Keep a secret
□今はないかな
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「お待たせしました。念入りに洗ったら臭いも綺麗に取れました」
「ああ、よかった……」
ブランコで待つ私の元に戻ってきた時谷くんが白い手を広げてみせる。手の平に鼻を近付けて嗅ぐと、石鹸の清潔な香りがした。
「今日は本当に猛暑日ですね。夜も暑いみたいですよ」
「えー……そうなの? 暑いの嫌だなぁ……もう喉カラカラだよ。時谷くんも喉渇いてない? 飲み物おご――」
奢れないんだった……私は鍵がないだけでなく、財布の中身もゼロなのだ。慌てて口をつぐむ。
「喉が渇いていたんですね。僕としたことが気付けなくてすみませんでした。お任せください。三十秒以内に買ってきます!」
「えっ!?」
時谷くんが隣のブランコから勇ましく立ち上がる。そのまま私に頭を下げて公園の入口近くの自販機へ駆けていった。
奢ってと頼むつもりはなかったのに……。
ブランコは時谷くんの帰りを待つかのように揺れ続ける。三十秒以内という言葉には今もなお時谷くんの中に脈々と流れているパシリの血を感じた。ブランコに合わせてギィギィと鈍い音が物悲しく響く。
三十秒以内かはともかく、時谷くんはペットボトルのお茶を二本持って戻って来た。
冷たいお茶で喉が潤う。無一文の現状でお茶を買ってもらえたのは大きい。
手の中のペットボトルが命の水に思えてぎゅうっと抱きしめる。
「時谷くん、ごめんね。手を汚させた挙句、お茶まで奢ってもらっちゃって……次は私が奢るね」
「僕が好きでしたことなので気にしないでください。それよりも勝手にマグカップを取りに来てしまってごめんなさい。連絡しておくべきでしたね」
「あっ、そうだ。マグカップもありがとね」
昨日はいろいろあったけど、時谷くんが今までと特別変わった様子はない。気まずいと考えていたのは私だけだったようだ。
――それもそうか。私は時谷くんに対して後ろめたい気持ちがあるのだ。
見過ごせない問題があるとはいえ、時谷くんの気持ちだけ聞いておいて自分の気持ちを明かさないのは正しい選択だろうか。
絶対に正しいとは言えないけど、間違っているとも思わないのが正直なところだ。気持ちを伝えない限り、この気まずさはずっと続くんだろうな。
「ところで……日向と一緒にセブンスのライブへ行く話になってたでしょ? 日向が美山さんも誘おうって言ってるんだけど……時谷くんと美山さんって……」
「……みやまさん?」
ここで会ったのも何かの縁だ。美山さんの件を聞いてみたいと思ったのだが、時谷くんは不思議そうに首を傾げた。
「誰ですか? 綾瀬さんのお友達にはそんな名前の人いませんよね」
「えっ、四組の美山さんのことだよ! 美山って苗字は学年で一人しかいないでしょ」
「四組ですか……違うクラス、しかも綾瀬さんと無関係の生徒の名前は把握していないので、すみません」
「把握っていうか! バレンタインに美山さんから告白されたんじゃないの!?」
「バレンタインに告白?……告白、告白……あっ」
時谷くんはしばらく考え込んだ後に、やっと思い出したようだった。
「あの女子のことですか。美山さんって名前だったんだ」
このいかにも興味がなさそうな反応。やはり時谷くんが美山さんのことを好きだという話は日向の勘違いだったらしい。
「どうして綾瀬さんが告白のことを知ってるんですか?……竹山田に聞いたの?」
「え? あ、うーんと。まあ……」
「ちゃんと答えてください」
「うっ……」
時谷くんから、私を探るようなジトーっとした目が向けられる。
日向は時谷くんからこの話を秘密にしてくれと言われたらしい。私は日向から、時谷くんには秘密で協力してくれと頼まれた。
でも全てが日向の勘違いなら話しても問題はない、のかな……?
***
「だからあのときあいつは自分を嫌な奴だって言ってたんだな……」
時谷くんが美山さんを好きだと聞いたこと、美山さんとの恋を協力するように頼まれたこと、洗いざらい話した。
話を聞き終わってから時谷くんが呟いた言葉の意味はよくわからなかった。
「綾瀬さん、ライブに美山さんを誘うっていう話は断っておいてもらえますか」
「うん、わかったよ。やっぱり日向の勘違いだったんだね」
「……美山さんのことが好きだと竹山田に話したのは事実です」
「はあ!?」
胸を撫で下ろしたのもつかの間――
時谷くんがさらっととんでもないことを言うから驚きを隠せない。
「カラオケで綾瀬さんと付き合ってるのか聞かれたんですよ。竹山田って口が軽いから下手なことを言うと学校中の噂になるじゃないですか。綾瀬さんに迷惑をかけたくなくて、つい嘘を言っちゃったんですよね。美山さんには悪いんですけど、他に手頃な相手もいなかったので……あ、竹山田に美山さんの件を断る際も、僕が美山さんを好きじゃないことは伏せておいてくださいね。あいつ、僕の嘘を律儀に信じてるみたいだから助かります」
「はあ!?」
本日二度目のはあ!?……が飛び出た。
私に迷惑をかけたくなかったから嘘をついた? それで万が一、他の女子に迷惑がかかっても構わないの?
日向にだって失礼だ。日向は時谷くんの恋を応援しようとしてくれていたのに。
「私、時谷くんのこういうところが嫌い」
「ふふっ、そう言うと思ってました。綾瀬さんは誰にでも平等に優しくて、誰からも良い奴だと評価されるような人間が好きですもんね。僕はね、そういう人間にはなれないしなりたいとも思わないんです。綾瀬さん以外の愛情は要りません」
「わ、私は……」
時谷くんの微笑みは怖いくらい優しかった。その温かくて愛情に満ちた瞳に吸い込まれる。お説教してやろうと開いた口を閉じることも忘れて、時谷くんを見つめ返した。
私の好きな人は誰にでも優しくて、誰からも良い奴と評価されるような人じゃないよ。
私の好きな人は私にしか優しくなくて、私以外の人から好かれることを望んではいないらしい。でも、これを私への愛情が深いからだと喜ぶのはちょっと違う気がする。
「あーーっ、カップルだ!」
「なんかエロいことしようとしてるぞ! チューすんのかチュー!」
「んなっ!?」
私達しかいなかった公園に、小学校高学年くらいの男児が遊びにやって来た。
「「チュー! チュー! チュー!」」
悪ガキな彼らはブランコを取り囲み、私達を囃し立てる。
「こ、こらあっ! チューなんてしないよ。私と時谷くんは……と、友達なんだからねっ」
「うわっ、ババアが怒ったぞ!」
「逃げろー!」
「ババア!?」
「友達、ね……」
悪ガキ集団は大騒ぎしながら公園を出て行った。
全く失礼な……礼儀正しかった真琴くんを少しは見習ったらどうかな。
「……ねぇ、綾瀬さん。僕達、友達でしょ? 困ったことや悩みがあったらいつでも相談してくださいね。何でも打ち明けられてこそ本当の友達ですから」
「へ? ど、どうもありがとう」
「今はありませんか? 困ったこと」
「困ったこと……」
忘れかけていた落とし物が脳裏をよぎる。陽が沈む前に見付けなければ暗い中で小さな鍵を探すのは困難になる。
「えっと、」
どうしよう。一緒に鍵を探してほしいって頼んでみようか?
……でも、頼みにくい。時谷くんは私を信頼していないから写真を消さないし、私も時谷くんを信頼していない面がある。
鍵が見付からなかったら家に入れない、そんな弱味を時谷くんに晒したくなかった。
「……今はないかな。ありがとね」
「それならよかった。僕は帰りますね。綾瀬さんはどうします?」
「あ、私はコンビニにでも寄ろうかと」
「では、お先に失礼しますね」
「あ、うん。またね……」
時谷くんは笑顔で手を振り、帰っていった。すぐにでも鍵探しを再開したかったからいいんだけれど……時谷くんから帰ると言い出すのは珍しい。
まだお昼の二時前だ。今からどこかに出掛けようとか、家で一緒に過ごそうとか……それでなくてもいつもの時谷くんならコンビニに付いてきて、最後は家まで送ってくれそうだと思うのはちょっと自意識過剰だろうか。
ドブの前でも思ったように、今日の時谷くんは冷たい態度を取るときがあるような?
……考え過ぎだよね。時谷くんも用事があったのかもしれない。
時谷くんの姿が完全に見えなくなったのを確認してから、念のためにもう一度ドブの中の鍵を探してみることにした。
それから、ドブを捜索するも見付かず、私は地面にへばりつく勢いで鍵を探し歩いた。
自宅の玄関前から駅の切符売り場、ボウリング場のカウンターまで何度も往復した。近所の店や駅や交番に届けられていないか確認もしたが、鍵は結局見付からなかった。
時谷くんに買ってもらったお茶が空っぽになる頃には陽もすっかり落ちて、鍵を探すには最悪の状況になってしまった。
時刻は夜の十一時過ぎ――
私はついに諦めて自宅の庭に戻って来ていた。先ほどまで公園で途方に暮れていたら怖そうなお兄さん達がお酒を飲み始めたのだ。
あそこにいるよりは自宅の敷地内にいた方が安心できる。
しかし、私は無事に朝を迎えることができるんだろうか。
時谷くんが言っていたように今晩はかなりの熱帯夜。汗がダラダラ、喉はカラカラだ。
おまけに今日はお昼にパンを一個食べただけ。熱中症と空腹で今にも倒れそう。
「これからどうしよう……」