Keep a secret

□鍵の落とし物
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 カーテンの隙間から差し込む陽の光。聞こえる蝉の声。
 窓越しに夏を感じる昼下がり、私はエアコンの効いた部屋の中で布団を被ってうとうとしていた。
 「夏休みだからってこんな時間までぐうたらするな!」と普段なら怒鳴りこんできそうなお母さんは留守だ。
 安心して二度寝……どころか四度寝をしようと目を閉じる。

「んん……?」

 眠りに落ちる前に枕元の携帯が鳴った。メッセージを送ってきたのは日向のようだ。

『昨日は楽しかったな! 美山をセブンスのライブに誘ってみようと思うんだけど、七花は昼の部と夜の部どっちがいい? 俺は連絡先知らんから時谷には七花が聞いておいて! よろしく!』

 美山さん、ライブ……結局のところ、時谷くんが美山さんのことを好きだという話は何だったんだろう?
 私は時谷くん本人から直接聞いた気持ちを信じている。
 もしも美山さんの話が日向の勘違いなら時谷くんと美山さんを引き合わせる必要はないし、時谷くんも迷惑に思うような……一度、時谷くんに確認してみる必要がありそうだ。
 『時谷くんに聞いてみるから美山さんを誘うのはちょっと待って』と日向に返した。

 そのまますぐに時谷くんにメッセージを送ろうとして、手が止まる。時谷くんとは昨日いろいろあったから連絡しにくい。

 文面を悩んだ末に時谷くんへの連絡は後回しにして、出掛ける準備を済ませた。
 昨日、マグカップを忘れてきてしまったことを思い出したのだ。恐らくボウリング場だ。せっかく時谷くんが取ってくれた物だから、早く確認に行きたい。
 私は戸締まりを確認し、鍵とスマホをポケットに入れて家を出た。


 昨夜は時谷くんと歩いた道を一人で辿る。ちょうど我が家と最寄り駅の中間地点に差し掛かった頃だった――
 曲がり角から、子供が飛び出してきた。

「きゃあっ!」

 小さな体は弾丸みたいな勢いでぶつかってきて、その頭が私の腹部に直撃する。うう……とうめき声を上げながらよろけた私の足元で、水が跳ねるような音がした。
 視線を下に向けると、蓋のされていない側溝があと数歩の距離にある。もう少しで黒黒とした泥水に足を取られるところだった。
 危ない、危ない。しかし、今の水音は何だったんだろうか? 小石でも蹴ったのかな。

「お姉ちゃん大丈夫!? ごめんなさい! 僕急いでて、よそ見しちゃってたの……」

 くりくりとした大きな目が私を心配そうに見上げている。キャラクターがプリントされたTシャツに、短パン、茶色がかった髪が印象的な男の子だ。
 私はお腹の痛みを我慢して笑顔を作る。

「大丈夫だよ。でも、今度から気を付けてね。車の前に飛び出したら大変だよ」
「はい……気を付けます」

 男の子はこくりと小さく頷く。素直そうな良い子だ。


「へぇ。ママの代わりにお手紙を届けに来たんだ。偉いね!」

 男の子は真琴(まこと)くんというらしい。ピカピカの小学一年生。
 大事な手紙を手渡しするために宛先の家を探しているそうだ。ポストに投函して配達してもらった方が楽だとは思うけれど、真琴くんはお母さんのために自力で頑張りたいんだろう。

「でもね、道がわからなくなっちゃったの」
「地図に目的地の印を付けてるんでしょ? ちょっと貸して」

 困っている小さな子を放っておくわけにもいかない。真琴くんが手に持っている地図を見せてもらおうと手を伸ばした。

「駄目ぇっ!」
「わっ!」
「お、お姉ちゃんごめんね……このお手紙は見せられないの」

 真琴くんはシンプルな茶封筒を背中に隠し、怯えたような表情で私を見る。その反応に驚かされるが、それだけ大事な手紙ということなんだろう。きちんと届けないとね。

「地図を見せてほしかっただけだよ。行き方教えてあげる」
「えっ!? あっ、は、はい、地図!」


 その後、私と真琴くんは駅に来た。
 地図に印が付けられていた目的地はここから四駅も離れていたのだ。真琴くんは習い事のために一人でも電車に乗り慣れているというから、徒歩より電車に乗ることを薦めた。

 切符を買おうとしたら小学生の真琴くんの手持ちは二十円。かくいう私の手持ちも千円にも満たなかった。
 昨日お金を使いすぎてしまった。家に帰ったら、貯めておいたお小遣とお年玉の中から補充しよう。
 幸いなことに、真琴くんと私の全所持金を合わせたらちょうど往復の切符代になった。

「えへへっ、ありがとう! お金は絶対返すから電話してね! でも、ママやパパが電話に出たら今日のことは言わないでほしいの」
「お金のことはいいんだけどね……」

 真琴くんの家の電話番号が走り書きされたメモを一応受け取るけれど……四駅も離れているのに事前に切符代を渡されていないことや、ママやパパに隠しておきたいという言葉がどうにも引っ掛かる。

「真琴くんはママに頼まれてお手紙を届けに来たんじゃないの?」
「ううん。ママにもパパにも秘密。ママが泣いちゃったら僕も悲しい……だから絶対絶対知られちゃいけないの……あっ、電車が来ちゃう! またね。優しいお姉ちゃん!」
「あっ、きっ、気をつけてね!」

 一瞬泣きそうな顔をした真琴くんが私に手を振って、駆けていく。私は小さな背中を見送りながら首を傾げる。
 変な話だ。ママの代わりに手紙を届けに来たのに、もしもこのことを知ったらママは泣いてしまうなんて。嬉し泣き?
 まあ、人の家の事情を私があれこれ考えても仕方がない。真琴くんが無事に目的を果たして家に帰れることを祈りつつ、私は昨日のアミューズメント施設に向かうことにした。


「大変申し訳ございません。マグカップの忘れ物は先ほど取りに来られたお客様に渡してしまいました」
「そ、それって高校生くらいの黒髪の男の子でしたか!?」
「はい。つい二、三分ほど前ですよ」
「そうですか。わかりました」

 フロントに届けられていたマグカップを受け取ったのは多分時谷くんだ。
 私がマグカップを忘れたことに気付いていたから、代わりに取りに来てくれたんじゃないかな。駅の中で真琴くんと話している間にすれ違いになったのかもしれない。

 時谷くんへの連絡を迷っていたけど、こうなったらしなくては。ライブの件と美山さんについても聞きたいし。
 帰り道、スマホを取り出そうとポケットに手を突っ込んだ……が、あるはずの物の感触がない。体からサーと血の気が引いていく。

「……ない。こっちのポケットにもない! う、嘘。鍵がない……」

 玄関の鍵をかけた後、スマホと同じポケットに鍵を入れたはずだ。なのに、ポケットの中にはスマホしかなかった。
 ここまでの間にどこかで落としたんだ。スマホを取り出そうとしたのは今が初めてだし、他に落とすタイミングって――

「あ……」

 真琴くんとぶつかった時、何かが落ちた音がした。スマホより浅い位置に入っていた鍵が落ちたのかも。


「ハァー……」

 ため息が止まらない。たっぷりと貯まった黒く濁った泥水の中を木の枝で探っているが、まだ鍵は見つかっていない。
 たまに木の枝が泥の中の何かに当たるものの上手く引き上げられない。こんなことなら鍵にキーホルダーを付けておくんだった。そうしたら引っ掛けやすかったのに。

 もうこの際、直接手を突っ込もう。思い付く限りではこの方法が一番手っ取り早い。
 すぐそこに公園があるから汚れた手は速やかに洗えるだろう。

「……よし。い、行くぞ!」

 覚悟を決めて右手をドブへ近付けていく。
 すると、

「な、何してるんですか」
「うぇっ!?」

 背後から声をかけられた。私の行動を察して、見知った声の主は苦笑いを浮かべている。手にはマグカップの入ったビニール袋とスーパーの袋をぶら下げていた。
 なんて間の悪い……こんな汚いドブの中に素手を突っ込もうとしているのだ。とんでもない変人だと思われてそう。

「ま、待って! これは違うの。誤解しないで! 決して泥遊びとか、ザリガニを捕ろうとしてたわけじゃないんだよ。ここにザリガニいないと思うし!」
「いえ。さすがにザリガニ目当てとは思っていないので安心してください。ここに何か落としたんですよね? どんな物ですか?」

 慌ててドブから距離を取ると、どいた私に代わって時谷くんが濁った水を覗き込んだ。

「うわ……酷い臭い」

 そして、鼻をつまんで顔を引き攣らせる。

「大した物じゃないから気にしないで! 諦めることにしたからさ」
「少し持っていてください」
「え? うん……そうそう。マグカップ取りに行ってくれたん……だっ!?」

 半ば押し付けられるような形でマグカップとスーパーの袋を持たされて。手が空いた時谷くんの次の行動に、私は目をひん剥いた。

「な、なにしてっ!」
「ん、これかな?……ああ、ペットボトルのキャップでした」

 時谷くんは躊躇なく汚水に両手を突っ込んで、唖然とする私の前でゴミや石を道路の端に出していく。

「これも違う……」
「と、時谷くん! 探してくれてありがとう。でももういいの!」
「そう言って後から自分で探す気でしょう? こんなに臭くて不潔なところに綾瀬さんの綺麗な手を入れるなんてとんでもない」

 時谷くんの親切心はとても嬉しい。嬉しいが、お願いだからやめてーーと悲鳴を上げたくなる。
 時谷くんの色白の綺麗な腕が、肘まで地獄に飲み込まれている。私より時谷くんの方が遥かに綺麗で汚してはならない手だという自覚が彼にはないのだろう。
 しかし、時谷くんの指摘は当たっていた。私は時谷くんをやり過ごしたら自分で探す気満々なのだから。

「ほんっとーにしょうもない物だったの! そう、むしろ捨てる手間が省けてラッキーみたいな? いや、それはよくないね。ポイ捨て反対!……って、そうじゃなくて! は、早くそこの公園で手を洗いに行こうよ」

 時谷くんは私を無視して無言で探し続けている。やめてくれる気配はなかった。私は時谷くんの後ろで頭を抱える。
 でも、しょうもない物なんて大嘘だ。
 鍵が見付からなかったら困る。母は祖父母の家に泊まりに行っていてしばらく帰ってこないのだ。空っぽの財布以上に大切な物だ。

「――ねぇ、綾瀬さん。落とした物は本当に大切な物ではないんですか?」

 背中を向けている時谷くんが、水の中で動かしていた手をピタリと止めた。

「……う、うん。見付からなくてもいいや」
「そう……」

 短い返事は妙に冷たく、そっけなく感じた。時谷くんは一生懸命探そうとしてくれていたのに、私がしょうもない物だと言うから気を悪くしたのかな。
 不安に駆られながら動かない背中に声をかける。

「時谷くん、手を洗いに行こうよ」
「…………」

 声をかけても反応がない。時谷くんの纏う空気が重くなった気がして更に不安になる。

「もしかして……何か見付けたの?」

 だけど、ぼーっと一点を見つめている様子の後ろ姿は、落とし物を見付けたようにも感じられた。

「いえ、石でした。ひと通り探しましたが見付けられませんでした。役立たずでごめんなさい」
「役立たずだなんて……っ探してくれてありがとう。多分違う場所で落としたんだと思う。でももう諦めるね。本当にごめん!」

 振り向いた時谷くんが困ったように笑うから焦る。怒っているどころか見付けられなかったことを気にしているじゃないか。
 こんな親切心の塊みたいな人のことを冷たい声だの重い空気だの思うって、私はどこまで見る目のない奴なんだろう。

「そうだ、手! 手を洗いに行こう!」
「……はい」
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