Keep a secret
□またこの眺め
1ページ/1ページ
「……あいつって?」
「綾瀬さんの好きな男のことですよ」
時谷くんの気持ちは読めない。
怒っている声音じゃないのに、容赦ない力で手首を握り、鈍い痛みを私に与える。
僕を捨てないで離れていかないで、と弱々しく縋っているようでいて、私を逃がさない離さないという強い意志も感じた。
"あいつ"だなんて……まるで私の好きな人を知っているような口ぶりだ。
「どれくらいって言われても……まだよくわかんない」
「あいつのためなら死んでもいいくらい好きですか? あいつのためなら人を殺せますか? あいつの周りの人間のことは全員憎いですか?」
「そ、そんな物騒なこと思わないよ」
死ぬとか殺すとか憎いとか……考えが飛躍しすぎている。
「じゃあ、あいつと付き合いたいと思ってますか?」
「両思いなら付き合いたいけど……」
「そうですか。あいつとデートをして、手を繋いで、キスをして……いずれはセックスがしたいんですね」
時谷くんの言葉は淡々としていて抑揚がない。強く握られ続けている手首が痺れてきた。痛いけど、なんだかもうよくわからない……この麻痺したような感覚は、私の時谷くんへの気持ちに似てる。
「セ、セックスって……そんな言い方しなくても……」
私は時谷くんとどんな関係になりたかったんだろう……友達? 恋人?
今みたいに名前のつけられないおかしな関係を望んでいなかったことだけは確かだ。
「でも、」
時谷くんが私の太ももに埋めていた顔をゆっくり上げる。湿っていない瞳、赤みがひいた頬を見て、私はのんきにも少し安心した。
「付き合うってそういうことですよ。綾瀬さんは恋に恋する幼い年齢の女の子ではないんです。あいつと付き合ってからはどうするんですか? 将来は結婚したいと考えていますか? あいつの子供を産みたいですか? おばあちゃんになっても隣にいたいですか? 同じ墓で眠って、死んだ後も一緒がいいですか? 生まれ変わっても結ばれたいと願うほど愛していますか?」
時谷くんは自分自身の言葉で気分を害しているようで、眉間のしわが段々と深くなり、早口になっていた。
私は言葉が出てこない。
迫力に気圧されたのもあるけれど、気付いてしまったのだ。時谷くんが言っていることは全て、時谷くんの思いだ。時谷くんが好きな人へ抱いている、強い思い。
時谷くんは好きな女の子のためなら死ねるのだろうか。
結婚して同じ墓に眠り、生まれ変わっても結ばれたいのだろうか。
それくらい、愛しているのだろうか。
時谷くんの心の中は、私なんて入る隙間がないくらいに別の女の子でいっぱいだった。
無性に悲しかった。
悲しく思うのは、私には時谷くんをそこまで強く愛する自信がないから。
時谷くんのこと好きだけど、私の「好き」じゃきっと足りない。私の時谷くんへの思いと時谷くんの好きな人への思いは、同じ恋でも思いの強さが全然違う。
「綾瀬さんは……あいつがそばにいてくれないと寂しくて死んでしまいますか?」
縋るような視線から逃げようとした。
出口のドアを見て、壁に掛かった時計を見て、ソファーに転がるバッグを見て……
「私は死なないと思うよ」
それでもやっぱり最後には時谷くんの瞳を見つめ返して答える。
「お願い……僕のそばにいて。僕は綾瀬さんがいないと生きていけません。綾瀬さんが好きなんです」
「っ!」
時谷くんに抱きしめられる。抱き着かれる、という表現の方が近いかもしれない。
膝立ちした時谷くんが私の胸に顔を埋めて、このぬいぐるみが欲しいと駄々をこねる子供みたいに縋りついてくる。
骨が軋むほどの力強さ。けれど、頭が真っ白な私は痛みを感じ取る余裕もなかった。
「あなたが好きです……」
体を離し、頬に重ねられた手は温かった。
時谷くんの瞳には私しか映っていない。
疑問はたくさんあったし、さっきまで失恋だと思い込んでいたから実感が湧かない。
それでも、その真っ直ぐな言葉が偽りでないことは鈍感で少しお馬鹿な私にも伝わった。
だけど、私は――
「時谷くんは告白の前にするべきことがあると思うよ。私を脅してた写真……今この場で消してよ」
「えっ?」
私は……時谷くんの言う通り、臆病なのに意外と頑固なところもあって、曲がったことが嫌いだった。
「消してくれないなら告白の返事はできないよ」
私達の関係が決定的に拗れた原因、私の裸が映った写真を時谷くんが持っているということ、これは告白でうやむやにできる問題ではないと思う。
私は例え恋人相手にもそんな写真を撮らせる気はさらさらないのだ。
これから恋人として対等に付き合っていきたいという思いがあるなら、告白の前に写真を消してくれてもいいんじゃないか。
「っ、返事なんて聞かなくてもわかっています! 好きな人がいるから僕とは付き合えないんでしょ? わかってるんですよ……そんなことは……っ」
声を荒げた時谷くんによって肩を揺さぶられる。ガクガクと前後に激しく揺らされていたらソファーからずり落ちそうだ。
「そ、そんなのわからないじゃない!」
必死で体勢を保ちながら言い返した。
「そうやって期待させておいて裏切る気ですよね。僕との繋がりを全て断ち切って今後関わらないつもりなんだ!……写真を消したら付き合うと誓ってください。そうじゃなければ消しません……っ」
「そんな誓いしないよ! 写真を消してくれないなら返事は保留にさせてもらうから」
気持ちが急いて苛立ちが募る。それは時谷くんも同じなんだろう。
私達は今までずっとこんな調子で、すれ違っていたことに気付けなかったんだ。
「だ、だからっ、振るつもりなんでしょう? 今すぐはっきりしてください! どうしてごまかそうとするんですか……っ」
時谷くんの苦しげな表情に胸が痛む。
……だけど、万に一つも望みがないと思っているなら返事が聞けないことでこんなに取り乱したりするだろうか。
「時谷くんは、両思いかもしれないから告白の返事を聞いてみたいと思ってる。でも両思いじゃなくても私に離れていってほしくないから写真を消す気はないんだよね……それってなんか汚いよ。告白ってそんな風に保険をかけられるものじゃないと思う。時谷くんは自分が間違ってると思わないの?」
「……綺麗な人間でいる必要がありますか? 僕は人として間違っていたとしても、確実に綾瀬さんと一緒にいられる方法を選びます」
時谷くんが脅迫してくる理由は一年前にポストに入れたメモの約束を守らなかったことへの復讐だと思っていた。
だけど今、時谷くんの本心を知り、改めて感じる。好きだから、繋ぎ止めたいからってこんなやり方をするのは正しくない。
「……どうしてあの時消そうとしなかったんですか?」
「あの時って?」
「お見舞いに来てくれた日ですよ。僕のパソコンのパスワードがわかったんでしょう? 途中で手を止めたのは何故ですか」
「お、起きてたの?」
時谷くんが真剣な表情で問い掛ける。
私があの日、何だかんだと言い訳をして写真を消さなかったのは、今の時谷くんが写真を消さない理由と多分同じだ。
時谷くんのことが好きだから、一緒にいる理由がなくなるのが嫌だった。
「とっ、時谷くんが間違ったことをしてるって反省して自分の意思で消してほしかったからだよっ!」
でも、私が怒鳴りつけるようにして返した言葉も本心だった。
「僕が消すことはありません。綾瀬さんに避けられていた頃に逆戻りするかもしれないと考えたら怖いんです」
消さないという時谷くんの瞳にはもう迷いがなく、このまま言い争いを続けても答えは変わらないのだと思った。
「お願い消して……消してよ!」
私はヒートアップしてきて、時谷くんの肩を握る手を強くする。
「じゃないと私から話すことは何もな――」
ついさっきまでお互いの肩を押し合いながら問答を続けていたのに、時谷くんが急にフッと体の力を抜く。
「うわっ!?」
時谷くんはされるがまま、私に押し倒される形で背後のラグの上に倒れていき、勢いづいていた私もソファーから落っこちて彼の上になだれ込んでいった。
手の平を付けて頭だけ起こすと、私の下で仰向けに寝ている時谷くんの顔がすぐそこにあった。艶のあるさらさらの黒髪が白いラグの上に散らばっている。
早く退くべきなのだが……私から顔を背けている横顔があんまりにも綺麗で、見惚れてしまう。時谷くんって輪郭から顔のパーツまで完璧に整っているんだな。
「もういいです」
顔を背けたまま、視線だけが私に向く。
「綾瀬さんの返事はわかってますから。僕を好きになったら言ってください。拒絶の言葉なんか聞きたくない」
「あっ!?」
体が反転し、背中に衝撃があった。
反射的につぶったまぶたを開くと、見下ろしていた時谷くんの顔が今度は真上にある。蛍光灯の明かりを背にして私を見下ろす時谷くんは顔に陰がかかって恐ろしく見えた。
「またこの眺めだ。僕の下で綾瀬さんが顔を青ざめて、全身が僕を拒絶するみたいに震え出して……そんな綾瀬さんを見てると辛くて苦しくて……でも、少しだけ満たされるんです。今だけは僕が綾瀬さんの全てになってるって安心するのかなぁ……」
またこの眺め――
優しいところもある時谷くんが怖い時谷くんへと変貌するこの体勢、この眺めを、またか……と私も思った。
「はっ、離してよっ!!」
顔の横に縫い付けられ動かせなくなった手は諦めて、サンダルを履いたままの足で蹴り上げようとした……けれど、足首を掴まれて大きく開かされる。
「綾瀬さん、もう少し静かにしてもらえませんか」
時谷くんは不機嫌そうだが、私はさっきより大きな声で喚いてやろうと口を開ける。
「手離してってば!! やめ――うぇっ」
叫んでいる真っ最中の口の中、時谷くんの右手の指が二本も喉奥まで侵入してきて、軽くえずく。
「ひゃ、ひゃに!?」
「拒絶の言葉は聞きたくないと言ったでしょう。キスで口を塞がれたいですか?」
こんな状況でファーストキスなんて悲惨すぎるから黙るしかない。満足したように時谷くんが小さく笑う。
口内では人差し指と中指で舌を上下に挟まれて、舌の付け根から舌先、舌先から付け根へと扱くように動かされる。
「っ、ん、んぅ……」
時折上顎を撫でられたり、歯列をなぞられると、くすぐったいような心地好いような感覚がして変な声が漏れてしまう。
「もしかして上顎が気持ちいいの?」
なんて目ざとい人だろう。
時谷くんは喜々として唾液を絡ませた両指で上顎を撫でてくる。指のせいで閉じられない唇から唾液が零れて、顎を伝っていく。
私の上顎を撫でる指は、犬の首下を撫でて可愛がる動きと似てる。解放された左手で抵抗したいのに、好き勝手動く時谷くんの右手に弱々しく添えることしかできない。
逃げ惑う舌は時谷くんの二本の指に捕まえられて、舌の付け根から舌先まで扱かれる。自分の唾液が立てるクチュクチュという水音を聞きたくない。けど、私の体はこの恥ずかしい行為から快楽を拾ってしまっていた。
あそこがじわじわと熱くなる。
「ん……ふっ、んぅっ」
口を閉じることができない私はきっと間抜け面を晒している。そんな私の姿を時谷くんはうっとりと観察しているのだ。
口内を出たり入ったりする指が唾液で濡れて光って見えるのも生々しくて、更に羞恥心を煽られる。
「ほひはにくん……ひゃめへぇっ」
「はあっ、すごい……綾瀬さん、えっちな顔してる……」
熱っぽい息を吐き出し、目をトロンとさせている時谷くんの方がよっぽどえっちだ。
「ねぇ、キスしたい。してもいいですか?」
綺麗な微笑みが間近に迫る。
「うぅぅ! うーーっ!」
必死で首を横に振った。首を動かすと指が喉奥深くまで入りこんで少し涙が出る。
「泣くほど嫌なんだ。傷付くなぁ」
時谷くんはそんなことを言いながらヘラヘラ笑っている。私がキスを許すはずがないから、これはわかりきった質問だった。
「起きてください」
私の口内を散々掻き回してきた手の指から解放されて、けだるい体を起こす。
「ひっ! いっ、いやあっ!!」
油断していた私の両脚を時谷くんはいとも簡単に割り開いてみせた。いわゆるM字開脚という体勢を強いられて私の口からはまた悲鳴が漏れる。
「うるさいです……このまま舌を引っこ抜いちゃいますよ」
「っ、ひや!」
言うことを聞かない私に苛立ったのか、長い指がまた口内に侵入してくる。
「んぐっ! ひゃ、ひゃにふるのっ」
さっきまでの柔らかく挟んで扱くような動きとは違い、人差し指と中指で舌をつまんでぐいぐい引っ張られる。それこそ本当に引き抜こうとするように……。
だけど、逃げようとする唾液でぬるぬるの舌を引きずり出すことはできなくて、時谷くんは私の口内から指を抜いた。
「舌を出してください」
「はぁ、はぁっ……キ、キスだけはやめて!」
「ふふっ、キスだけ? その言い方だと他のことはしてもいいみたい」
「ち、違っ!」
告白の返事も聞かずにこんなことをしようとする時谷くんは嫌い。
時谷くんの何もかも全てが好き……なんて盲目にはなれない。
「ファーストキスって大切ですよね。僕も初めてだから気持ちがわかります……ね、キスしないから舌を出して」
私のふくらはぎを握る時谷くんの力は強く、"逃げようなんて思うなよ"と無言で脅されているみたいだ。私は羞恥心と戦いながら、唇から覗く程度に舌を出す。
「は……もっとだよ」
恥ずかしい恥ずかしい。
私の様子をジッと見ている時谷くんの呼吸は荒くなる一方だ。自ら服を脱ぐのと同じくらい恥ずかしいことを強要されている気がしながら、私は舌を大きく出した。
「はぁ……綾瀬さんの舌、綺麗なピンク色だ……」
「っ!」
多分もう引っ込ませないために舌を摘まれた。そして私のふくらはぎにあったもう片方の手で今度は顎を固定され……目を伏せた時谷くんの顔が間近に迫る。
キス……しないって言ったのに。時谷くんは最低の大嘘つきだ。
私はぎゅっと目を閉じた。