Keep a secret
□浮気ですか?
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時谷くんの料理は完璧だ。
美味しいだけでなく栄養バランスも考えられており、洗練された盛り付けは目でも楽しませてくれる。
しかし、今の私は料理より別のものに視線を奪われていた。
テーブルの隅に並べられた私と時谷くんのスマートフォンの画面は真っ暗だ。時谷くんと夏休みを過ごす約束をしたあと強制的に電源を落とされたままなのだ。
「ゆかりん達もご飯食べてる頃かな? 初日はバーベキューだって言ってたよ。ゆかりん達、どうしてるだろうね」
「バーベキュー? あっ……お肉を食べたかったんですね。気付けなくてごめんなさい」
「そういうわけじゃなくて……」
連絡が来てないか気になるなー、というアピールなんだけど、伝わってないのか。
それならば。
「写真が届いてるかもしれないし、ちょっと見ていい?」
「綾瀬さん」
許可を待たずにスマホへと伸ばした私の手に自身の手を重ね、彼は首を横に振る。
「食事中に行儀が悪いですよ」
「うっ……ごめんなさい」
時谷くん、お母さんより厳しい。
我が家ではラインの返信程度なら食事中でも許される。やりとりが長引いていつまでも食べ終わらなかったら、後にしなさいと叱られるけれど。
「ごちそうさましたら電源つけてもいい?」
「綾瀬さんはデート中に恋人がスマホに夢中でも許せるんですか?」
「デート中……はやだな」
「ですよね」
認めたな、と言わんばかりに時谷くんがにっこりと笑う。
「で、でもさ」
「僕も綾瀬さんを嫌な気持ちにさせないように電源を落としてるんですよ?」
限られた時間を外で過ごすデートとは違ってこれはお家デートの進化系――お泊まりデートってやつだ。いくらなんでも触っちゃいけない時間が長すぎない?
諦めきれずにスマホを握ったままの私の手を時谷くんも負けじと離さない。
無言の攻防の後、時谷くんが表情を緩める。
「まあ、綾瀬さんが目の前にいるのにこんなもの必要ないだけなんですけどね」
「っ!」
端正な微笑みに見惚れて顔が熱くなり、胸が高鳴る。手首をきつく握られて背筋が凍り、鳥肌が立つ。
ときめきと恐怖が同時に押し寄せてきたもんだから私の体は大忙しだった。
「わ、わかったよ」
「よかった。綾瀬さんならそう言ってくれると思ってました」
時谷くんはずる賢い。自分も同じ条件であることをこれ見よがしにアピールして、文句を封じてるんだから。
私がスマホから手を放したことで食事が再開される。
「ねぇ、電源だけは入れておいてもいい? もしも誰かが電話してきたら心配するかも」
軽い気持ちで言ったことだけど、時谷くんは顔をしかめて静かに箸を置く。
「綾瀬さんはいつも僕じゃない誰かのことを考えてるんだね……そうだ。目に入る位置にあるから気になるんですよね。綾瀬さんの荷物と一緒に二階に運んでおきますね」
「えっ」
時谷くんは素早く席を立ち、二人分のスマートフォンと私の手持ちのバッグ、キャリーケースを抱えた。
「明日の夕食はホットプレートを出しましょうか。お肉いっぱい買っておきますから」
「明日、ね……ありがとう」
やっぱり連泊する流れなのかな……。
私のぎこちない笑顔を見てから時谷くんは出ていった。思いのほか強く閉められたドアの音が耳に残る。
「なんか……息苦しいな」
一人になって本音がこぼれる。
私達の交際はまだ始まってない、はず。形式上は。それでも互いに好きだと伝え合ってから初めてのお泊まり……なのに息が詰まる。
家の鍵を落として泊めてもらった日より今の方が時谷くんに気を遣っていた。
理由ならいっぱいある。
告白の返事を先延ばしにしていること、昨日がなんの日か忘れてたこと、日向からも告白されたこと、昨日の真琴くんとの出来事をはぐらかされて教えてもらえてないこと、時谷くんが私のスマホから勝手に病欠の連絡をしたこと、それによってゆかりんとのラインの内容を見られたこと――
「うー……夏休みが終わるまであと十日、かぁ……」
***
スキンケア用品は必要。バスタオルは貸してもらえばいいかな。歯ブラシはさっき食後の歯磨きをしたついでに時谷くんの歯ブラシの隣に並べさせてもらった。
あとは着替えだけ。下着はパジャマで包んでおいて……うん。すぐに使うものはこれぐらいかな。
ここは私用に割り当てられた一室ではなく時谷くんの部屋だ。
自由にクローゼットを使っていいと言われても遠慮してしまうから荷ほどきは必要最低限、一瞬で終わった。
時谷くんはシャワーを浴びながら私のためにお風呂の準備をしてくれているが、一緒に入ろうとか言い出さないだろうか。
なんて考えながらベッドを背にじっとしていたら、プーンと耳障りな羽音が聞こえた。
パンッ
一発で仕留めた!
……けれど、重ね合わせた手のひらは潰れた蚊の死骸とともに赤く汚れていた。
もう吸われた後みたいだ。
血、血か――あわや大惨事になるところだった黒崎さんの家での出来事がフラッシュバックする。
時谷くんが本気で人を殺すために使おうとしたナイフはどこに? もしもこの部屋に保管されていたらと思うとゾッとした。
ティッシュケースからペーパーを一枚もらって手の平を拭う。下ろしたての新品らしきそれは普通のものよりちょっとお高い、肌に優しい素材のものだった。
蚊に刺された右の鎖骨のちょっと上あたりをポリポリと掻きながら、丸めたティッシュをゴミ箱に投げ捨てる。
すると――底からリン、と鈴の音がした。
ゴミ箱の底にあったそれを拾い上げてみると、ゾワゾワと嫌な感覚が体を這い回る。
「これって」
私が夏祭りで買った鈴と手織りのリボンのお守りだ。
キーホルダー代わりに家の鍵に通していたはず……慌ててカバンの中を探すが、やはり鍵からリボンと鈴はなくなっていた。
時谷くんが解いて捨てたんだ。
日向もこの鈴を家の鍵に付けていることは時谷くんも知っている。おそろいといっても神社のお守りだし、日向とは何もないからこそ正直にこのことを話したが、時谷くんは怒っているんだろう。
だからって捨てるのは酷すぎる。
私はキャリーケース内の目立たないポケットの奥に鈴とリボンを隠す。それからティッシュを何枚か丸めて追加で捨てることでゴミ箱の中を目立たないようにした。
許可なく人の物を捨てるなんて間違ってると、本当ならガツンと言うべきだ。
でも時谷くんを恐れる気持ちが勝ったから、バレないように立ち回ろうとしてる。
私と時谷くんって本当に仲良く付き合っていけるんだろうか……虫刺され跡を掻きながら、ため息が出る。
「明日帰ってもいいかな……」
そして体調が良くなったと伝えてゆかりん達のところに合流したい。
ついそんなことを考えてしまう私は、時谷くんと向き合うことから逃げてばかりいる。
「綾瀬さん、お風呂が沸きましたよ」
「っ!」
Tシャツにジャージというラフな服装の時谷くんが部屋のドアを開けた。
真っ直ぐな髪の尖端からまだ水が滴り落ちている。濡れた髪をバスタオルで荒っぽく拭く仕草は見た目に反して男らしい。
一緒に入ると言われなくてほっとするような、少し残念なような。
「ありがとう。入ってくるね」
「待ってください」
「どうかした?」
鋭い視線が私を咎めている。態度に出さないよう気を付けたつもりだが、穴のあくほど見つめられたら不安になる。
さっきの独り言聞かれてた?
それとも鈴を拾ったことがバレた?
「これ、何? 浮気ですか?」
「きゃあっ!?」
突然ぐんっと前のめりになる。見れば時谷くんは私のTシャツの襟元に指を掛けて、引っ張っていた。
"これ"って何?
浮気っていうのも身に覚えがない。
不機嫌そうな視線は私の右の鎖骨のあたりに向いている。
「……も、もしかして、この腫れのこと……じゃないよね、さすがに」
「本当に綾瀬さんって僕を嫉妬させるのが上手いですよね」
「え、えっ、ええ……? 蚊に刺されただけだよ?」
「あーあ。こんなに赤くなって……」
熱を持って膨らんでいる虫刺され跡を時谷くんの指が撫で上げる。
ゆっくりとした触り方で、なんだか性的なことを想起させる。そこをくすぐられると忘れかけていたかゆみがぶり返してくる。
Tシャツの襟元を掴んで引っ張り続けるのもやめてほしい。首周りの生地が伸びてしまうし、この隙間を上から覗けばブラジャーが見えてしまうじゃないか。
「っ!」
私より背の高い時谷くんにTシャツの中が見えていないはずがない……!
ハッと気付いた瞬間、顔に熱が集まる。
「キスマークみたいで気に入らない」
「ひゃっ!」
とびきり不穏な言葉の後、時谷くんの柔い唇が首元に吸い付いた。
ピリピリ痛むけれど、かゆくてたまらなかった箇所を丸ごと口の中に食べられ、真空状態の唇できつく吸われるのはちょっと気持ち良いかも……なんて思っている間に時谷くんはちゅぽんと音を立てて唇を離した。
「わ、えろ……綺麗に赤くついた」
「あっ……嘘!」
時谷くんの指先が先ほどと同じように、でも満足そうに笑いながら私の腫れている箇所をなぞる。
ただの虫刺され跡だったそこは、時谷くんによって本物のキスマークに上書きされてしまった。
「なっ、何すんの! この位置、服で隠せないよ。しばらく外歩けないじゃんか!」
「外に出る必要なんてないじゃないですか」
「うう……」
明日時谷くんの家を出て、ゆかりん達と合流しようと思ってたのに……。
でも、始業式までには日数があるから消えるだろう。
「ねぇ、綾瀬さん。僕は正直すっごく悔しいんです」
「ひゃ、何して……!」
Tシャツを解放してもらえたと思ったら今度は下からたくし上げられ、ブラジャーが堂々と晒される。
「家に連れて来て、スマホも没収して、これでやっと綾瀬さんを独り占めできると思ってたのに……虫なんかに先を越されたことが、ただただ腹立たしい」
ああ……時谷くんの嫉妬心なめてた。
すぐ真後ろのベッドに流れ作業のように押し倒されながら、かゆみがぶり返す首元を恨めしく思った。