別の日じゃ駄目なの?」
「駄目です。今日がいいんです。今日までなので!」

 ……今日までって何が?
 よくわからないが、時谷くんが嬉しそうに笑うから付いていってもいいかなと思えた。


 目的地の遊園地は電車とバスを乗り継いで三十分ほどの距離にあった。
 思い出深い場所だ。小さい頃はお母さんに連れて来てもらっていたし、小学校の遠足や、友達とも何度か来たことがある。

 途中でファミレスに寄り、現在十三時過ぎ。パスポート売り場も空いている。
 私達の前に大学生らしきグループがいるだけで後ろは誰も並んでいなかった。
 ただ、そのグループがもたついているせいで列がなかなか進まない。

 原因は売り場の端っこにある、四方がピンクのカーテンで囲まれた怪しげな空間だ。
 そこへ案内されて入った人達がきゃあきゃあ騒いでいて、なかなか出てこないのだ。

「カーテンの中で何してるのかな?」
「しっ、知りません」

 顔を近付けて小声で話し掛けると、時谷くんは飛び退くように私から離れた。
 時谷くんは明らかに様子がおかしい。パスポート売り場に並び始めてからそわそわしてずっと落ち着きがないのだ。

 なんなんだろう?
 挙動不審の時谷くんを観察しているうちに大学生グループは購入を終えた。
 ついに私達の順番だ。

「ハイパードリームランドにようこそおいでくださいました。大人二名様ですね」
「無料券が一枚あります」

 素敵な笑顔の係員のお姉さんの挨拶を受けると時谷くんは財布から券を取り出した。
 そんないいもの持っていたんだ。

「これは綾瀬さんが使うんですよ」
「え、でも一枚しかないんでしょ? 時谷くんが使わなくていいの?」
「お客様そちらはレディース専用となっております。有効期限は本日までですね」
「えぇっ!?」

 間抜けな声を上げた私に、係員のお姉さんは追加で説明をしてくれた。
 メンズ専用の無料券も存在するらしいが、この券は女性用だから時谷くんは使えない。
 しかも期限が今日までとは……またタイムリーな話だ。時谷くんが言っていた今日までという言葉の意味を理解した。

「なら使わせてもらうね。時谷くんのパスポート代は二人で半分ずつ出そうよ」
「お客様ご安心ください。現在特別キャンペーンを行っております」
「何か割引とかあるんですか?」

 特別キャンペーン――心躍る響きだ。超お得な半額キャンペーンとかがいい!
 期待で瞳を輝かせた私とは違い、時谷くんは顔を強張らせる。
 何をそんなに緊張しているんだろうか。

「本日はスペシャルキスウィークキャンペーンの最終日です! あちらのカーテン内でキスをしてくださったカップル様のお一人分のパスポート代が無料になるんです。カップルは二人で一つですから! お客様も参加されますよね?」
「キ、キ、キ!?」

 動揺して"キス"すらまともに発音できない。
 衝撃でよろけながらもカーテンに視線を向ければ「キスはこちらでどうぞ」という貼り紙が目に入る。
 ま、まさかあの中でそんなちょっとエッチなことが行われていたなんて……!
 大学生グループが騒いでいたのも頷ける。

 でも、まあ……私達はカップルじゃないからキャンペーンの参加資格もないわけですし――

「参加します」
「っ!?」

 ところが、時谷くんが重い口を開いてとんでもないことを宣言してしまった。
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