Keep a secret

□俺が怖いの?
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――時谷くんと話すことなんて何もない。もう私に近付かないで。

 その言葉は時谷くんを傷付けた。本心じゃないと訂正できたならどんなにいいだろう。
 黒崎さんの視線に怯える私はふらつきながら自分の家に入っていく時谷くんを見送ることしかできなかった。

「あははっ、時谷の顔見た? 世界の終わりみたいな顔してたね。綾瀬はきっついなー。時谷かわいそー」
「く、黒崎さんが……っ」
「あたしがなにぃ? 言っとくけど、あそこまでへこんでる時谷初めて見たよ。あいつ、あたしがどれだけ痛めつけてやっても無表情で、なんか他人事みたいな態度だからずっと気持ち悪かったんだよね。まあ、綾瀬が一緒だとちょっと違ってたけどさ」

 他人事みたいな……時谷くんの家で勉強を教えてもらった日、自分のことなんてどうでもいいと言っていたけれど、時谷くんにとっては黒崎さんから受けるいじめすらも他人事のようだったっていうの?

「…………」
「良いもん見せてもらったし帰るわ。お互い約束は守ろうね? 良い夏休みをー」

 黒崎さんは最後に釘をさして帰っていった。
 夏休みも黒崎さんとの約束を守らなくちゃ。誰にも見られない場所なんてないのかもしれない。
 そう、今も誰かがどこかから私を監視しているのかも……そんな被害妄想に襲われ周囲を見回すが、当然誰もいない。
 酷く足が重い。すぐ近くのはずの我が家が途方もなく遠い距離に感じた。

 その日の夜、時谷くんからラインが一件届いた。

『電話していいですか?』

 悩んだけれど、返信はしなかった。
 電話なら誰にも話を聞かれない。昼間のことを謝れば時谷くんは許してくれると思う。
 でも、その後はどうするの。黒崎さんの目を盗んで、怯えながらこそこそと交流を続けるのだろうか……?

 黒崎さんに脅されているからこのまま仕方なく時谷くんと距離を置く――
 多分それが、これ以上何も起こらず傷付かずに済んで、自分にとって一番楽な選択肢。
 だから、ずるい私は時谷くんに返信することを躊躇してしまった。





「うわああんっ、やだやだっ! 怖いよぉ怖いよぉ……っ!」
「七花、大丈夫だよ。怖い時には目を閉じてればいい。次に目を開けたらもう怖いことは終わってるからね」

――懐かしい夢だ。私が覚えている数少ないお父さんとの思い出。
 注射が嫌だとグズる幼い私にお父さんが教えてくれた"おまじない"。言う通りに目を閉じたらいつの間にか終わっていたから、お父さんはすごいなあって思ったんだった。

「んん……」

 枕元でアラームが鳴る。久しぶりに時間に縛られて起きる朝。今日は学校に行くのだ。


――時谷くんと一度も会うことがないまま、一回目の登校日がやって来た。
 私は終業式から今日まで、ほとんど家から出ていない。時谷くんを傷付けておいて遊びに行こうとは思えなかったから家の中でずっとうじうじ悩みながら過ごしてしまった。
 我ながら酷い夏休みだったと思う。元気のない私を心配したゆかりんが何度か家まで来てくれたことだけが救いか。

 でも、今日は心待ちにしていた登校日だ。
 時谷くんは私の言葉で今も落ち込んでいるだろうか……話すことはできそうもないけど、彼の元気な姿を早く見たい。

 教室の窓にゆるくもたれかかり、登校してくる生徒を眺めている私の元へ、ゆかりんが駆け寄ってきた。

「七花、おっはよー! ちゃんと課題やってきたぁ?」
「あ……忘れてた」

 大失敗をやらかした。あまりにも無気力な生活を送りすぎていて、課題という存在自体を綺麗さっぱり忘れてしまっていた。
 何一つ手をつけていないのはさすがにまずい。成績にも響きそうだ。私ももっとしっかりしなければな。

 反省もそこそこに教室の入口に目を向けると、ちょうど時谷くんが入ってきた。
 見た感じ特に変わったところはない。十五日程度しか経っていないんだから当然かもしれないけれど、それが妙に嬉しかった。
 私は周囲のことも忘れるくらい、時谷くんだけをじっと見つめていた。だからか、ゆかりんが私の肩にポンッと手を置く。

「七花〜! 時谷くんも誘う?」
「えっ……誘うって?」
「もうっ、忘れちゃったの? 私の叔父さんの別荘でみんなで合宿しようねって話!」
「そういえば……」

 夏休み前からの約束を思い出す。
 ゆかりんは二回目の登校日の翌日……八月二十一日から夏休み最終日までの期間、面倒な課題の追い込みのために合宿をするという計画を立てて張り切っていたんだった。
 もっともみんなで勉強するなんていうのは別荘を借りるための口実でしかなく、期間中の昼間は全て遊びの予定で埋まっている。

「どうする? 私が誘ってきてあげよっか?」
「どうしてそんなこと聞くの……?」
「だって七花、時谷くんを気にしてるんだもん。誘いたいのかなって」
「…………」

 以前の私ならどんなに喜んだかわからない提案だけど、今は時谷くんと一緒でも話せないから気まずいし、複雑だ。
 私が返事に困っているとゆかりんは「違うならいいんだけどね」と笑って、他の仲の良いクラスメートに声をかけに行った。
 誘いに乗った人とゆかりんの大きな話し声は教室中に丸聞こえだ。
 みんな浮かれてるな。夏休み……だもんね。
 来年は受験生だから、高校生の夏を思いきり楽しめるのは今年が最後――

 つい、時谷くんに視線を向けた。彼も私を見ていたんだろう。ぱちりと目が合った。
 久々にしっかり見据えた綺麗な瞳に鼓動が早くなる。時谷くんは何となくぼんやりとした表情で私を見ているけれど、彼は決して視線を逸らそうとはしない。

 窓際に立つ私と、廊下側の一番後ろの席に座る時谷くん。見つめあったまま、何をするわけでもない時間がゆっくり流れていく。
 騒がしかったはずの周囲の声も今は遠い。

 一秒、二秒、三秒。どくんどくんと早い鼓動はきっと気持ちまでも急がせる。
 顔が赤くなっていたらどうしよう……私は急に不安になって時谷くんから目を逸らした。





 未提出の課題のことで担任に叱られ大恥をかいたものの、なんとか下校時間がきた。
 早く帰って今日までの範囲の課題をやらなければならない。三日後までに必ず持って来るようにと言われている。
 彼氏の押野くんとデートだというゆかりんを羨ましく思いながら靴に足を通すと、靴の中で紙を潰したような感触があった。

「っ!」

 こ、これはもしやラブレターというやつなのでは……?
 期待で胸が膨らむなか、靴に入っていたノートの切れ端を読んだらその期待はあっという間に裏切られた。

『放課後 あの部室に来て』

 不親切で配慮に欠けたこの文言を書きそうな人物に一人だけ心当たりがある。
 "あの部室"というのも恐らくあそこだ。ちゃんと約束を守っているのに何の用だろう。


 第三運動場にある部室棟の一室に来たが、まだ誰も来ていなかった。
 でも、場所が間違っているということはないはずだ。前回黒崎さんがお昼ごはんを食べていた椅子に腰を下ろす。

 しばらくして、ドアが開いた。

「黒崎さ……え?」

 予想外な人物の登場に面食らってしまう。入ってきたのは時谷くんだった。
 ……そうか、時谷くんも黒崎さんに呼び出されたんだ。時谷くんまで呼ぶなんて本当に何の用だろう。益々憂鬱になってくる。

「黒崎さん、遅いね」

 時谷くんと話したらいけない。わかっているのに無言の時間が耐えられなくてつい声をかけてしまった。

「黒崎さんなら来ませんよ。恋人と約束があるそうです」
「そんな!」

 人を呼び出しておいて帰るなんて勝手すぎる。予定ができたならできたで一言伝えに来るのが筋じゃないか。
 腹は立つけれど、当の本人が来ないなら仕方ない。私が腰を上げると、時谷くんは静かにドアの前に立って出口を塞いだ。

「綾瀬さんは……僕が呼びました」
「え……時谷くんがあの手紙を書いたの?」
「どうして黒崎さんからだと思ったんですか」
「どうしてって……」
「"あの部室に来て"とだけ書いたのに、ここだとわかった理由は?」

 手紙を読んで、差出人として真っ先に頭に浮かんだのは黒崎さんだった。
 この部室は黒崎さんと件の約束をした場所であり、時谷くんが性的なことを強要されている場面を目撃した場所でもある。
 黒崎さんが誰かを呼び出す際にこの部室を使っていることを私は知っていたからで……。

「黒崎さんにここに呼び出されたことがありますか」
「そ、れは」

 時谷くんは淡々とした口調で私が答えるより早く喋り続ける。表情一つ変えずに紡がれる言葉たちにじわじわ追い詰められていく。

「あの女に何を言われたの? 何をされたんですか」
「え……」

 あの女……という言葉が黒崎さんを指しているのだと気付くのに少し時間が必要だった。
 ずっと虐げられてきた相手なのだから当然かもしれないが、いつも丁寧な口調の時谷くんからは想像しにくい呼び方だったからだ。

「別に……黒崎さんとは何もないよ」
「それなら前に僕が黒崎さん達に迫られているのを見ていたから、ここかもしれないと思ったんですか」
「っ!」

 やっぱり時谷くんは私が覗いていたことに気が付いてたんだ。あの時、目が合ったと思ったのは勘違いじゃなかったんだろう。

「この部室で待ってる間、何を考えていましたか。黒崎さんに僕みたいなことをされるかもしれないと思いませんでしたか。僕が入って来てどう思ったんですか」

 温度のない声で尋問みたいに問いただされて、答えを完全に失った。
 この部室棟の近くには誰も来ない。私と時谷くんが一緒にいるところを目撃する人はいないだろう。
 誰もいない……嬉しいはずなのに不安が襲う。

「時谷くん、とりあえずここを出ようよ」
「ここから出したら、話もしないで逃げるんでしょう」
「は、話すよ。ちゃんと話すから。なっ、なに……?」

 時谷くんがゆっくりと近付いてくる。一歩一歩、着実に縮まる距離に以前と同じ危機感を覚えていた。

「犯されるかもしれないと思いながら待ってたの?」
「ち、違うよ……」
「僕の家であったことを想像した? 不安だった?……これから何をされると思う?」

――これから、何をされるか?

「あ、あ……や、やだ……」

 狭い密室だ。逃げ場所なんてどこにもなくて、時谷くんの大きな瞳が視界いっぱいに広がる。

「俺が怖いの?」

 その黒く濁った瞳には、怯える私が映っていた。
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