Keep a secret

□息もできない
1ページ/1ページ

「ひぁっ、あっあっ、やぁぁっ、あ……っ」

 室内には悲鳴のような嬌声、俺と綾瀬さんが交ざる水音、そして、スマホの通知音が響いていた。
 着信の全てが綾瀬さんのことを心配している人達からのものだった。

 プルルル、プルルル――

 俺じゃない誰かに綾瀬さんが愛されている証が鳴り止まない。
 綾瀬さんは俺に抱かれて乱れながらも音のする方を見て眉をひそめている。どうあがいても彼女を独り占めできない現実があった。

「俺は……っ、ずっと我慢してるんです! 本当は綾瀬さんのこと閉じ込めたい。あなたの姿を誰の目にも触れさせたくないし、綾瀬さんの視界に入るのも俺だけがいい! だけど多くを求め過ぎないよう、これでもずっと我慢してきた!」
「と、き谷く……っ」

 俺の瞳からぽたぽたと落ちる涙が綾瀬さんの頬を濡らしていく。

 本当はわかっていた。
 俺が好きになった綾瀬さんは、綾瀬さんの人格は、俺以外の他者との繋がりや関わりを通じて形作られたもの。
 一年前の夏救ってくれたのも、当たり前のように優しくしてくれるのも、曇りのない笑顔を見せてくれるのも全て……綾瀬さんが周囲から愛される人間だったから俺はその幸せを手に入れることができた。

 綾瀬さんがこれまで築いてきた過去やこれから築こうとする未来に干渉し、壊す権利なんて俺にはない。
 そんなこと痛いほどわかってたんだ。


「綾瀬さん……っ、綾瀬さん!」

 俺は必死だった。綾瀬さんをきつく抱きしめ、温もりに縋りつく。

「ふぁあっ、あっ! あっ、い、くぅ……! またイっちゃうっ」

 綾瀬さんは連続してイキ続け、あそこをもうずっと痙攣させていた。どろどろの膣内が収縮している強い刺激に耐えられず、俺も何度も何度も吐精した。
 綾瀬さんのお腹や胸が、白濁で汚れていく。

 涙が、止まらなかった。
 俺の愛は醜くて汚い。嫉妬で狂い、身勝手な欲望に浸って歪な形をしてる。
 誰よりも何よりも大好きで、大切で、特別な、宝物みたいな綾瀬さん。どうして俺は綾瀬さんの周囲の普通の人達みたいに彼女を上手く愛せないんだろう。

 長い時間が経った気がするが、恐らく俺が感じているより時計は進んでいない。
 いつの間にか綾瀬さんのスマートフォンは静かになっていた。散々犯されて疲れ切った様子の綾瀬さんも俺の欲に汚れたままの状態で横たわっている。
 ……酷くしてしまった。俺はその姿をしばらく放心状態で見つめていた。

「……う……です……嘘……だったんです」

 その言葉を口にすることを身体が拒絶していた。それでも喉を振り絞る。

「……嘘?」

 意識を手放しかけていた綾瀬さんがゆるゆると目を開けて、俺を見据えた。

「裸の写真なんて存在しません……っ、綾瀬さんを繋ぎとめるためにずっと嘘をついていました。それに、落とし物は、ここにあります」
「うちの鍵! ま、待って……本当に? 写真はスマホにもパソコンにもないってこと?」
「はい。初めからそんな写真撮ってないので、どこにもありません。ごめんなさい」

 このことを知られたら軽蔑され、致命的に嫌われる。そう思い、隠し続けてきた嘘。
 ああ……ついに打ち明けてしまった。


「ご、めん。頭真っ白で何も考えられない」

 酸素が急に薄くなったような、息苦しい沈黙を破ったのは綾瀬さんだった。
 彼女はふらつきながらも散らばっていた衣服を身に着ける。そうして俺がポケットに隠し持っていた自宅の鍵とスマホだけを持って、静かに俺の家を出ていった。

 そうだよ、それでいいんだ。
 俺から逃げて綾瀬さん。俺がこれ以上酷いことをしてしまう前に。
 温かで優しい綾瀬さんを形作る存在に、俺はなれない。
 俺の身勝手な恋は綾瀬さんを傷付ける形でしか成就しない。このままじゃ俺は綾瀬さんを壊してしまうだろう。
 ――だから、これでいい。


 二階の自室までどうやって辿り着いたのかわからない。階段で足を踏み外して転倒したからか、体中に擦り傷ができていた。
 でも、その痛みを感じ取れないくらい、胸の奥が切り刻まれたように痛い。

 俺の部屋には綾瀬さんが確かにここにいた痕跡が生々しく残っていた。
 机の上には俺がクレーンゲームで取ったマグカップが飾られていて、ベッドの横には可愛らしいバッグが口を開けた状態で置いてあり、枕には長い髪の毛が落ちているし、シーツからはほのかに甘い香りがする。

 綾瀬さんがここにいた。
 だけど、もういない。

 もう二度とこの部屋に遊びに来ることはないだろう。
 それどころかきっと二度と俺と話してくれない。笑顔を向けてくれない。目を合わせてもらうことすら叶わないだろう。
 綾瀬さんを失った現実がリアリティを帯びると胸の痛みは一層強くなり、呼吸が乱れ始める。

「はっ、はっ……綾瀬さん……」

 力の入らない体をなんとか動かして、縋るような思いでクローゼットを開ける。
 クローゼットの左隅に、テンキー式のロックで守られている金庫があった。
 俺は金庫の前に膝をついて暗証番号を打ち込んでいく。
 綾瀬さんの誕生日の数字と、一年前に手紙をもらった日付である八月二十日を組み合わせた八桁の数字。パソコンと同じだ。

 飾り気のないこの金属の箱の中に入っているものは俺の特別な宝物だ。自分へのご褒美に、たまに眺めることを許している。

 一年前にもらった、俺と綾瀬さんの全ての始まりである手紙の原本。
 綾瀬さんが俺の目の前で道路に叩きつけて壊した時計の破片。
 俺が持って帰りたいと駄々をこねて手に入れた、遊園地でのキス一歩手前の写真。
 初めてお邪魔した際に彼女の部屋の空気を閉じ込めてきたビニール袋。
 手作りケーキの空箱。ファイリングしてある大量の写真達。

 少しずつ増えていく綾瀬さんとの思い出の品を眺めているといつも穏やかな気持ちになれた。
 しかし今は、綾瀬さんとの思い出がもう二度と増えない、その不安感に呼吸がどんどん浅くなっていく。

「っ、は……っ、はっ、はっ……」

 呼吸がままならない。苦しさに涙が出て、視界はぼやけていた。
 酷い目眩だ。体を起こしていられなくなって、金庫の前にうつ伏せで倒れ込む。

 苦しい。苦しい。どんなに息を吸って吐いても楽になれない。
 俺の生命を維持するために必要なものが決定的に足りていなかった。

 綾瀬さん。
 綾瀬さんがいないと息もできない。

「はぁっ、はぁっはっ、綾瀬さ……っ! は、はっはっ……」

 目の前が白く霞む。
 このまま意識を失ったら死ぬのだろうか。綾瀬さんがそばにいない世界で生きていくくらいならそれもいいかも。
 苦しさに抗うことをやめて、目を閉じる。
 すると、脳裏に綾瀬さんの顔が浮かんだ。彼女は目を真っ赤にして泣いていた。

 ああ、そうか――こんな俺が死んでも、綾瀬さんは悲しんでくれる。優しい彼女が胸を痛めないはずがないんだ。
 俺は最後の力を振り絞り、手を伸ばす。

「はっはぁっ……はぁーっ、はー……はー……」

 金庫に入れていたビニール袋の口を解き、袋の中に息を吐き出して、また吸い込む。
 綾瀬さんの部屋で空気を持ち帰ろうとした俺を笑ってくれた、あの愛おしい笑顔が全身を巡る。空っぽの体が綾瀬さんで満たされて、ほらもう苦しくない。

「綾瀬さ、綾瀬さん……綾瀬さん、綾瀬さん、綾瀬さん、綾瀬さん……っ」

 綾瀬さんのことを考えると、息もできなくなる。
 でも、そんな俺を救うことができるのも綾瀬さんしかいない。

「綾瀬さん、俺から逃げないで、離れていかないで……っ」

 やっぱり俺は綾瀬さんなしでは生きていけそうになかった。


 プルルル――

 疲れて寝てしまっていた俺の近くでスマホが鳴っている。
 こんな遅い時間に誰だ? もしかして、綾瀬さん?

「――なわけないか」

 画面に表示された"黒崎美愛"という名前に落胆する。そういえば数日前からしつこく連絡がきていて、未読のメッセージも三十件ほど溜まっていた。

 プルルル――

 心配されて連絡が止まなかった綾瀬さんとは明らかに違う、悪意だけがこもった着信が鳴り続ける。しつこい女ではあるが、何日にも渡ってこんなに連絡してくるのは初めてのことかもしれない。

 心がざわつく。妙な胸騒ぎがあった。
 電話が切れた瞬間を見計らってラインを開く。ちょうどそのタイミングで新たなメッセージが届いた。

『もういい』
『代わりに綾瀬に連絡する』

 その文章が目に入ったと同時に、俺は電話をかけていた。一度目のコールで黒崎さんは電話に出た。

「すみません。気付きませんでした。用事はなんですか?」
『お前っ、よくそんな白々しいことが言えるな!? あの手紙を入れたのお前だろ!』
「手紙?」

 そこからは冷静さを欠いた「死ね」「クソ野郎」「殺す」と罵倒が続き、まるで会話にならない。
 連絡を無視していたことも理由の一つではあるだろうが、それ以前に何らかの理由で怒っているらしい。しかし俺は、"手紙"という物に心当たりがなかった。
 この女のことなど全く興味はないけれど、俺の弱みが綾瀬さんだということをこの女は理解しているのだ。聞き流すわけにもいかなかった。

「申し訳ないですが、何のことを言っているのかわかりません。説明してもらえませんか?」
『っ!……あくまでしらを切るつもりなんだな。うちまで始発で来い! 来なかったらどうなるかは自分で考えろ!』

「切れた」

 最悪だ。始発までもうそんなに時間がない。俺には綾瀬さんを失った絶望に浸る暇さえ与えられないのか。

 綾瀬さんは今頃寝ているだろう。
 寝る前にシャワーを浴びたかな。
 俺ので何度も達してどろどろになった体……なかったことにするの? 洗い流したら他の男の元に行けると思ってる?

「そんなの許せないな」

 胸の奥がきしむ音がした。
 結局どこまでいっても俺は俺のままだから、彼女を手放すことなんて考えられない。

「あは、ははは……」

 自分に呆れて、乾いた笑いが漏れた。


次の章へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ