Keep a secret
□抑えきれない
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ソファーやラグに飛んだハーブティーを拭きながら深いため息が出る。
綾瀬さんを思って選んだハーブティーをあろうことか彼女の頭にぶっかけてしまうなんて。
スマホを見られて焦っていたからこんな最低なことをしたんだと思いたい。
けど、俺は意外と冷静だったのかもしれないな。
ご丁寧に蓋を外してから彼女の頭に向かってポットを傾けた。
蓋まで頭の上に落ちてきたら痛いだろうし可哀相だ……あの時の俺はそんなよくわからない気遣いをしていたのだ。
「寒いな……」
体が震える。綾瀬さんが長袖のためエアコンの設定温度は普段より低め、更に彼女を抱きしめた際に服が濡れたから俺の体は冷えきっていた。
今頃綾瀬さんは何を考えているのかな。大方、風呂から出た後に何をされるか考えて怯えているんだろう。
彼女の想像の中の俺はものすごく極悪非道な人間だったりしそうだな。
その想像は間違ってない。
俺は綾瀬さんが何かボロを出す度に待ってましたとばかりに追い詰めている。
大人しくしていてくれない綾瀬さんが悪いんだって心の中で言い訳しながら。
でも……本当の俺はそんなこと望んでないはずだ。
"本当の俺"ってどんな奴だったっけ。綾瀬さんに避けられるようになってから自分を見失った気がする。
いや、綾瀬さんを好きになった日から全てが狂いだしたのかもしれない。
彼女のことだけを考えて生きる毎日、俺の世界から綾瀬さん以外の何もかも消えてしまった。
着信履歴には"黒崎美愛"の文字があった。先ほどの電話は母さんより最低な女からだったらしい。
今はこの女の声を聞きたくない。かけ直さずにアルバム内を確認していく。
削除された写真は一枚もないようだ。
綾瀬さんは俺のスマホのロックを解除できなかったんだろうか。正直かなりわかりやすい部類な気がするが……。
アルバム内の大量の写真は綾瀬さんを遠くから眺めているだけでは飽き足らず盗撮したものだ。
もしも綾瀬さんがアルバムを見たならさすがに俺の気持ちに気付いただろうな。
これをきっかけに告白してみようか?
……だが、間違いなく振られる。
精一杯伝えた想いを拒絶される絶望に耐えられればいいが、綾瀬さんのことになると自分を保てなくなるから不安だった。
でも、俺が悩んでいる間に綾瀬さんに恋人ができたらどうする。
綾瀬さんは特別にモテるタイプではないようだが、とある男子が綾瀬さんに好意を寄せているという噂を聞いた。
そして、その噂は恐らく正しい。
川田山だか掛け山田だかって名前の男だ。竹山田くんだったかな……いまいちしっくりこないが男の名前はどうでもいい。
問題は桶山田だったか? が、綾瀬さんを下の名前で呼んでいることだ。馴れ馴れしい真似をして何様なんだ。
まさか綾瀬さんが名前で呼ぶことを許可したのか?
綾瀬さんは抜け山田のことが好きなのだろうか……。
苔山田と綾瀬さんが付き合うなんて考えただけで吐き気がする。
綾瀬さんは俺の特別な人だ。苔山田だけではなく他の誰にも絶対に渡さない。
やっぱり綾瀬さんの体だけでも今すぐ俺のものにしてしまいたい。
俺に犯されたら男に対して恐怖心が生まれてしばらくは恋人を作ろうなどと思わないだろう。
プルルル――
本日三度目の着信だ。規則的なその音はどんどん過激になっていく俺の思考を止めてくれた。
綾瀬さんのことを考えると頭がどうにかなりそうだ……気持ちを切り替えたい。
「はい」
「もっと早く出ろよ! 何コール目だと思ってんだよ。ほんとトロイ奴だよな」
「ごめんなさい」
甲高い声で喚き散らしている黒崎さんの声で感情が死んでいく。
いいんだ。そうして綾瀬さんへの良くない考えが浮かばなくなればいい。
「お前って最近綾瀬とどうなの?」
「どう、って?」
「落ち込んでる?」
どうして綾瀬さんとのことを聞かれないといけないんだ。
無言の俺を「あーよかったー」と嘲笑う声がする。本当に不愉快だな。
「お前ぼっちだし家にいるっしょ? 前に貰った薬まだない?」
「……この間飲まされたあの媚薬ですか?」
「そっちじゃなくてー。ほらー、乙女の口からは言いにくいなぁ」
他に渡した覚えのある薬といえば中年男性からの人気が高いという精力活性剤だった。
若者には必要なさそうな薬だから何でそんな物をと思っていたんだけど……まさかおっさん相手に援助交際でもしてるのか。この女なら十分有り得る。
「渡したので全部だったと思います」
「えー! うそぉ……確認してこいよ」
「いや、でも」
「あ、電話だ! 明日会う予定だから彼氏かも。じゃ、五分以内に確認してメッセージ入れといてー」
そう言って電話は一方的に切られた。
息子がこんな目にあってることも知らずにどうせ今この瞬間も父さんと母さんは楽しく過ごしてるんだろう。
俺だって綾瀬さんと恋人同士になりたいのに。俺には後ろめたいことが多過ぎるんだよ。
廊下へ出るとシャワーの音が聞こえてくる。
そういえば綾瀬さんの真似をして買ったボディソープが置いてあるんだった。
薬局で買うところを見かけてどんな匂いがするのか気になり買ったやつだ。気付かれたら変に思われないかな。
俺の口からはまた一つ深いため息がこぼれた。
父さんがこの家を建てる上で一番こだわったと豪語している部屋は二階の廊下の突き当たりに存在する。
完全防音でリビングの次に広いこの部屋はいわゆるSMプレイ用に作られており、怪しげな仕掛けや物がたくさん置いてある。
用途がわからない物もあるけど、幼い頃から身近に存在するせいでほとんど使い方を理解している自分が嫌だ。
この部屋の全てが受け付けない。決して近寄らないようにしてるのにあの女のせいで度々入らされていた。
電気を付けずに目的の棚を適当に探すが、頼まれた薬はやっぱりない。在庫品を全部あの女に渡したんだな。
ウィーンウィーン
「……!」
部屋を出る直前、鳴り響いた機械音に頭が真っ白になる。
そんな、まさか、有り得ない……綾瀬さん、違うよね? もうこの扉を開けないって約束したよね……?
……嫌、だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……っ!!
――綾瀬さんを逃がすな。
俺の中の誰かが囁く。彼女をこの部屋から出さないために重いドアを閉めた。