Keep a secret

□襲いたくなる
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「あ――っ!」
「わっ……と。綾瀬さん、なに慌ててるんですか?」

 廊下に出てすぐに時谷くんと鉢合わせした。私の複雑な思いも知らずに不思議そうな顔をしている時谷くんが恨めしい。

「時谷くん、悪いんだけど写真を撮るのはまた今度で! それと提案です。今晩から別々の部屋で寝ようよ」
「そんな……急にどうしたんですか?」

 私が急にピリついているから時谷くんも困惑を隠せない様子だ。

「その、昨晩みたいに抱きしめられるのはちょっと……泊めてもらっている身でごめん。時谷くんの部屋を私が使わせてもらってもいい? あの部屋なら鍵が掛けられるでしょ」

 図々しいお願いだけど、年端もいかない男女が一つ屋根の下で寝泊まりするには本来これくらいの秩序が必要だ。
 時谷くんのご両親はあのSM部屋とは別の寝室もあるらしい。時谷くんにはそっちを使ってほしい。

「綾瀬さ――」
「やっ、駄目! ノー!」

 不満げな視線をこちらに向けていた時谷くんが距離を詰めてくる。私は顔の前で大きくバツ印を作り、拒否の姿勢を見せた。

「なに? その警戒心」
「ひぃっ!」

 怒気を孕んだ静かな声に、びくりと大袈裟に震えてしまった。

「……そんなに警戒されると襲いたくなるってわかってます?」

 顎を持ち上げられ、時谷くんと目線を合わせられる。
 時谷くんの表情は怒っているというより楽しそう。彼の加虐心に火をつけてしまったことを悟る。

「うあっ!?」

 私はいとも簡単に壁際に追い詰められた。両腕を壁に縫いつけられ、脚の間には時谷くんの膝が割り込んでくる。

「あ……っ」

 股間をジャージのズボン越しに膝頭でグリグリと刺激される。
 秘部を乱暴に押し潰されている。でも時谷くんが作る細かな振動は私の弱いところを的確に捉えていた。圧迫された秘部が熱を持っていく。

「まさか感じてるの?」
「ちが、ん……っ!」

 膝から逃げたくてもぞもぞ動く私を時谷くんは面白そうに笑う。
 下着が湿ってきているのがわかる。このまま続けられたらジャージまで染みてしまう。

 時谷くんに流されてちゃ駄目だ。ノーと言える人間になるんだ……!

「ノーモア時谷くん!」

 目の前の時谷くんに向かって叫んだ。
 私時谷くんが目を真ん丸にして膝の動きを止める。それと同時に腕を掴んでいる手の力が弱まった。
 私はそのチャンスを活かして逃げ出すと階段を駆け上がっていった。

「"ノーモア時谷くん"! "ストップ時谷くん"!」

 映画館でよく見るあの言葉。私はこれをスローガンに掲げていく。

「じゃ、おやすみなさい!」

 二階から声を掛け、時谷くんの部屋に入った。無論、鍵を掛けるのも忘れない。
 これで安心して眠ることができる……とほっとしたのもつかの間、階段を上る足音が聞こえてきた。
 時谷くん怒ってるだろうな。


「綾瀬さん? 開けてください」

 コンコン、控えめなノック音がする。

「さっきはごめんなさい……もう何もしません。僕の部屋も綾瀬さんが好きに使ってください。ただ、部屋に用があるので少しだけ入れてくれませんか?」

 その声は弱々しくて、ドアの向こうでしょげている時谷くんが目に浮かぶようだった。
 でもこの状況が「狼と七匹の子山羊」の狼の罠を彷彿とさせるから慎重に対応する。

「用ってなに?」
「忘れ物です。まだ寝るには早いので課題のプリントでもしようかと思って」
「あぁー……課題ね……どこに置いてあるの?」
「机ですが……わかりにくいかもしれません」

 問答を続けながらすっかり忘れていた課題の存在を思い出して憂鬱になる。
 私も提出日前日に慌てなくてもいいようにそろそろ手を付けないとな。

 時谷くんの勉強机は綺麗に片付いている。勝手には触りにくい。さっきのことは反省してくれたみたいだし、部屋に用事のある部屋主を締め出すというのもおかしな話だ。

「時谷くん?」

 私がドアを開けると時谷くんの姿はなかった。

「……綾瀬さん……」
「っ!」

 時谷くんは廊下の暗がりに潜んでいたらしい。懐中電灯で顔を照らしながらひっそりと現れる。

「……時谷くんさぁ……ちょっと、ねぇ?」

 一瞬驚いたものの、さすがにそんな子供騙しの悪戯では怖がらないよ。

「何とも言えない微妙な反応傷付きます」
「い、いいから早く持っていってよ」
「はい……」

 時谷くんは懐中電灯の電源を落として渋々といった感じで部屋に入った。
 時谷くんって時々ピュアで、時々お子様だね。さっき私を追い詰めていたときの怖い雰囲気は感じられない。反省している様子もないのが残念だけど。

 私は時谷くんが机から必要な物を取り出す姿をドア付近から眺める。
 そういやこの部屋のドアは廊下に鍵穴があって、外からも開けられるんだよね。

「この部屋の鍵ってどこにあるの?」
「ああ、机の引き出しです。どうぞ」

 時谷くんは引き出しから鍵を出すと私の方に近付いてきて鍵を握った手を突き出した。

「あ、ありがとう」

 恐る恐る鍵を受け取る。
 用事が済んだ時谷くんは私が何も言わなくても自分から部屋を出ていき、廊下で名残惜しそうに振り向いた。

「綾瀬さん……本当に駄目ですか?」

 暗い廊下に佇んで今度こそ本当にしょんぼりと俯いている。捨てられた子犬のような姿に心が痛む。
 だけど、

「駄目です。時谷くんも私がこの部屋を使っていいって言ったよね」

 もう流されないんだから!

「……ふぅん。そうですか。一人で夜を明かすんですね。それなら僕はもう行くので最後に一つ、綾瀬さんのために忠告しておきます。実はこの家……」

 時谷くんはためを作ってから「出るんですよ」と耳元で囁いた。ぞくっと背中に冷たいものが這う感覚がした。

「は、はあ? ゆ、幽霊が出るとでも言うの? 冗談でしょ? ど、どうかしてるよ」
「あの日……僕が深夜に目を覚ましたら……」
「さ、覚ましたら?」

 幽霊が出るだなんて胡散くさい話これっぽっちも信じていない。けれど、時谷くんが何かに思いを馳せながら暗い表情で語り始めたから念のため、念のために聞くだけ。

「秘密です。怖がらせてしまうといけないので言わないでおきますね。綾瀬さん、おやすみなさい」

 時谷くんは意味深な笑みを残してドアを閉めた。
 ……いや、こんな中途半端に話を終わりにされる方がよっぽど怖いよ。

「幽霊なんているわけない、よね……?」

 私は独り言を呟いた。一人になった今、「大丈夫。そんな非科学的なものいないよ」と安心させてくれる言葉は返ってこない。
 この部屋にあるのは静寂だけ。
 早く寝よう。寝てしまえばすぐに朝が来る。そう自分に言い聞かせ、布団に潜り込んだ。


 ***


 人間の体って不便だ。私はこんなときに限って深夜二時過ぎに目覚めてしまい、あろうことかトイレを我慢できそうになかった。
 更に不幸なことに二階のトイレのトイレットペーパーが切れていたのだ。用を足す前に気付けたからよかったものの、一階のトイレに向かわなければならない。

 二階の廊下は静まり返っている。こんな時間だ。時谷くんも寝てるんだろう。
 起こしたら悪いからと音を立てないよう注意しながら階段を下りた。
 階段のそばにある一階のトイレにはすぐに辿り着くことができた。

 細くなっているトイレットペーパーの残量を確認するためにペーパーホルダーを上げると、ホルダーの裏側に見覚えのあるメモが貼り付けてあった。
 私が時谷くんの家のポストに入れたメモのコピーだ。パソコンやリビングのテーブルの裏といい、時谷くんの家の至る所に貼ってあるのでは……。
 嬉しい反面、不安にもなる。一年前に私が軽い気持ちで書いたこのメモは時谷くんにどれだけの影響を与えたんだろうか。
 私は静かにホルダーを元に戻した。

 無事に用を足せたし、後は部屋に戻って寝るだけだ。やっぱり幽霊なんていないじゃないかと思いながら廊下に出た。

「……う……ぁ……」
「――!」

 廊下の奥から不気味な呻き声が聞こえた。
 息を殺して、耳を澄ます。微かなその声は苦しげで、泣き声のようにも聞こえる。

 まさか本当に幽霊……?
 ああ、時谷くん。深夜に目を覚ましたら……その続きは何だったの。

 行きたくないのに私の足は声がする方へ吸い寄せられていく。
 怖くて全身が震え出す。呼吸をするのも忘れていた。
 リビングに近付くにつれて声は大きくなった。不気味な呻き声だけでなく、少し開いたドアの隙間から廊下に光が漏れていた。

 この家は呪われていたんだ……怖くてたまらないけど、ここまで来たら時谷家の怪談をこの目で確かめなければ。
 私はドアの隙間からリビングを覗く。

「……はっ、ん……」
「……!」

 リビングにいたのは幽霊なんかじゃない。時谷くんだった。ドアから近いソファーの前に座り込んで悩ましげな声を出している。
 彼はオナニーをしてるんだと、すぐにピンときてしまった。
 絶対に見られたくないであろう場面を目撃してしまって申し訳ない気持ちになる。

「……綾瀬さ……っ」

 見なかったことにして立ち去ろうと思ったが、続けて聞こえてきた声によってその場に縛りつけられる。

「綾瀬さん、綾瀬さ、ん……すき……綾瀬さん……す、き……すき……っ」

 時谷くんが私の名前を何度も呼んでいる。
 私の存在に気付いているわけではないようで、ソファーに顔を埋めながら右手を忙しなく上下に動かしていた。
 ここからでは見えないけど、その手が何をどうしているのかは知識として知っている。
 時谷くんに膝で刺激されたときみたいに下半身がじわじわ熱くなる。強引に性感を高められていたあのときとは違って自分から勝手に興奮してしまっている。

 とても恥ずかしいことだと思うのに……私は我慢できずに下半身へそっと手を伸ばす。
 しかし、その行動は間違いだった。気が緩み、もう片方の手がドアに触れた。

 キィ――
 小さな音だったけれど、時谷くんの耳に届いた。その証拠に、規則的に聞こえていた声がピタリと止む。
 私は酷く慌てて、でも静かに立ち上がる。

 どこに隠れたらいい?
 脱衣所? トイレ? 階段を上る?
 無理だ。どれも今からでは間に合わない。

 静かにパニックに陥った私の元に足音が近付いてくる。時谷くんがドアノブをひねったのと同時に苦し紛れの隠れ場所を見付けた。
 開いたドアの裏側……死角となるその場所で私は息を殺した。
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