Keep a secret

□見てるだけで
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――ただ見てるだけでよかった。彼女の笑顔を眺めることができたら、それだけで幸せだった。
 その笑顔は俺に向けられたものでなくても構わない。


 俺の家の、あの部屋で綾瀬さんが意識を手放した後――
 火照った体から急速に熱が引いていく。取り返しのつかないことをしてしまった。
 絶望感と後悔が押し寄せてきて俺の全身はガタガタと震えている。

「綾瀬気失ったのかー。で、どうだった? ヤッたの?」
「……綾瀬さんを送って来ます。今日はもう帰ってください」
「なー、時谷って綾瀬のことが好きなんだろ?」
「黒崎さん、綾瀬さんには手出ししないでください。お願いします」
「……あたし帰る」

 リビングで一人、我が物顔でくつろいでいた女は噛み合わない会話に苛立ったのか、ドアを強く閉めて出ていった。
 あの女は今後綾瀬さんにどう接するつもりだろう。しかし、俺もこんなことをしてしまって綾瀬さんとの今後なんて考えられる立場じゃない。

 綾瀬さんの乱れた衣服を整える。
 彼女の体は快楽に飲み込まれていたけど、同時に怯えて助けも求めていた。頬には涙の跡が幾筋もあって、胸が軋む。
 綾瀬さんは華奢な女の子だが、意識のない体を抱き上げるのは大変だ。
 逃げようともがく彼女を組み敷くのは簡単だった。傷付けるのは簡単で、俺にだってできる。
 でも、誰かを支えるには大きな力が必要で、それはきっと俺が持っていないものなんだ。

 だから――綾瀬さんに嫌われてしまったのも無理はない。
 近付かないでという言葉は俺が受けるべき当然の報いだと思った。


 去年と同じ、何ひとつ予定のない夏休みが来た。
 学校がなければ綾瀬さんの姿を遠目に眺めることも叶わない。ただただひたすらに苦痛で、地獄の時間だった。
 それでも彼女の姿を一目見ようと二階の自分の部屋の窓に四六時中張り付いていた。
 時々彼女の家に入っていく高橋ゆかという綾瀬さんの友達が羨ましく、そして心底妬ましかった。
 俺が立ち入ることのできない綾瀬さんの世界に、高橋さんはいつだって存在するんだろう。
 少し前までは俺もその世界にいたのかもしれないが、もうその温かい場所への戻り方がわからなかった。

 毎日毎日朝起きてから夜眠るまで、いやきっと夢の中でも綾瀬さんのことだけ考えて過ごしている。想いは募るばかりで止まることを知らない。
 綾瀬さんと友達になったばかりの頃は純粋に嬉しくて幸せだった。

 彼女の隣に並び、話ができる――
 それは身にあまる幸福なことのはずなのに俺はいつの間にか欲張りになって、綾瀬さんのたくさんいる友達の中の一人では満足できなくなった。

 俺は彼女の特別になりたいんだ。俺が抱いている感情と同じものが彼女から与えられないのは苦しい。
 見ているだけで幸せを感じていた頃にはもう戻れそうもなかった。





 登校日の朝、あの女から呼び出しを受けた。
 終業式以降連絡がなかったから俺を相手にすることに飽きてくれたのだと思ってたんだが……持ってくるようにと言われた悪趣味な物を渡したら早く教室に行きたい。
 綾瀬さんと同じ空間にいられる希少な時間を一秒でも無駄にしたくない。

「サンキュー時谷! 今日は彼氏といちゃつくんだー」

 この女の彼氏というのはどんな人物なのか疑問だった。まともな人間ならこの女とは付き合わないはずだ。恐らく彼氏の前では猫被りしているんだろうな。
 綾瀬さんの前では優しく真面目な優等生であろうとする俺のように。

「では僕はこれで」
「おい。お前さぁ、あんま生意気な態度取るなよ。あのことばらされたいわけ?」

 早く綾瀬さんの顔が見たい。この時間が酷く煩わしくて、俺は不機嫌を隠せていなかったんだと思う。

「ごめんなさい」

 気を悪くしたようだからとりあえずの謝罪をする。俺に逆らう意思がないことを示せばこの女は満足するらしく、いつも適当にやり過ごすことができていたから。

「黒崎さん……僕のこと綾瀬さんに言ってませんよね?」
「どうかなー? じゃ、もう行くわ」

 ……くそっ。疑問に答えず去っていった軽やかな背中に、言葉にはできない苛立ちをぶつけるしかなかった。


 教室内は夏休みどこに出掛けたとか、これからどこに出掛けるとか、そんな話題が飛び交っていて騒がしい。そのどれもが自分には無縁のことだからうんざりもする。
 窓際で高橋さんと談笑中の綾瀬さんもそんな話をしているんだろうか。

 でも、何となく元気がないように見える笑顔だ。
 理由はなんだろう。俺が彼女の笑顔を曇らせた原因だったらいいのに。
 だって、もうその笑顔は俺に向けられることはないんだから。
 彼女の感情を少しでも揺さぶることができたなら、それは俺の新たな幸せになり得るんじゃないか。

 やがて高橋さんは綾瀬さんの元から離れて教室中を周り始めた。
 高橋さんのよく通る高い声は聞きたくなかった情報まで俺の耳に届ける。
 泊りがけで遊びに行くんだな……親しい人に声を掛け、既に行くことが決まったメンバーの名前を読み上げているが、その中にはもちろん綾瀬さんの名前も入っていた。

 綾瀬さんには友達が大勢いて、彼女の予定は俺の関与しないところで簡単に埋まっていく。
 俺なんかいなくても彼女の日常には何の影響もない。浮かない笑顔の理由だって俺と関係があるはずないんだ。

 胸が痛い。刃物で心臓をめった刺しにされたみたいだ。
 痛いのは"心"という形のないもののはずなのにどうして心臓の辺りが痛くなるんだろう。外傷はなくてもこんなに痛いなら俺は死んでしまうんじゃないか。
 そうなったら殺したのは綾瀬さんということになる。けれど外傷がないからこれは完全犯罪で、彼女には何の影響もない。
 俺は例え死んだとしても綾瀬さんの人生に傷一つ付けることはできないの?
 馬鹿だとわかっていても考えを巡らせるほどに息ができなくなる。

 ……苦しいよ綾瀬さん。俺を幸せな気持ちにさせて。
 ただ見ているだけでよかったんだよ。彼女の視界に入ることを望んだことはなかった。見ているだけで満たされていたはずなんだ。
 救いを求めて綾瀬さんを見つめても、苦しいのは治まらない。
 全然幸せな気持ちになれない。満たされない。足りない、足りない。俺だけに向けられた笑顔が欲しいんだ。

 苦しくて苦しくて胸が潰れてしまう――

 そんな時に綾瀬さんが俺を見た。
 窓から差し込む陽射しに照らされた綾瀬さんの姿は少し眩しい。いや、彼女を眩しく思わない瞬間なんてなかったか。

 しっかりと交差する瞳と瞳。視線が合ってぼんやり思う。
 もしも綾瀬さんが笑顔を向けてくれたら、俺は救われる。
 いや、本当は救われなくたって無理矢理納得してみせる。見ているだけで幸せだったあの頃の自分に戻るから。
 でも、もしも綾瀬さんが視線を逸らしたなら、これから俺は………

 綾瀬さんが視線を逸らすのは当然だ。笑ってくれるはずがないことくらい最初からわかっていた。
 わかっている上で、心に決めた。胸の痛みもいつの間にか消えている。





 あの女やその取り巻きに呼び出され、相手をさせられるのは大抵この部室でだった。
 ここに綾瀬さんを呼び出して何をしようか。綾瀬さんの感情を支配できることがいい。
 もう笑顔を向けてもらえないのなら俺以外に見せる笑顔だって消してしまいたい。そうして俺のことだけ考えていて。

「黒崎さん、遅いね」

――綾瀬さんは案の定あの女からの呼び出しだと勘違いしていた。
 いつあの女と関わりを持ったんだろう。俺のことで何か聞いただろうか。
 何も起こって欲しくなかったから俺とあの女のことで関わらないでとお願いしたのに……それでも優しい綾瀬さんは見てみぬふりなんてできなかったんだろう。

「時谷くん、とりあえずここを出ようよ」
「ここから出したら話もしないで逃げるんでしょう」
「は、話すよ。ちゃんと話すから。なっ、なに……?」

 俺が何か言う度にびくびく震え、一歩近付けば退いて距離を取ろうとする綾瀬さんが健気で、とても可愛らしい。
 でも……この部室は狭いからあと数歩で捕まってしまうかもしれないですね。

「犯されるかもしれないと思いながら待ってたの?」
「ち、違うよ……」

 俺に犯されるかもしれないと考えませんでしたか?

「僕の家であったことを想像した? 不安だった?……これから何をされると思う?」

 俺の家では感じてくれていましたね。
 これからどうしよう。やっぱりこういうのって痛い方がいいのかな……。

「俺が怖いの?」

 綾瀬さんの瞳にはもう俺しか映っていない。やっと彼女の視界を独占できた。
 彼女の瞳に映る俺の顔は歓喜に満ちている。
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