Keep a secret

□優しいんだね
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 たまに彼を見ていた。
 彼の姿が学校にあることを確かめて、そっと目を伏せる。
 私は教室の窓際で友達と談笑し、彼は教室の片隅で本を読んでいる。同じ学校に通い、同じ空間にいても決して交わることはない。

 それが私と彼の距離感だった。


――放課後。
 日直の雑用仕事であるごみ捨てを終えた私は、困った場面に遭遇してしまった。
 人気のない校舎裏でクラスメートの時谷薫(ときたに かおる)くんが数人の女子に囲まれている。
 告白中だというなら問題はなかったのだが、とてもそんな青春の一場面には見えない。時谷くんはいかにも気が強そうな女子に胸倉を掴まれ、怒鳴りつけられているのだ。

 いじめ、だ。重たい三文字が頭を過ぎって足がすくむ。
 私は恐怖心に勝る勇気も正義感も持ち合わせていない人間だ。見なかったことにして立ち去りたい、というのが本音だった。

 音を立てないよう慎重に一歩後ずさった瞬間――初めて私と彼の世界が交わった。
 驚いたように見開かれた時谷くんの瞳にみるみる涙の膜が張る。その綺麗な瞳を見なかったことになんてできるはずがない。

「……あっ、あなた達何してるの!?」

 口から出た声は裏返っていた。一斉にこちらに向く視線。私は情けなく蹴躓きながら彼女達に近付いていった。

「関係ないだろ。どっか行けよ」
「てかどちら様ですかー?」
「なんか震えてない? ウケるー」

 時谷くんの胸元を掴んでいたリーダー格とおぼしき女子が不機嫌そうな顔で凄んだ。周りの女子達も突然現れた私に動揺する素振りもなく小馬鹿にしたように手を叩いている。
 ……ど、どうしよう。思わず声をかけたが、この後のことを何も考えていなかった。
 誰でもいい。お願いだから誰か助けて。今度は私が涙目になって時谷くんを見つめると、彼は唇を噛みながら俯いていた。

 時谷くんは一年生の頃、いじめが原因で不登校になっていた時期がある。二年に進級した現在は普通に登校しているものの、この様子だといじめは続いていたようだ。
 不登校時代の時谷くんとは少し関わりがあった。本当に少しだけ、些細なことだったけれど、それは私の頭の片隅に残り続けていた。

「あ、あの。せっ、先生を、先生を呼……」
「はっきり喋れよ!」
「ひぃっ」

「あっ、もう行こうよ!」

 私が情けない声を上げてすぐ、部活終わりの生徒達の賑やかな声が近付いてきたおかげで、女子達は去っていった。「時谷、また明日……な?」と、言い残して。

 ……ああ、よかった。行ってくれた。
 緊張が解けて力が抜ける。その場に崩れ落ちるようにしゃがみこんだ私は、今も俯いたままの時谷くんの顔を見上げた。

「時谷く」

 さっきはわからなかった時谷くんの表情が見えて、彼の名前を呼ぶのをためらってしまう。だって、時谷くんの表情はいろんな感情が複雑に、ぐちゃぐちゃに絡み合っていた。
 大粒の涙を浮かべて揺れる瞳は心底怯えきっているようだ。だけどその一方で、強く噛まれた唇は今にも声を上げて笑い出しそうな、歪な弧を描いていた。
 透明な薄い膜を張った瞳の奥に、彼は何か得体の知れない仄暗いものを隠している気がして、怖いと思った。


「綾瀬さん、立てますか?」
「あ……」

 どれくらい経ったのだろうか。ぼんやりと時谷くんを見つめていた私の目の前に手のひらが差し出される。

「大丈夫だよ!」

 ようやく現実に意識が戻ってきた。何となく時谷くんの手を取る気にはなれなかったから、笑いながら立ってみせた。

「どうして僕を助けてくれたんですか」

 遠慮がちに切り出された言葉に少し困ってしまう。最初は逃げようとしていたのだ。それが目が合ったから見過ごせなくなったと正直に言っていいものか。
 そもそも私が声を掛けなくてもあのタイミングで彼女達は帰っていったのだろうし、何も役に立てていない。

「助けたってほどじゃないよ。ごめんね。あっ、怪我とかしてない?」
「大丈夫です……」
「あの女子達酷いね。大勢で一人を取り囲むなんて最低だよ。しかもこんな人目につかない場所を選ぶのも陰湿だしさ」

 結局問いには答えず、自分の不甲斐なさをごまかすように早口で喋った。

「…………」

 そこから追加で、あの女子達は最低だとひとしきり毒を吐いてはみたものの同意の言葉は返ってこない。

「そ、そろそろ帰る時間だよね」

 気まずさに耐えかねてこの場を去ろうと思った、のだけど。

「帰り道……一緒の方角ですよね」
「あ、うん……」

 ああ、もう。今以上に気まずい時間になることはわかりきっているのに。
 一緒の方角だと言われたら返す言葉は大体決まっている。私の唇は「一緒に帰ろうか」と当然のように続けた。





――気まずい。共通の話題が見つからない。
 案の定一言も喋らない二人きりの帰り道は自然に足早になる。
 ただでさえ男子と帰るなんて初めての経験だから気恥ずかしいのに、隣を歩く時谷くんは物静かで大人しいし、どういう子かもよく知らないのだ。
 無言の時間が続くのは辛いけど、だからといって私から話を振る勇気もなかった。

 この状況を時谷くんはどう思っているんだろうかと横目で盗み見る。
 長い前髪の隙間から覗く横顔からは感情を読み取りにくいが、彼はとても容姿に恵まれていると思う。
 全てのパーツが完璧に整った類まれな顔立ちで、女の私より遥かに可愛い。中性的な美少年という言葉がぴったりだ。
 だからこそ少しもったいなく思う。時谷くんの重たい黒の髪と長い前髪は綺麗な顔に影を落としていて、どこか近寄りがたい暗い雰囲気を作ってしまっている気がした。

「あの……僕の家ここなので」
「あ、そうだね」

 時谷くんと私はすぐご近所に住んでいる。町内でも抜きん出ている時谷くんの立派な家と比べたら悲しくなってしまう我が家も視界に入って一安心。

「また、明日……?」

 お別れを告げようとして、女子達が去り際に残した不吉な言葉が頭を過ぎる。
 明日彼女達は時谷くんを呼び出して何をするつもりだろう。今日みたいにまた乱暴をするのだろうか。
 そうしたら時谷くんはまた――

「時谷くん!」
「え……?」

 今日の私はおかしい。門扉を開けた時谷くんを反射的に呼び止めていた。

「あ、明日もさ、一緒に帰ろう?」

 時谷くんは目を見開いて私をしばらく見つめた後、こくりと小さくうなずいた。

「やっぱり綾瀬さんって優しいんだね」

 優しくなんてない。いじめられていた時谷くんを見てみぬふりしてきた。
 さっきだって私があの場から立ち去ろうとしていたことを彼は知らないのだ。罪悪感で気持ちは沈んでいく。
 それでも、初めて見た時谷くんの微笑みに頬が熱くなるのを感じた。
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