Keep a secret
□理想のタイプ
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「な、何で私は行っちゃ駄目なの?」
「駄目っていうか……七花が自分で言ったんでしょ。今年は行かないって」
「そんなこと言ってないよ!」
「確かに言いました」
呆れ顔のお母さんに私は負けじと言い返す。
「とにかく私も行くからね。おばあちゃん達に会いたいし」
「残念。一枚しか新幹線のチケット取ってないの。それに、もう一人で行くって伝えてあるんだから迷惑でしょ」
「そんなぁ……」
冷たくあしらわれて情けない声が出た。
そんな私を励ますように時谷くんが肩をポンポンと叩いてくれる……が、彼の口元は緩んでいた。私が泊まりに行かなくてよかった、という本音を隠しきれていない。
「あのねぇ……本当に忘れたの? お母さんは七月頃に、七花も一緒に行こうって何度も誘ったの。でも七花は、私が今会いたい人はおばあちゃんじゃない。どこにも行きたくない。何もしたくない。しんどい。眠い……って、宿題もしないでぐうたらしてたでしょ。自業自得です」
「そ、そういえば……」
七月といえば黒崎さんとの約束を守って時谷くんを避けていた時期だ。
あの頃の私は元気がなく抜け殻みたいな状態だったから、今年もおばあちゃんのお家に行くよねと聞かれて、断ってしまったのだ。
「は、はいっ! 綾瀬さんの会いたかった人って誰なんですかっ?」
時谷くんが律儀に挙手をしてから立ち上がる。あなたがその相手ですよ、なんてとてもじゃないが言えない。
「気にしないで。適当言ってただけだよ」
「そうですか……」
時谷くんは大人しく椅子に座ったけど納得はしていないようだった。何となくそんな視線を私に向けている。
「聞いてよ薫くん。七花ってば夏休みの前半はほとんど外に出なかったんだよ。せっかくのお休みなんだからパーッと遊べばいいのにね。薫くんはどう過ごしてたの?」
「……綾瀬さんがほとんど外に出ていない……」
何言かを呟きながらぼんやりしている時谷くんに、私とお母さんは視線を集中させる。
私も時谷くんが夏休みの前半をどう過ごしていたのか気になっていた。
「あっ、実は僕も同じです。生活必需品を買いに行く以外は引きこもっていました。特に予定がなかったので」
「薫くんも? それなら七花と二人で遊べばよかったのにねぇ」
……お母さん、余計なこと言わないでください。そう出来なかった事情があるのですよ。
「そうですね。でも残りの夏休みを一緒に過ごすからいいんです」
「っ!」
気まずくて、膝の上でもぞもぞと動かしていた手に冷たい時谷くんの手が重なる。そのままぎゅっと握られた。
テーブルを挟んだ向こう側にお母さんがいるのに、なんて大胆な……。
「それなら安心ね。七花をよろしくね、薫くん」
「はい」
私がぽかんと間抜けに口を開けていても時谷くんは笑顔を崩さない。
もしもお母さんにバレたら恥ずか死ぬ。そう思うのに、手を握り返してしまっている自分が一番恥ずかしかった。
私の視線を受け、「ん?」と首を傾げる時谷くんは意地悪なような、優しそうな笑みを浮かべていて。私達は残りのご飯を片手だけでなんとか食べた。
お母さんは時谷くんとのお喋りに夢中で気付かなかった……と思いたい。
病み上がりの時谷くんは、今日一日安静にして過ごすことになった。我が家で安静に、というのも変な話ではあるが。
パジャマから私服に着替えてリビングに戻ってみると、時谷くんとお母さんは私のアルバムを開いて昔話に花を咲かせていた。
「七花のにっこにこの笑顔見てよ。このクマのぬいぐるみが大のお気に入りだったの。どんなに大泣きしててもこのクマを渡せば泣き止んだのよ」
「ふふ……可愛いですね。前に見せてもらったアルバムでもこのぬいぐるみ抱っこしてましたね」
「そうそう。あったわね。あれは確かクマを洗濯してる間に七花が泣い――」
「や、やめてよ! 恥ずかしい!」
慌ててアルバムを奪い取れば、二人ともやれやれ……と言った調子で呆れたように見上げてくるが勘弁してほしい。
「お母さん! 勝手に時谷くんにアルバムを見せないでよ」
「さて、そんなことより薫くん。今日は掃除のお手伝いありがとね。大助かりだよ。薫くんが息子になってくれたらいいのに」
「十八歳になったらすぐにでも!」
まーた、お母さんは余計なことを。
私の文句は当たり前のようにスルーされていた。時谷くんもお母さんのくだらない冗談に乗るのはやめてくれないかな。
「おっ! 私は娘の旦那いびりとかしないから安心してよ。薫くんのお母さんはどんな人なの?」
「うーん。放任主義ですかね。たまの電話以外は干渉してきません。だから綾瀬さんも安心です」
「そっか、よかったよかった」
へぇ、嫁姑問題が起こらない環境ならありがたいな……なんて、真剣に聞き入っている場合じゃない。
時谷くんもどういうつもりなんだろうか?
普段は決して愛想が良い方ではない彼が、私の母に気に入られようと媚びへつらっている様は少し気味が悪い。
「さっ、模様替えの続きしましょうか。七花も手伝ってよ」
「時谷くんは病み上がりなんだから駄目。模様替えはまた今度ね!」
お母さんと一緒にいられるのは面倒だから、私は時谷くんの腕を引っ張っていく。
「あの、綾瀬さんの理想の旦那さん像は……?」
階段を上りながら、さっきしていた会話の続きのようなものが始まった。
「えー……や、優しい人かな」
「他にはないんですか?」
「ま、まぁね」
本当の理想は優しくて、かっこよくて、頼りになって、浮気しなくて、家庭を大事にして、普通に暮らせるだけの稼ぎがあって……
あくまで理想だ。結局は好きな相手なら理想とかけ離れていても関係ないんだろうし。
だけど、こんなにたくさん挙げ連ねたら嫌な女だと思われそうだから隠しておく。
「……優しい人になるのって、簡単なようで一番難しいですよね。高収入なら努力次第でいけますし、顔は整形でどうにかなるんでしょうけど、優しい人は……」
「そうかなぁ? 少し意識を変えるだけでなれるよ。多分」
「いえ、」
階段を上りきったところで時谷くんがピタリと足を止めた。
「内面は変えられないですよ。表面だけ取り繕うことは出来るかもしれませんが」
冷たい声に、暗い目。嫌な汗が伝う。
「な、何か怒ってる?」
「怒ってません……ただ、俺はきっと、優しい人にはなれないから……」
「え?」
時谷くんは優しい人になりたいのかな。
そりゃ誰だってなりたいだろうけど、彼の場合は特に気にしていることだったのかもしれない。
「綾瀬さんは理想の相手と結婚なんて無理ですよ。姦通罪を犯してますからね」
「それって不倫を表す言葉でしょ!?」
「そうですよ。でも綾瀬さんはこれから出会うはずだった優しい優しい旦那さんを裏切ったんです……僕に抱かれてね?」
暗い表情で俯いていた時谷くんが、急に明るい声で話し始める。片方の口角を吊り上げて、意地の悪い笑みだ。
「婚前交渉は罪深いですからね。綾瀬さんは僕以外の相手と結婚する資格はもうないんですよ」
「婚前交渉とか、今の時代に気にする人少ないと思うけど……ようは時谷くんは、私が一生結婚できないって言いたいわけだ」
もしも仮に時谷くん以外とは結婚できないとしたらそれは一生独身宣告に等しかった。
「違いますよ。綾瀬さんは結婚できます。優しい優しい旦那さんの夢さえ捨てればね……そうじゃないと僕も困るんです」
「あっ、ちょっと! 意味がわからないんですけど?」
時谷くんは言いたいことだけ言うと私の部屋にさっさと入っていった。
***
私の部屋で、時谷くんと二人きり。男の子を部屋に上げたのは時谷くんが初めてだ。
椅子といえば勉強机とセットの一脚のみ。ベッドに座るのは気まずいから、私達はラグの上に腰を落ち着けた。
時谷くんはそわそわと体を揺らしながら私の部屋を眺め回している。
「綾瀬さん、あのクマのぬいぐるみは置いてないんですか?」
「ああ、あれね」
アルバムの中で抱いていたクマのぬいぐるみは、幼い頃の私の一番の宝物だった。
どこぞのブランド品のテディベアや、ハンドメイドの一点物とかではない、おもちゃ屋さんで売ってる量産品。幼稚園児が抱きしめるのに丁度いいサイズで、ハートの形をした大きなふわふわの耳が愛らしかった。
幼い頃の曖昧な記憶の中でも、あのクマが大切だったことは覚えている。
「今はないよ。お父さんと離れて暮らすことになった日に、私がどうしてもってわがまま言って、お父さんにあげたんだ。クマの代わりにってお父さんがくれた目覚まし時計は私が壊しちゃった……多分お父さんもクマ捨てちゃってるだろうね」
「そうだったんですか。ごめんなさい……」
父のことは触れてはいけない話題だと思ったのか、私が時計を破壊した原因は自分にもあると気にしているのか、時谷くんは露骨に表情を固くした。
「別にいいんだよ。今の私はクマがないからって泣いたりしないし、スマホのアラームで起きれるもん。でも、懐かしいなぁ。あのクマの首の赤いリボン、可愛かったんだよね」
洗濯する度にリボンを解き、幼い私が結び直していた。おかげで縦結びになっていたけれど、私は上手くできていたつもりだった。
「じゃあ! 僕が似たクマさんを探してプレゼントしますよ」
「い、いい……あの子の代わりはいないもん」
「ぬいぐるみなんてどれも同じですよ」
「そ、そんなことないでしょ」
綾瀬さんがクマを抱っこしてるとこ見たいのに……とぼやく時谷くんの横で、私の視線はベッドの方に吸い寄せられていた。
時谷くんからクマをプレゼントしてもらったら、また昔みたいに枕元に置いて一緒に寝てもいいかも、なんて密かに思いながら。