Keep a secret
□壊れちゃった
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見馴れたベッドの上で目が覚める。嫌な夢でも見たのか、汗をかいていた。
「お腹、空いたなぁ……」
昨日はお母さんに具合が悪いと伝えて自室に閉じこもり、昼食も夕食も抜いている。落ち込んでいてもお腹は空くものなんだな。
それに、明後日が期限と言われている課題にまだ手を付けていない。
どんな事情があろうと期限は期限だからご飯を食べたらやらなくちゃ。
昨日のことはできるだけ考えないようにする。幸い今は夏休みで、時谷くんに会わなくていいんだから。
一階に降りるといつかを思い出すような話し声が聞こえてきた。
(本当に助かったわ。ありがとうね)
(お役に立てて幸いです。僕はこれで失礼しますね)
(そんな……ご飯でも食べていってちょうだい。もうすぐ七花も起きると思うから)
(いいえ、今日は帰ります。せっかく誘っていただいたのにすみません)
「っ!」
リビングから出て来たのは今一番会いたくない人物だった。
玄関に続く廊下を私はきっと塞いでしまっている。退かなければ彼は帰れない。
わかっていても私は固まったまま動くことができず、彼と対面することになった。
「七花! 起きてたの。具合はどう?」
「も、もう平気だよ」
続いてリビングから顔を出したお母さんによって気まずい空気は破られる。
「お邪魔しました……」
時谷くんはお母さんに軽く会釈し、私に視線を向ける。何か言おうと口を開いたように見えたけど、結局無言で私にも頭を下げてから出て行った。
静かに閉まった扉の音が何故だか妙に耳に残る。何を言おうとしていたんだろう。
「七花、見てごらん。直ったのよ!」
お母さんが嬉しそうに見せたのは目覚まし時計だった。朝が苦手な私のためにお父さんがくれたシンプルな物だ。
幼い頃はこの目覚まし時計でないと朝起きられなかったが、何年も前に壊れて動かなくなってからはその音を聞いていない。
でも数少ないお父さんとの思い出の品だから壊れてからも私の宝物の一つだった。
「今朝ゴミ捨てに行ったら薫くんに会ったの。それで」
「それで時谷くんを家に入れたの? 勝手なことしないでよ!」
私が時谷くんの家で気を失った後も時谷くんはお母さんと平然と会話をしていた。あんなことがあった後なのにへらへら笑っていたんだ。
二人きりになって謝ってくれたし、私自身にも落ち度があったからあの時は和解した。
――それなら今回は?
私の落ち度は時谷くんを無視したこと、酷い言葉を吐いたこと。
それに傷付いたのはわかるけど、時谷くんも昨日私に酷いことをたくさん言った。話し合いのためじゃない、犯すために呼び出したって言ったんだ。
酷い態度を取った私のことを嫌いになって復讐してやろうと思ったんだろうか。時谷くんのことをとても許せそうになかった。
「どうしたの恐い顔をして……薫くんとケンカでもしてるの?」
「ケンカなんかじゃないよ」
「薫くん、七花のことすごく心配してたよ。具合が悪くて部屋にこもってるって言ったら少し泣き出したくらい」
時谷くんが泣いた?……わけがわからない。泣きたいのは私の方なのに。
「もう時谷くんの話はいいってば」
「それで薫くんにこの時計を直してもらえないか頼んだの。こないだ家で話をした時に機械の修理とか得意だって言ってたから。最初はちょっと困ってたんだけどね。これが動けば七花もきっと元気を出してくれるって言ったら、直してくれるって!」
時谷くんが私の時計を直した。それが何だっていうんだろう?
お母さんには悪いけど、元気になるどころか怒りの感情が沸々と湧き上がってきた。
時谷くんは時計を直せば私達の関係も修復できるとでも思ったんだろうか。
「薫くんは優しい子だよね」
「優しくなんか……っ」
さっき時谷くんは何を言おうとしていたの。どうして昨日無理矢理最後までしなかったの。どうして帰り際にふらつく私に手を貸そうとしたの。
時谷くんの気持ちは全然わからない。どうして苦しそうな顔で酷いことをするの?
無性に腹が立った私は目覚まし時計を手に家を出た。
「時谷くん!」
自身の家に向かう途中だった時谷くんに声をかけると、彼はびくりと肩を揺らして立ち止まった。
「どうして昨日あんなことしたの。私が酷いこと言ったからやり返そうと思った?」
すぐさま駆け寄り、背中越しに話し掛ける私の声は自分でも驚くほど冷え切っていた。
「ちっ、違います!……僕は綾瀬さんと普通の友達でいることが嫌になって……」
普通の友達ってどういうこと。違うって言っているけど、友達をやめたいから酷いことをするっていうのはやり返そうとしたのと同じ意味だと思う。
これではっきりしたじゃないか。私達は友達には戻れない。私は時谷くんを傷付けて、時谷くんも私を傷付けた。
時谷くんに謝るつもりなんてないし、時谷くんもこれ以上私に余計な感情を持たないでほしい。
……私が大切にしていた物を直されても迷惑なだけなんだよ。
どうしようもなく苛立って、持っていた時計を衝動的に道路に叩き付ける。盤面はひび割れ、内部の小さな部品が大量に地面に飛び散った。
馬鹿な真似だ。お父さんとの思い出を壊すなんて。
すぐに後悔が押し寄せてくるけれど、これでいいんだ……これだけすれば決別の意思は伝わるだろう。
「また壊れちゃった……」
動かない時計を修理するのは大変だっただろうか。時谷くんは散らばった破片をただぼんやりと眺めている。
「そうだよ。もう絶対に直せないね」
「もう……直せない」
私の言葉を復唱すると、時谷くんはしゃがみこんで破片を一つ一つ拾い始めた。
「綾瀬さんの大切な物ではなかったんですか」
「大切だったよ。でも……もういいの」
探るような時谷くんの瞳をじっと見つめ返して応える。もう私達は関わらない方がいい。そう、強く目で訴えた。
しばらく見つめあった後、立ち上がり俯いた時谷くんを背にして私は踵を返す。
「写真……」
でも、小さな声に呼び止められた。
「綾瀬さん、写真……昨日部室で撮った写真があります」
昨日の写真って……その言葉の意味することに体が凍りつく。
「う、嘘だよ。写真なんて撮ってなかった」
「嫌がって目をつぶっていたから気付かなかったんですよ」
「そんな……」
確かに目を閉じていた時間もあったし、ずっと頭がくらくらしていて時谷くんが他に何をしていたか気にする余裕はなかった。
あの時の私は写真を撮られていても気付けないだろう。
「ほら、これです。僕の顔の上で腰を振っているところです。よく撮れてるでしょ? 覚えていますか?」
時谷くんはそう言ってスマホの画面をゆっくりとこちらに向けてくる。
忘れるわけがない……酷いことをたくさん言われ、怖かったのに身体は反応していて、惨めだった。あの時の私の姿が写真に残されていたなんて。
そんなもの見たくない。もう思い出したくなかったのに……!!
吐き気がこみ上げる。時谷くんの見せる画面から逃げるように顔を覆う。
喉元にまで胃液が来ていた。立っていることもできなくて私はその場に座り込んだ。
「やっぱり綾瀬さんは嫌いなものから目を逸らすんだ……だから俺のことも見てくれなくなったんだね……」
「え?」
「綾瀬さん、これからは……」
しゃがんだまま時谷くんを見上げた。俯いている表情も下からなら見ることができる。
なんだか寂しそうに笑っている時谷くんを見て、私も半ば諦めたような気持ちになった。だって、これから時谷くんが続ける言葉が容易に想像できてしまう。
「僕の言うことを何でも聞いてください」
「……嫌だって言ったら?」
「学校でこの写真をばらまきます。それから」
「ネットにも流すんでしょ?」
「……はい」
聞いたことのある脅し文句だ。言葉を先回りすれば時谷くんは一瞬目を丸くしてからばつが悪そうに顔を逸らした。
全て想像通りだからわかる。でも、時谷くんはいじめっこに向いてないよ。
黒崎さんの真似をしてみたって時谷くんは時谷くんだ。彼の態度はどこかぎこちない。
私は時谷くんに弱みを握られていて絶望的な状況のはずなのに、そんな風に思った。
私達の関係はいつからおかしくなってしまったんだろう。
やはり黒崎さんとの約束は間違いだったのかな。あの時はそれが一番良い選択だと思っていたけれど、それは独りよがりな考えだったのかもしれない。
今更後悔したところで、壊れてしまった関係はもう元には戻らない。
▽
「時谷くん、今日はもう帰ってもいいですか? お腹が空いて死にそうです」
「どうして敬語なんですか?」
「敬語を使わない奴隷は生意気かなと思いまして」
以前黒崎さんがご主人様に逆らう奴隷には制裁を加えると言っていた。
私の周りではいじめたり脅したりする対象を奴隷扱いするのが流行っているんだろう。
……なんて、黒崎さんが相手だったら絶対言えない嫌味だけれど。
「あの、今までみたいに普通に話してください」
「それは命令ですか?」
「……はい」
「わかった」
普通になんて無理だと思うけど頷いておく。時谷くんはさっきから戸惑っているような顔をしていた。
なんだか成り行きでこうなってしまって扱いに困っているみたいだ。困ったことになったのはどう考えても私の方なのだが。
「ねぇ、ずっと疑問だったんだけど時谷くんはどうして敬語なの?」
「それは綾瀬さんに失礼がないように、です。馴れ馴れしく接したら駄目だと思って……」
「……私にだけ敬語なの?」
「綾瀬さんの前だったらできるだけ誰に対しても丁寧に話すことを心がけています。それ以外だったら年上相手とか、TPOに応じてですかね。あ、黒崎さんには敬語で喋らないと怒られるので」
「へぇ……」
そういえば時谷くんが他の人と話しているところをあまり見たことがなかった。
私のいない場所でなら案外くだけた口調で話すのかもしれない。
それにしても本当によくわからないことを言う。私に失礼がないように……って昨日時谷くんが私に何をしたか考えてみてほしい。
彼も嫌味のつもりで言ってるんだろうか。
「じゃあ私は帰るね」
「待って」
これ以上無駄話をしたくなかった。
時谷くんにさっと背中を向けると腕を掴まれた。強く力を入れられたわけではないのに、途端に怖くなる。
「な、なに?」
「空腹のところをごめんなさい。綾瀬さんって何日なら予定空いてますか」
「え……」
それは危険信号の出ている問いだった。空いている日にちを正直に答えたら呼び出されて、今度こそ貞操の危機に違いない。
「明日はどうですか?」
「明日は忙しいから……ごめんね」
「それなら明後日は?」
「あーっと、お母さんに頼まれごとしてて」
明後日、明々後日……と続いていくお誘い全てに適当な用事を言って断っていく。
生憎にも時谷くんのことで頭がいっぱいだった私は友達からのお誘いを全て断っていた。私の夏休みはゆかりんと約束したお泊りの日までは予定なんて一つもない。
ただ、今の信頼できない彼とは片時も一緒にいたくなかった。
「いつだったらいいんですか」
「夏休み中はずっと忙しいの……」
時谷くんが段々イライラしてきているのがわかる。最初は困った顔をしていたのに、今は眉間にしわを寄せて不機嫌そうだ。
「明日僕の家に来てください。これは命令です」
「でっ、でも明後日までに課題をやらないといけないから……」
「ああ、綾瀬さんだけ未提出だと怒られていましたね」
「その通りでございます。だから明日は難しいかな」
課題のことは嘘じゃない。私が担任から説教を受けている時に時谷くんも教室にいた。
断る理由として正当だった。
「ハァ……」
呆れるようにため息をついた時谷くんを祈るような気持ちで見つめる。
「それなら明日の朝十時に課題を持って僕の家に来てくださいね」
「えっ!? ちょっと待ってよ!」
「綾瀬さん、ご飯はいいんですか。今から僕の家で食べていきますか?」
「い、いいえ。結構です。私はこれで失礼します!」
「また明日ね、綾瀬さん」
時谷くんは私が大好きだった可愛くて優しいあの笑顔を見せる。
だけど明日だなんて冗談じゃない。昨日みたいな目にあうのはもう嫌だよ。
どんなにいつも通りに見えたって裸の写真を撮って脅すような人なのだ。それを私は忘れてはいけない。
足元に散らばったままの思い出の欠片が名残惜しかったが、時谷くんに背を向けた。
「ただいま」
「七花おかえり! 外に出て体は大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、ありがとう。それよりもお腹空いたよー……」
時計のことを言われないか不安だったが、お母さんは何も聞いてこなかった。
……明日は時谷くんの家に行かなければならない。
言うことを聞かなかったら恥ずかしい写真がばらまかれてしまうのだから私に拒否権はなかった。
頭を支配している心配事のせいか、お母さんの料理はあまり味がしなかった。