Keep a secret
□覚めない悪夢
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黒崎さんが出ていってから何時間も経った。
午後になると浴室内の温度は上昇し、蒸し暑くなっている。
意識のない時谷くんを壁にもたれさせ、扉が開かないか試したり、小窓から叫んでみたけど状況に変化はない。
黒崎さんの家は庭が広く、隣の家との距離もしっかり取られていた。よっぽどじゃないと声は届かないだろう。外に助けを求めるのは望み薄かもしれない。
「ん……綾瀬さ、ん……?」
「時谷くん! 目が覚めたんだね」
「ど……して……あっ」
まぶたを薄っすらと開けた時谷くんの表情はみるみる青ざめていく。
「あの女は!? 何かされませんでしたか?……っ」
いきなり動き出して目眩がしたのか時谷くんは頭を押さえる。
「大丈夫だから落ち着いて! 何もされてないよ。黒崎さんは時谷くんが気絶してすぐに出ていったんだ。扉は何かで塞がれてて開かないみたいだけどね……」
怪我をしてるんだから無茶をしないでほしい。前のめりになっていた時谷くんの背中をそっと壁に預け直す。
「ごめんなさい、僕が不甲斐ないばっかりに……っ、綾瀬さんを巻き込んでしまって……」
時谷くんは悔しそうに下唇を噛みながら謝罪を口にする。
「私が来るまでに何があったの? 黒崎さんと若野先生を別れさせようとしてるあの変な手紙って何なの?」
「手紙のことは僕もわかりません。一昨日の深夜……綾瀬さんが家に帰った後に黒崎さんから連絡があって、ここへ呼び出されました。僕もまさか黒崎さんがスタンガンなんて持ってると思わなかったので……気絶させられてからはこの浴室に手錠で繋がれて、ちょっとしたその……暴行をうけたり、溺れさせられたりして……っ、ごめ、なさい……僕の意識がない間、綾瀬さん一人で不安でしたよね。心細かったですよね」
ひんやりした手で頬を包まれる。大切な宝物を扱うように優しく触れる手はこの前まで綺麗だったのに、今は傷だらけだ。
「怖い思いをさせてごめんなさい……本当に怪我はありませんか?」
「大丈夫……私は大丈夫だよ」
時谷くんの方が長い時間一人きりで痛くて怖い思いをしていたのに。私のことばかり心配してるから胸が締め付けられる。
「綾瀬さんは僕から呼び出されたと思って来たんですよね。どうして来てくれたんですか? 話しましたよね。僕はずっと綾瀬さんを騙してたんですよ」
時谷くんはあの夜、私から完全に嫌われることを覚悟の上で嘘を打ち明けた。時谷くんからの呼び出しに私が応じるなんて、思いもしなかったんだろう。
時谷くんは予想外の出来事に困惑を浮かべながらも、祈るような瞳を私に向ける。
「言ったでしょ。頭真っ白で何も考えられないって……それはもう二度と話をしないって意味じゃないよ」
「っ」
形の整った大きな瞳に涙が浮かんで、こぼれ落ちる寸前に時谷くんは目を伏せた。
そしてゆっくりと目を開ける。
「……綾瀬さん。黒崎さんは何をするかわかりません。幸いにも僕は今、手錠を外されています。次に黒崎さんが扉を開けたタイミングでなんとか隙を作ります。その間に綾瀬さんだけでも逃げてください」
時谷くんの瞳には「私を守りたい」という迷いのない感情が宿っていた。
私は時谷くんの近くに腰を下ろす。
黒崎さん家の浴室はうちの浴室の数倍はあるため、二人とも足を伸ばして座ってもスペースにはまだ余裕があった。
足元に溜まっていた水滴はとうに乾いている。ひんやりした床が気持ち良く感じた。
「時谷くん、怪我は……大丈夫じゃないよね。痛そう……」
「これくらい平気ですよ。それより、ぎゅってしててもいいですか?」
「へっ?」
言葉の意味を理解する前に、後ろから抱きしめられた。
お腹の辺りに腕を回されて背中が時谷くんと密着する。突然のことで縮こまった私の体は時谷くんの脚の間に収まる。
「こっ、この体勢辛くないの? 私の体が傷に当たって痛いでしょ?」
急に何?
という疑問よりも心配の方が勝った。
「いえ。こうしてた方が呼吸が楽です。意識を失ってからしばらく温かった気がしたんです。少しだけこのままでいさせてください」
「うん……」
時谷くんは私の肩に顔を埋めて更にきつく抱きしめてくる。
浴室内は汗が止まらない温度なのに、薄い布越しに感じる時谷くんの体温は低かった。
黒崎さんの家の浴室に時谷くんと二人で閉じ込められている――こんな状況下でも時谷くんを意識すると私の心臓は高鳴る。
私の背中に密着している時谷くんの鼓動も激しく脈打っていた。
外から隔離された密閉空間。
私達の心音と呼吸音しか聞こえないこの場所で目を閉じていると、世界で二人きりになったような錯覚がした。
***
ガタガタ――
扉の向こうで音がして、微睡んでいた意識が覚醒する。
黒崎さんが戻ってきたんだ……!
時谷くんも目が覚めたらしく、扉が開くのと同時に私の体から腕を離した。
「もう夕方だけど、どう? 自分がやりましたって白状する気になった?」
浴室内に入ってきた黒崎さんの背後で唯一の出入口である扉が少しだけ開いている。
しかし黒崎さんの手にはスタンガンが握られていて簡単には突破出来そうになかった。
「もしもそうだと認めたら綾瀬さんを家に帰してくれますか?」
昨日からこの浴室で暴行を受け続けている時谷くんの体力は回復してない。それでも時谷くんは気丈に振る舞い、私を逃がすタイミングを見計らっているようだった。
「駄目に決まってんだろ。一人だけ帰したら面倒なことになる」
「綾瀬さんは無関係だろ! 僕には何をしてもいいから綾瀬さんは解放してあげてください」
「うるさい、お前が悪いんだ! あたしをこんな手紙で脅すような真似しやがって! 後悔させてや――っ!?」
例の封筒を懐から取り出そうとした黒崎さんに、時谷くんが飛びかかる。
不意をつかれた黒崎さんは時谷くんと共に床へと倒れ込んだ。
「このっ、離せよ!」
「綾瀬さん、逃げてっ! うぁぁ……っ!」
時谷くんの首裏にスタンガンが押し当てられる。耳を塞ぎたくなる悲鳴が浴室に反響し、黒崎さんの体を押さえつける力が徐々に弱くなっていく。
……時谷くんが作ってくれたチャンスなんだ。早く、早く逃げなくちゃ。
「助けを呼んでくるね!」
恐怖ですくんだ足を奮い立たせて浴室を飛び出す。
「ぐっ、あああああっ!」
すると、時谷くんの一際大きな悲鳴に後ろ髪を引かれた。
反射的に振り返れば黒崎さんはもう立ち上がっていて、その足の下には時谷くんの手の指があった。本来曲げたらいけない方向に指を踏みつけられている。
あれは、あれは痛い。そのまま体重を掛けられたら……と思うと足が止まる。
「綾瀬さあ、助けが来る頃には時谷の指の骨バッキバキで二度と使い物にならなくなってると思うよ。いいの?」
「ぐっ、僕のことはい……っからっ、うぁぁっ!」
「だ、駄目、やめて!」
僕のことはいいと言われても。今の黒崎さんは異常だ。本当にやりかねないから、私は浴室内に戻ることしかできなかった。
「そうそう。最初から大人しくしてればいいんだよ。あたしに暴行した時谷はお仕置き確定として、綾瀬が逃げようとした分の罰はどうしよっか?」
「っ!」
解放された時谷くんが私と黒崎さんの間に入って、私を庇うように片腕を広げた。
「ふーん。時谷が綾瀬の分までお仕置き受けてあげんの? じゃあ電圧弱めからいってみよっか!」
「っあっ、ぐっ、あぁぁぁっ!」
「と、時谷くん……」
苦しむ時谷くんを前にして、私は首を振りながらただただ震えていた。
助けなくては。あるいは私だけでも逃げて助けを呼ばなくては。
そう思うのに恐怖で体が動かない。
「あははっ、徐々に上げていくからな。お前が気を失ったら続きは綾瀬に受けてもらうから。ほら頑張ってー」
「ぐ……ぁぁ……っ」
スタンガンを体に押し当てられ、お腹を蹴られて踏みつけられて。これは"いじめ"じゃなくてただの暴行――いや、拷問だ。
空っぽの胃の中から胃酸が逆流して私の喉を焼く。地獄の時間が続いて、時谷くんの反応は鈍くなっていく。
それでも時谷くんは歯を食い縛り、意識を手放さない。自分が気絶したら私がこの暴力の対象になるから、そうならないようにと必死でこらえていた。
「あーあ。悲鳴を上げる体力もなくなってきたか。つまんないの。こいつ繋いでおいたから、逃げようなんて馬鹿なこと考えるなよ」
「う……あ……」
座りこみ呆然としている私の前で黒崎さんは意地の悪い笑みを浮かべた。
壁を背にぐったりしている時谷くんの両手首には一つずつ手錠が掛けられ、背後の壁の手すりに縫い止められていた。
「じゃっ、私これから先生とご飯行く約束してるから続きはまた明日な」
黒崎さんはそのまま出ていこうとする。
「ま、待って!」
また明日って……この地獄がまだ続くなんて考えられなかった。
時谷くんの体も保たないだろう。解放してもらうために私は必死で頭を働かせた。
「今夕方なんだよね。うち門限厳しいからこのまま帰らなかったらお母さんが心配して警察に通報すると思う。大事になるのは黒崎さんも困るでしょ? 私達をいったん家に帰してよ」
「確かに一人暮らしの時谷とは違うのか」
家を出る前には会わなかったが、お母さんは今日に祖父母の家から戻ってくる。我が家に厳しい門限はないけれど、私が夜になっても帰らなかったら心配するだろう。
「んー……」
私の言い分は効果があったようで黒崎さんは考える素振りを見せる。
「まっ、平気だろ。ちょっとくらい警察沙汰になってもお父さんがいつもみたいに金でもみ消してくれるだろうし」
「お、お金でもみ消す?」
「ああ。じゃーまた明日ね。そうそう、安心してよ。うちの親は出張中だからあたし以外誰も来ないよ」
黒崎さんはスタンガンをちらつかせながら安心どころか絶望的な言葉を残していった。
再び扉に細工をした音がする。
私、本当に無力だった……。
時谷くんは大丈夫だろうかと振り返ると、黒崎さんを見送って限界を迎えた彼は意識を失っていた。
「綾瀬さん、綾瀬さん」
「ん……」
聞き慣れたか細い声が耳元で聞こえて、眩しい光が目に入る。
「時谷く、ん」
硬い床と壁に囲まれた真っ白い空間。
蒸し暑くてクラクラする。私はまだこの悪夢から目覚められないようだった。