Keep a secret

□今すぐ離れて
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 学期末である今は近所の高校や中学校もテスト期間なんだろう。市立図書館は学生で溢れかえっていた。
 机を挟むより教えてもらいやすいと思ったから四人用の机に隣同士で座る。

「ご指導のほどお願いします」
「僕でよければ喜んで。じゃあ、まずは綾瀬さんの苦手科目の数学から始めましょうか」
「うん。数学は一人で勉強しても全然はかどらないんだよね……」
「大丈夫ですよ。ゆっくりやりましょう」

 小声で話しながら時谷くんが椅子を動かし、私との距離を詰める。
 人が多いといってもここは図書館。静かに勉強している人ばかりで緊張する。


 勉強を始めてから数時間――

「それで、ここはこうなって」
「え……と。これを当てはめるのかな?」
「違います。うーん。ここは一年で習った公式の応用なので、そこを理解していないのかもしれませんね」
「うっ……」

 私はものすごく理解が遅かった。真剣に取り組みたい気持ちは山々だが、何しろ時谷くんの綺麗な顔がすぐそばにある。
 喋る際に周りの迷惑にならないよう時谷くんがぐっと顔を近付けてくると、さらさらの髪が私の髪と触れ合いそうになるし、清潔感のあるシャンプーの香りが鼻をくすぐり、私の意識を惑わせる。
 こんなにも近い距離にいて勉強に集中するなんて無理な話だ。





 わかりやすい参考書を探してくると言って時谷くんが席を立ってからもう三十分が経つ。さすがに遅くないかと館内を一通り見て回ったけれど時谷くんは見つからない。
 代わりに見覚えのある女子が図書館に入ってくるのが目に入った。

 華やかな容姿をした彼女――|黒崎《くろさき》|美愛《みあい》さんは時谷くんをいじめている女子グループのリーダー的存在だ。
 校舎裏で囲まれたあの日もすごい迫力で怒鳴ってきて一番怖かった。
 見付かる前に私がさっと本棚の影に隠れたら、黒崎さんに続いて男の子が入ってくる。

「時谷くん!?」
「あれ? 綾瀬じゃん。時谷と一緒に来てたわけ?」
「えーと……」

 私の声に反応し、近寄ってきた黒崎さんの前で言葉が詰まる。どうしよう。何て返事をしたらいいのやら。

「違います。今偶然会っただけです。ね、そうですよね? 綾瀬さん」
「あ……う、うん」
「ふーん? まぁいいけどねー? あたし今から時谷と勉強すんだよ。お前も来れば?」
「えっ?」

 何で一緒に勉強することになってるの? 二人は外で何を話してたの?
 私の顔を覗きこんでいる意地の悪い笑顔と言葉に胸がざわつく。時谷くんは俯きながらごめんなさいと静かに呟いた。


 元々座っていた机に戻ってきたが、それまでの平和な雰囲気はなくなり、張り詰めた空気が流れている。時谷くんの隣の席も黒崎さんに取られてしまった。
 黒崎さんが勉強を始めることはなく、さっきから自分の課題を時谷くんにやらせている。テスト週間中の今は課題なんて出ていないから未提出分なんだろう。

「いやー、図書館に来てみたら時谷がいるんだもん。助かったわ。これで課題間に合うわー」

 持つべきものは友達だよねーなんて黒崎さんは笑う。友達だなんてよく言うよ。
 あれ以来時谷くんは黒崎さんからの放課後の呼び出しに応じていないらしい。だから今日時谷くんを見付けて外に連れ出し、お金を要求したりしていたんじゃないだろうか。
 正直イライラする。時谷くんの隣に座るのは私のはずなのに。何でこんな人と一緒にいなくちゃいけないんだろうって。

「あたし達仲良しだよなー?」
「……そ、れは」

 黒崎さんは私がこの状況に苛立っていることを気付いてた。こうすればもっと腹が立つとわかっていて、私を挑発するかのように時谷くんの腕に擦り寄ってみせた。
 嫌だな。こんなの答えなくてもいいんだよ。答えないでほしいの。

「友達、です」
「……れて……よ」
「は?」
「時谷くんから今すぐ離れて……っ」

 私は机を叩いて立ち上がる。大きな音と必死な声が静かな図書館に響き渡り、冷ややかな視線が集まるのを感じた。
 黒崎さんは何かを言おうとして途中でやめ、「ふーん」と意味深に笑った後、私達の前から去っていった。

「綾瀬さん?」
「っ!」

 時谷くんの声にびくりと身体が震える。我に返ると急激に目の奥が熱くなり、涙がこみ上げてきた。
 どうしてこんな、自分のことしか考えていない迷惑な怒り方をしてしまったんだろう。

「ご……め……なさっ」
「綾瀬さん、大丈夫だよ。わかってるから。泣かないで。綾瀬さん」

 時谷くんは私の隣の席に移動して、私が泣き止むまで優しく名前を呼んでくれた。

「時谷くん、ごめんね」
「いいえ……謝るのは僕の方です。僕のせいで嫌な思いをさせてしまってごめんなさい」
「違うよ! 時谷くんが謝ることじゃない」
「……ありがとうございます。僕を庇ってくれて」

 嫌な思いをしたのは時谷くんの方だろうに、私を気遣う笑顔が心を溶かしてくれる。
 なんて綺麗な笑顔だろう。彼の優しい笑顔が好きだ。ずっと見ていたいと思う。
 近い距離が落ち着かなかったはずなのに今は時谷くんがすぐ近くにいてくれることに安心していた。


「今日は本当にありがとう! 時谷くんって人に教えるのも上手なんだね。おかげで数学が大分克服出来た気がするよ」
「それはよかったです」

 すっかり日が暮れた帰り道。時谷くんの家が近付いてきていたからお別れもかねて今日一日のお礼を伝える。
 黒崎さんが去ってからは集中して勉強ができたし、今までわからなかった問題が少しずつ解けていく手ごたえもあったのだ。

「明日も今日と同じ時間に待ち合わせでいいのかな?」
「明日ですか。明日は……」

 土日とも付き合ってくれる約束だった。明日の話を切り出せば時谷くんは続く言葉を飲み込んで俯いてしまう。
 今日はよりによって黒崎さんと出くわしてしまい、私は泣き出すし、気苦労の多い日だったに違いない。
 明日も……なんて図々しい思いだった。時谷くんからは断りにくいだろうから明日は一人で勉強してみると伝えた方が良さそうだ。

「時谷くん、えと、明日は」
「明日は……僕の家に来ませんか」
「……え。えっ、時谷くんの家!?」

 動揺を隠せない。土日に勉強を教えようかと誘われたとき以上の衝撃だった。

「い、家……家ね……」

 ま、待て、私。冷静になるんだ。時谷くんのあの優しい笑顔を思い出せ。きっと私を落ち着かせて……くれない!
 むしろ体が茹でだこみたいに熱くなる。私はどうしてこうも時谷くんの一言に掻き乱されてしまうんだ。

「今日みたいにまた黒崎さんと会ったら嫌ですから」

 私が馬鹿な考えを巡らせていると時谷くんは慌てたように付け足した。

「両親は海外勤務中だから家には僕しかいません……その……落ち着いて勉強出来ると思います」
「そ、そうなんだ。ご両親は海外に……で、でもー……時谷くんの迷惑じゃない? ほ、ほら、ただでさえテスト勉強の邪魔までしちゃってるのにさ」

 ご両親は海外にいる、つまりは時谷くんは一人暮らしであるからして家の中で完全に二人きりになってしまうわけで……
 お誘いはとても有り難いけれど、落ち着いて勉強なんてできるわけがない。
 断る他なかった。

「僕は綾瀬さんと一緒に勉強したいです。綾瀬さんは……僕が迷惑ですか?」

 時谷くんが悲しげに目を細めて私を見つめる。

――駄目、だ。あの日の放課後、涙がこぼれ落ちそうだった瞳。私はこの目に弱いんだ。





 現在時刻は午前九時過ぎ――くらいのはず。
 緊張の面持ちで時谷くんのお家のインターホンに手を伸ばしたまま、果たしてどれくらいの時間が経ったであろうか。
 プルプル震える指はあともうほんの少しでインターホンを押せる距離にあるのに、そこから動かせずにいた。

 なんと今日は、朝の九時から徹底的に勉学に励むのだ。お昼ご飯は時谷くんの家でいただけるというからなんて親切な人だろう。
 さすがに手ぶらでは申し訳ないから手作りのケーキを手土産にした。テスト前に何をしてるんだと我ながら思うけど、いてもたってもいられなかったのだ。

 毎日毎日、前を通ってきた時谷くんのお家。シンプルなグレーの外壁の立派な家の中がどうなっているのか興味がある。
 時谷くんと話すようになってまだ五日目なのに早くも最大の私生活を覗けてしまう。不安や心配より、楽しみな気持ちがわずかに勝っているかもしれない。
 改めて深呼吸をし、心を落ち着かせたらインターホンを押そう……

 ガチャリ――

「あ……」

 大きく息を吸うのと同時に玄関の扉は開き、時谷くんと目が合ってしまった。

「すみません。ずっとそこから動かないのでさすがにじれったくなって……」
「見てたのね……」

 これは恥ずかしい。インターホンのモニターで見ていたのだろうか?
 ああでもないこうでもないと悩みながら長時間立ち止まっていた馬鹿な姿が筒抜けであった事実に絶望する。

「いらっしゃい、綾瀬さん」
「お、お邪魔します」

 そんな私相手でも笑顔で迎え入れてくれる時谷くんの後ろをおずおずと付いていった。


 時谷くんの家は一昨年……私がまだ中学生だった頃に建築が始まり、去年の四月、時谷くんの高校入学と同時に引っ越してきた。
 周囲の家よりずば抜けて大きいこの家は築一年と少ししか経っていない。まだ新築の匂いがする。
 シンプルながらもお洒落な外観を裏切らず内装も凝っていてどこを見ても綺麗だ。モノトーンで統一されたインテリアは時谷くんに合っていてイメージ通りだった。

「このテーブルを使ってください」

 リビングに通されて少し残念に思った。時谷くんの部屋を見てみたかったのだ。
 この家全体の雰囲気と同じようにシンプルな部屋なんだろうか。綺麗な家の中で唯一散らかっていたりしたらちょっと面白いかも。

「あ、ケーキ作ってきたの。よかったら後で食べ」
「綾瀬さんの手作りですか!?」
「そ、そうだよ。だからあんまり味に期待しないでほし」
「いいえ! すごく嬉しいです。きっと……いえ、絶対おいしいです!」

 勢いよく受け取ったケーキの箱をぎゅっと抱きしめながら時谷くんは嬉しそうに笑う。
 そんな風にしたら潰れちゃうんじゃ……?
 すごい期待と圧がかかっているケーキの箱が少し不憫だったが、こんなに喜んでくれるなら作ってきてよかった。


 リビングのローテーブルに二人で座り、しばらく経った頃――
 気になっていたことを聞くことにした。

「ねぇ、時谷くん。本当に私の勉強を見てくれてていいの……? 時谷くんは学年首席だって狙えるでしょ。私の代わりに成績下がっちゃわない?」
「そんなのどうでもいいです」
「え、どうでもって……」
「僕のことなんて興味ないんだよ」

 時谷くんはそっぽを向いて本当に心底つまらなさそうに答えた。
 あれだけ私のことを心配だ心配だと言ってくれる時谷くんにこんなそっけない態度を取られたのは初めてのことだ。
 自分に興味がないという言葉がなんだかずしりと重くのしかかる。寂しくて、悲しい気持ちがいつまでも残った。
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