Keep a secret
□抑えきれない
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「なぁ、聞いたー? 時谷の親ってエロい店経営してんだってさー」
「聞いた聞いた。法律すれすれのやばいもん売ってるんだろ?」
「マジかよ。頼んだらくれないかな?」
「もー馬鹿ぁ!」
「でも、ちょっと興味あるよね」
「あははっ、やめとけって。ドラッグ漬けからのAV出演コースらしいぞ」
「それでアダルトビデオとか売ってるんだー! こわーい!」
「時谷も年上の女に体売ったりしてるって」
「えー? 真面目そうに見えるのに。あ、でも親が親だから……ねぇ?」
「なんか見る目変わるね」
「うん。気持ち悪いよね」
中学生はこの手の話に一番興味を持つ年代だ。伝言ゲームのように事実じゃない情報を増やして噂は広まっていった。
今考えれば小学生時代のいじめはまだマシだったと思う。
俺が触るとエロ菌が移ると言われたり、エロと薫を掛けて"エロる"と呼ばれたり、幼稚な嫌がらせには俺も言い返していたし、時には取っ組み合いの喧嘩になることもあった。
親は生傷の絶えない俺を心配して私立の中学に進学させた。
通っていた小学校からその中学に進学したのは俺一人だけ。
初めはよかった。親のことを誰も知らない場所で当たり前のように友達もできた。
変わったのは中学一年生の二学期、一番仲の良かった友達に秘密を打ち明けたことがきっかけだった。
あいつは俺に何でも話してくれたから俺も親への不満や愚痴を聞いてもらいたくなったんだ。
ただ、話したのは間違いだった。
翌日、俺の友人グループから噂は始まり、クラス中に広がって、学年全体、終いには一部の先輩達にまで知れ渡った。
昨日まで確かに友達だったはずのあいつは軽蔑したような目で俺を見るんだ。
「今まで大変だったんだな。俺ら友達だろ? 誰にも話さないから安心しろよ」
昨日そう言って笑ってくれたのに本当は笑顔の裏で何を思っていたの?
俺は親とは違うと主張したところで意味はない。
俺だってずっとずっと思っていたことだ。父さんも母さんも、きっと俺も……
「いやっ、気持ち悪い……っ」
「っ、気持ち、悪い……?」
これまで数え切れないほど言われてきた。だけどその拒絶の言葉は何度でも俺の胸を抉り、深い深い傷を作る。
「どうしてこの部屋に入ったんですか……っ」
怒り、焦り、それとも恐怖からか。無意識にも綾瀬さんを壁に追いやって、力の加減もせずに細い肩を掴んでしまう。
綾瀬さんは俺の秘密を探ろうとしてこの部屋に入ったんだろうか。
もしそうなら綾瀬さんは俺に隠したい秘密があることを知っていたのか。
「わ、私だって必死なんだよ! 時谷くんが写真で脅したりするから!」
綾瀬さんはバスタオルを巻いているだけで他には何も身につけていない。
本当に必死だ。今度こそ犯されるとでも思ったのかもしれない。
風呂から出ても何もする気はなかったよ。なんて、本心から言えるだろうか?
そんなの無理だ。俺の頭には常に乱暴な考えが付き纏っていたんだから。
物心ついた頃から親を汚らわしく思いながら生きてきた。汚れた親から生まれ、育てられた自分も汚れている。
親から生活費を貰わなければ普通の高校生らしい生活は維持できない。
忌み嫌っている気持ち悪い商売で稼いだお金で俺は生きているんだ。
「こうなることはわかっていました。だから僕はあなたと話したくなかった。関わりを持ちたくなかった。友達になんかなりたくなかった。綾瀬さんにだけは……っ、こんな僕のこと知らないでいて欲しかったんです!」
汚れている俺は綾瀬さんの視界の端に入る権利すらない。綾瀬さんの笑顔を遠くから眺めているだけで幸せだった。
万が一にも親しくなって距離が近付けば秘密はばれやすくなる。
他の誰に知られてもいいから綾瀬さんにだけは隠し通したかった。
中学生の俺は信頼している相手になら秘密を打ち明けてもいいと思ってた。
愚かな考えだ。嫌われたくないのなら知られたらいけなかったんだ。
本当に好きな相手にこそ話すべきではないのだと、一番の友達が一番残酷な形で教えてくれた。
「ど……して私にだけ知られたくなかったの?」
「……僕のスマホを見たでしょう?」
俺は一体どんな顔をしてるんだろう。すごく怖い顔なのかな。
泣き出しそうな綾瀬さんを見て、少しだけ冷静さを取り戻すことができた。
「私の写真、何であんな……」
綾瀬さんの声は震えている。
そんな悲しい顔しないで。俺は綾瀬さんの笑顔が好きなんだよ。
「一年前……綾瀬さんが……手紙をくれたから……」
どこまでも情けない俺は一番大切な言葉を口に出すことができない。
一年前――俺は不登校になり、家に引きこもっていた。
高校入学時から新築の家で一人暮らしだ。誰もうるさく言ってこない。
離れて住んでいる親からは腫れ物に触るような扱いを受けていた。
「嫌なら高校を辞めていい。高卒認定試験を受ければ大学に入ることもできる。他にもいくらでも道はある」
今まで一度もいじめの原因を話したことはないが、最低なあの人達も薄々気付いていて俺に罪悪感があったのかもしれない。
慎重に言葉を選びながら喋っていることが電話越しにも伝わってきた。
でも、その態度は親からも見捨てられたようで、辛かった。俺は学校に行けと叱ってほしかったのかもしれない。
だって俺は真面目で普通な人生を送りたかった。
普通は高校を辞めたりしないから、もう普通の人間として生きていくことは諦めろと、そう突き放されているような気がした。
ずっと家にいると気持ちは塞ぎ込んでいくもので、自分がどれだけ無価値で駄目な人間であるかを思い知らされる。
子供の頃から人よりできたはずの勉強も、人より劣っていくのかもしれない。
たまにかかってくる電話で大嫌いな親との距離を改めて感じる。
閉じた世界。俺がこの家を出ていかないから、誰にも会えない。
でも、誰も俺になんて会いたくないか。
そんなことばかり考えていたある日――ポストの中にあの手紙が入っていたんだ。
担任は一度も訪問してこない。不登校の生徒と向き合っている振りをするために毎日プリントをクラスメートの竹山田に託す。
でも、プリントを届けてくれているのが綾瀬さんだと俺は知っていた。
カーテンの隙間から外を眺めている時に綾瀬さんがポストに入れる瞬間を何度か見たことがあったからだ。
綾瀬さんはすぐ近所に住んでいる。
いつも通る道でポストにプリントを入れるだけだから、彼女も俺のことなんか気に留めていないと思っていたのに――
『そろそろ学校に来ない? 学校に来たら友達になろう』
どうせ裏切られるんだから友達なんていらない存在だ。欲しいとも思っていなかった。
だけど……嬉しかった。嬉しかったんだ。どうしようもないほどに。
この家の外に、ほんのわずかでも俺を思ってくれている人が存在する。
たったそれだけで本当に救われたんだよ。
俺にとってその手紙がどれだけ大きなものだったか綾瀬さんはきっと知らない。
言葉にしなければ胸に秘めた思いは伝わらないのだから。
怖くて怖くて、でも少しだけほっとするような感覚。瞳を潤ませて俺を見ている綾瀬さんはとても綺麗だ。
覚悟を決めた俺は唾を飲み込んだ後、口を開いた。
「僕はあの日から綾瀬さんのことが」
「嫌いだったんだよね」
予想だにしていなかった綾瀬さんの言葉。
「わ、私のこと憎んでるから……嫌いだから……いっぱい写真を撮ってたんでしょ?」
「どう……して……そんな……」
憎んでいるのも嫌っているのも全部全部綾瀬さんの方でしょう?
震えている綾瀬さんは何を考えているんだろう。喋る度に揺れる瞳から今にも涙がこぼれ落ちそうだ。
ああ……どうすればいいんだ。綾瀬さんを泣かせたくないんだよ。
「時谷くんは初めから私のことが嫌いだったの……?」
だからどうしてそんなことを聞くの。
初めから俺のことを嫌っているのは綾瀬さんの方だ。だから手紙をくれたのに話しかけてくれなかったんでしょ。
綾瀬さんは俺のことが嫌いだから。
俺は綾瀬さんのことが好きだよ。初めからずっと好きだったんだよ。
だからさっきだって告白しようとして……
「……っ」
告白なんてするだけ無駄だ。恋人になれるわけがない。友達にだってなれない。
俺は綾瀬さんに嫌われてる。
全部全部俺のせいだから仕方ない。嫌われても仕方がないことをしたんだから諦めなくちゃいけないんだ。
綾瀬さんがいつか誰かと付き合って、その誰かに幸せそうに笑いかける姿を遠くから見ていることしかできない。
そんな俺に気付いたらきっと綾瀬さんは嫌な顔をする。
――気持ち悪いって思う。
「そうだよ! 綾瀬さんなんて大っ嫌いだよ! 嫌い嫌い嫌い嫌い……」
あれ……俺は何を口走ってるんだろう。
俺がずっと伝えたかったのはこんな言葉じゃなかったのに。
「嫌いだよ……綾瀬さんのことを考えると胸が痛くなる……」
好きなんです。例え嫌われていても、僕は綾瀬さんが好きです。
「ご……めんなさい……」
綾瀬さんが謝る必要なんてない。
僕が全て悪いんです。
黒崎さんに媚薬を飲まされた時だってやめられたはずです。綾瀬さんは逃げられないんだって思ったら最低な欲望を抑えられなくなってしまいました。
だけど……そんな僕を許してくれたよね?
綾瀬さんはやっぱり優しいんだなって思ったのにどうして急に無視したりしたの? そばにいてもいいって言ったよね?
綾瀬さんが嘘つきだからこんなことになったんだよ。そばにいてくださいって笑ってくれた綾瀬さんに僕がどれだけ救われたか少しはわかってよ。
――呼吸が苦しい。なんとか抑え込もうとしてきた黒い感情の渦に飲み込まれていく。
綾瀬さんは俺の前でしゃがみこんで泣いている。
綾瀬さんの笑顔が好きだよ。だから、どうか泣かないで。
で、も……俺のために泣いてくれてるのかな。それなら俺を思ってずっとずっと泣いていればいい。
他の奴に笑顔を見せたりしなくていいよ。そんなの遠くから見ていたって苦しいだけなんだ。
俺はさっきから何を考えているんだろう。頭の中がぐちゃぐちゃだ。本当の気持ちがどれなのかもうよくわからない。
「時谷くん、苦しいの?」
「苦しい? 苦しい……そう、ですね。苦しいです。とても……」
でも、一つだけはっきりしてる。もうこの衝動を抑えることはできないだろう。