Keep a secret
□近付かないで
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重りでもつけられたのかと思うくらい足が重い。さっき交わした黒崎さんとの約束が頭をぐるぐる巡るなか、階段を上っていく。
「綾瀬さん」
待ち構えていたのか教室に入ってすぐに時谷くんが駆け寄ってくる。
その瞬間、気になるのは教室内にいるクラスメート達の目だった。
前はいじめられている時谷くんと仲良くしていたら自分もクラス内で浮いてしまうんじゃないかと怖かった。
でも気にせず話すようになって……最初こそ物珍しく見られている感じがしたけど、今となってはもう私と時谷くんのことを気にしている人はいないように思う。
それでも再び視線を意識してしまうのは黒崎さんとの約束があるからだ。ここで時谷くんと話したらクラスメート経由で黒崎さんに伝わるかもしれない。
「もう授業始まるから」
「あ……」
時谷くんが何かを喋る前に自分の席に座り、素早く教科書を開いた。時谷くんは一瞬私を追いかける素振りを見せたけれど、途中で諦めて席に戻っていく。
なんて不自然でわざとらしい態度。普段の私が休み時間に教科書に目を通すことなどない。今話しかけられたくない、という意思はきっと伝わっただろう。
「綾瀬さ」
「ゆかりん! 久しぶりに一緒に帰らない?」
「おっ、いいねっ! ちょっと待ってて! 今日は七花と帰るって彼氏に伝えてくるよ」
ホームルーム後、時谷くんに誘われるより先にゆかりんに声をかけた。
罪悪感がチクチク胸を刺す。私はどうしてこんなことしているんだろ。時谷くんを守りたいだけなのに結果的に傷付けている。
「……綾瀬さん、さようなら。また明日学校で」
時谷くんが小さくお別れを呟いて背を向ける。その背中があまりにも寂しそうだから本当は引き止めたかった。
けど、それは黒崎さんとの約束に反する。破っても破らなくてもこちらだけが痛い思いをする、対等でもなんでもない枷のような約束だ。
▽
それから一週間、私は時谷くんを徹底的に避け続けた。
周りは私達が不仲になったというより、私が時谷くんをいじめ始めたと思っているみたいだ。私が黒崎さんのグループに加わったとかいう噂まで耳に入ってきた。
いじめか……あからさまに無視をしているんだからその通りなのかもしれない。
楽しみにしていた夏休みがやっと始まるのに私の心は沈んだままだった。
「七花、夏休みはぱーっと遊ぼうね。みんなも誘って海行こう海!」
「うん……楽しそう」
「早速帰りにどこか寄ってごはん食べよ〜」
終業式が終わった教室内ではこれからの予定を楽しそうに話している生徒ばかりだ。
いつもの何倍もテンションが高いゆかりんとそんな会話をしながらも頭にあるのは時谷くんのことだった。
時谷くんとも夏休みにどこか出掛けようって話していたけれど今の状況では到底叶いそうにない。楽しい思い出を作りたいと笑っていた時谷くんを思うと胸が痛くなる。
廊下に出ると時谷くんがいた。壁にもたれ掛かってこちらを見つめている。
隣を歩くゆかりんの話に相槌を打ちながら、気持ち足を早める。
痛いくらいの視線が突き刺さるなか、無事に時谷くんの前を通り過ぎた――
「綾瀬さん、来て」
と思った瞬間、腕を掴まれた。
「ごめんゆかりん! 先に行ってて」
「え……昇降口で待ってるよ」
時谷くんは無言で私の腕を引きながらずんずん進んでいく。廊下ですれ違う生徒は私達を不思議そうに見ている。
まずい。変に目立ってしまっている。時谷くんと一緒にいたことが黒崎さんの耳に入ったら全て終わりだ。早く離れなければ。
「手離して! 腕が痛いよ」
「ご、ごめんなさい」
私の抗議に時谷くんはハッとした表情で振り返り、ようやく手を離してくれた。
黒崎さんと約束をしてから時谷くんとこんなに近い距離で言葉を交わしたのは初めてだ。私が意識してゆかりんや他の友達と行動を共にするようにしていたからなのか、時谷くんもあまり近寄ってこなかったから。
だけど、今も周りに他の生徒がいる。悠長に話しているわけにはいかない。
「綾瀬さん、強引にごめんなさい。どうしても話がしたくて……」
「ゆっ、ゆかりんを待たせてるから。ごめんね!」
一方的に言うとすぐさま走って時谷くんから離れる。さっき私達を目撃した人が黒崎さんに伝えたらどうしよう……。
不安が頭を満たしている。私はとにかく時谷くんに追いつかれないよう足を動かすのに必死だった。
「ゆかりん!」
「急に行っちゃうからびっくりしたよ〜って、わわっ」
下駄箱でゆかりんを見付けたらほっとして、こらえていたものが溢れ出てくる。気付けば泣きながらゆかりんに抱き着いていた。
「ゆかりん……っ、わたし……っ」
「七花……時谷くんと何があったの?」
その問いにぶんぶんと首を横に振る。
例えゆかりんでも黒崎さんとの約束のことは話せない。それでもくっついて離れない私の背中をゆかりんは優しく撫でてくれた。
「ほら。鼻ちーんして!」
「自分で出来るってばぁ……」
「……ねぇ、七花が話したくないことなら私も聞かない。でも私は七花の味方だよ。それだけは忘れないでほしいの」
今日は寄り道するのはやめにして、ゆかりんと二人きりの帰り道。いつまでもぐずぐず情けない私の世話を焼きながらゆかりんが照れくさそうに笑った。
「ゆかりん……」
「おっ、鼻水止まったね。じゃあ私こっちだから。まったねー! 後でラインするよん!」
そして、気恥ずかしさを隠すように早口で手を振って帰っていった。
ゆかりんは優しいな。私の大切な友達。
友達――もう一人の大切な存在が頭をよぎって、また胸が痛んだ。
普段は無表情な彼が、私にだけ見せてくれる笑顔が大好きだったのに。
目に入った我が家の前に誰か立っている。遠目でも立ち姿でわかる。同じ高校の制服を着た男子、時谷くんだった。
ここは学校じゃない。同じ学校の生徒が誰も見ていなければ時谷くんと話をしても黒崎さんに伝わることはないのでは……?
そうだ。どうしてこんな簡単なことに気がつかなかったんだろう。
再び泣きそうになるのを堪えて走り出そうとした。すると、時谷くんの背後に隠れていた女の子と目が合った。
「ひっ」
どうして黒崎さんがいるの。もう時谷くんに何もしないって約束したのに。
私に気付いた時谷くんが小走りで駆け寄ってくるのが見える。
駄目、だ……黒崎さんがいる前で話せない。今すぐ離れなくちゃ。
「綾瀬!」
「っ!」
私の名前を呼ぶ黒崎さんの大きな声が金縛りみたいに私をその場に引き止める。
「綾瀬さん、ごめんなさい。これ以上迷惑だってわかっています。それでも謝らせてください」
目の前の時谷くんが必死で何かを伝えようとしていても全然頭に入ってこない。
ゆっくりとこちらに近付いてくる黒崎さんのことで私の頭はいっぱいいっぱいだった。
「よお、綾瀬。あたしは前に時谷に借りてた物を返しに来ただけ。もう帰るとこ」
「そ、そう」
つまり時谷くんに何も手出ししていない、約束は守っていると言いたいんだろうか。
黒崎さんは時谷くんから見えないように人差し指を口元に当てて笑う。私も約束を守れと言われている気がした。
「考えたんです。綾瀬さんは僕の家でのことを怒ってるんだって。無理もありません……僕は最低なことをしました」
時谷くんは時谷くんで余裕がないんだろう。この場に黒崎さんがいることなど全く気にせず私に語りかけ続けている。
私はその言葉たちをぼんやりと聞きながらも黒崎さんから目を離せない。
「とても後悔しています……綾瀬さんの信頼を取り戻せるよう努力します」
ああ、お願いだからもうやめて。
黒崎さんが見てるんだよ。約束を守らなかったらどうなるか……。
「お願いします。もう一度チャンスがほしいんです」
「……チャンスなんてないよ」
このままじゃ駄目だ。黒崎さんが見てる。見てるんだから……
「時谷くんと話すことなんて何もない。もう私に近付かないで」
「っ!」
私の口からは驚くほど冷たい声が出た。黒崎さんがこれでよかったんだと満足そうに頷いている。
時谷くんは……長い前髪が影を作って表情はあまり見えない。でも、ガタガタと全身を震わせている。
彼の怯えた様子で、取り返しのつかないことを言ってしまったと気付く。
本当はこんなことが言いたかったわけじゃないのに……私はきっと、大きな間違いを犯したのだ。