Keep a secret
□夏休みの残り
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七花へ
時間は大丈夫? 遅刻してゆかちゃんに迷惑かけないでよ。お小遣いも使いすぎないようにね!
薫くんも一緒なら安心だったのに残念だわ。気を付けていってらっしゃいね。
お母さんより
心配性のお母さんからのメモ書きは朝食とともにテーブルの上に置かれていた。
今日は出勤時間が早く、私を起こせないことを昨晩から心配していた。お母さんを安心させるため、時間通りに起きれたことを伝えたメッセージにスタンプの返信が届いた。
私はキャリーケースに手を伸ばす。
八月末まで、約十日間。こんな長期外泊は初めてだったから張り切って準備した。
一応はみんなで課題や勉強をするという名目の集まりだ。勉強道具を詰め込んで、着回しやすい衣類にプール用の水着、日用品、厳選したけれど持ち物は多い。
キャリーケースは既にパンパンだ。お土産を入れる余地がないのが帰りの心配点。
十日も留守にすると思ったら少し寂しいな。静かなリビングを見渡すとお母さんからのメモが目についた。
なんとなく、お守り代わりに。手持ちのカバンにそれを入れる。
「よし……いってきます」
こうして私は一人、我が家とのお別れを済ませた。
ピンポーン――
朝八時。時谷くんとの約束の時間だ。
お泊まり会の集合時間は九時だから、時谷くんの家を八時半に出れば間に合う。
応答のないインターホンの前に立ち、時谷くんの部屋の窓を見上げるとちょうどカーテンがシャッと閉められた。
上から見られていたのかな。
数秒後、時谷くんは外まで出てきた。
「おはよう時谷くん」
「はい、もらいます」
「えっ」
息つく暇もない。業者の人みたいな早業で私のキャリーケースは室内へ運ばれた。
「上がってください」
時谷くんはそのまま玄関の扉を片手で開き、周囲を確認しながら私を呼んでいる。
「綾瀬さん、早く」
「う、うん」
大きい荷物がなくなり身軽になった私は時谷くんの家の門扉を潜り、敷地内に足を踏み入れる。
ふと脇に視線を向けると玄関周りの花壇が殺風景で、違和感があった。
「え?」
向日葵がない。正確に言うと向日葵の花の部分が全て刈り取られている。
初めて来た日も前回来た時にも手の平くらいの大きな花を咲かせた向日葵が出迎えてくれたのに、今の花壇に残されているのは根っこ付近の太い茎だけだ。
向日葵は私が一番好きな花。そして、花に興味がなさそうな時谷くんが育てていることも不思議だったから印象に残っていた。
「ねぇ、花壇の向日葵どうしたの? 枯れちゃったの?」
にしても、頭だけ切り落とされた向日葵がずらりと並ぶ光景は異様だ。
「いいから早くこっちに来てください」
苛立ち混じりの声が、私を呼んでいる。
時谷くんの視線は私というより私の背後の世界に向けられていた。釣られて振り返るが周囲には何もない、誰も歩いていない。
「綾瀬さん」
時谷くんに視線を戻す。
余分な靴が一つもない玄関。靴箱の上には向日葵が一輪飾られ、廊下には私のキャリーケースが置かれている。
時谷くんの家には何度も来たことがある。今までと違う何かがあるとすれば、向日葵の切り花が室内に飾られていることだけ。
でも――なぜだか入りたくない。
私の意識は玄関脇に並んだ頭のない向日葵に囚われていて、この先に進むことを拒絶していた。
「綾瀬さん、早く」
「ひゃっ!」
私が立ち止まっていたのはそこまで長い時間ではなかった。せいぜい十秒ほど。
だけど時谷くんはしびれを切らしたように私の手首を掴んで、次の瞬間には玄関の中に引きずりこまれていた。ガチャン、鍵とドアロックの重い音が響く。
時谷くんは自分のと私の靴を向日葵が飾られた白い靴箱の中にしまう。
そのままキャリーケースのキャスター部分をさっと拭って廊下の奥へ引いていくから、私も彼の後ろに続いた。
「向日葵は中に飾りました。綾瀬さん、向日葵好きですよね?」
リビングの大きな花瓶にも向日葵が束になって飾られている。
「うん、好きだけど……ちょっと可哀想」
私はすぐに時谷くんの家を出ていくのだ。駅でみんなと合流し、ゆかりんの叔父さんの別荘に夏休みの終わりまで泊まる。
私が向日葵を好きだからと飾ってくれても、帰ってくる頃には枯れているだろう。
「切らない方が長く咲いていられたのに」
こんな一瞬のもてなしのために花の寿命を縮めてもったいない。
向日葵は太陽の下が似合うから、余計にそう思った。
「でも、外は危ないですから。家の中なら外敵から守ってあげられるし、綺麗な姿を独占できますよ」
時谷くんはテーブルの上に用意してあったティーポットを傾けながら話を続ける。
透明なこのティーポットには苦い思い出がある。多分入っているのもあの時に頭からぶっかけられた中身と同じだろう。
「いいんだけどね……」
モノトーンでまとめられた時谷くんの家に鮮やかな黄色が映えているのも事実だ。
「スペシャルブレンドのハーブティーです。飲んでください」
「ありがとう。いただきます」
のんびりお茶を楽しんでいる時間はないのだが、せっかく用意してくれていたのだから無下にはできない。
「わっ、美味しい。良い香り」
ごくごく流し込んで感想を伝えれば、時谷くんはこちらを見もしないで「よかった。変な味しなくて」とこぼした。
そっけない……とも違うが、今日は時谷くんとあまり目が合わない気がする。
「綾瀬さんが家を出てから僕の家に入るまでの間、誰も通りませんでしたね」
「え、どうだっけ? 気にしてなかったな。それより昨日の話なんだけ……ふぁーあ」
話の途中だが、あくびが我慢できなかった。大きく開いた口を隠す手も間に合わず、こっ恥ずかしい。
「ごめ、ふぁぁ……」
謝ろうとしたそばからまた。今度は手で隠せたけれど、あくびは止まらない。
困ったな。急に眠たくなってきた。
昨夜は準備に手間取ったのと考え事が長引いたせいで睡眠時間が短かったんだよね。
あくびの連続で視界がぼやける。
時谷くんも私のあくびが移ったのか口元を手で覆っているようだった。
「綾瀬さん眠たそう。三十分まで寝ていいですよ」
「だ、駄目だよ。絶対起きれないもん……それより、本題に入ろうよ。昨日何があったか聞かせてよ」
「僕が起こしてあげますよ」
「あっ……」
ソファーの上で抱きしめられる。
あったかい。時谷くんの匂いに包まれていると安心する。
心音と同じリズムで優しく背中をぽんぽん叩かれたらもうまぶたを開けていられない。
「ん……な、んで急にこんな、眠いんだろ」
「その理由、知ってますよ。本当に大好きな人と一緒にいると幸せすぎて眠くなることがあるらしいです」
「大好きな、人」
黒崎さんの家での一件以来、時谷くんを怖いと感じている。付き合うのが不安だとも。
でもこうして時谷くんの胸の中でうとうとしているのは彼のことが大好きだから?
……そうは言っても今までこんな睡魔に襲われることなかったんだけどな。
「わたしね……日向の告白断ってくるからね。そ、れに写真いっぱい撮って送るね。お土産も買、う……から……」
「おやすみなさい、綾瀬さん」
時谷くんの囁きを合図に、私の意識は遠のいていった。
***
まぶたの裏で眩しさを感じて薄っすらと目を開ける。今は何時だろう。
今日は駅前に九時集合で、その前に時谷くんの家に寄ることになっている――
「んー……っ!?」
枕元のスマホを見ようと手をやるが、普段とは違う感触。私が横たわっているのは時谷くんの家のソファーだ。
「え、えっ……やばい、がっつり寝ちゃった! 今何時なの? スマホ、スマホはどこ!?」
「おはようございます。もう夕方ですよ」
「夕方ぁ!? ど、どうしよう。集合時間九時なんだけど! ゆかりんは?」
「心配いりません。綾瀬さんの代わりに送っておきましたよ」
時谷くんは我が物顔で私のスマホを操作して画面を見せてきた。
体調不良で行けなくなった旨を伝えるメッセージは、私が寝ながら打ったのかと疑うくらい自然なものだった。
ゆかりんもまさか送り主が時谷くんだとは夢にも思わなかったんだろう。「時谷くんからしつこく連絡が来ても無視してゆっくり休むんだよ」なんて送ってきている。
それに対し、私が最近よく使う「OK」のスタンプで返信した時谷くんの心境を思うと、背筋が凍る。
「な、何でロック解除できたの? 複雑な暗証番号に変えておいたはず!」
「綾瀬さんの指をお借りしました」
「指紋認証……」
普通の彼氏なら、寝ている彼女の指で勝手にスマホのロックを解除する?
普通の彼氏なら、彼女になりすまして勝手に友達へメッセージを送る?
……どちらもありえない。
お母さんの書き置きを思い出して頭を抱える。お母さんは何であんなに時谷くんのこと信頼してるんだろう。
「綾瀬さんが体調不良で行けないと言ってるのに予定を延期してくれないんですよ。冷たい人達ですね」
「ハァ……大人数で行くんだよ。私の都合で延期されたら申し訳なさで死にたくなるよ」
遅刻どころか欠席――お母さんの心配通り、ゆかりんに迷惑をかけてしまった。
「うー……なんか頭痛い……寝すぎたのかなぁ」
ショックで本当に体調が悪くなってきたのか、体を起こすと頭がズキズキ痛む。
「ごめんなさい……僕、わざと起こさなかったんです。この旅行で綾瀬さんが前山田と距離を縮めて、僕じゃなくて前山田を選ぶんじゃないかって不安だったから……」
「時谷くん……そう、だよね……」
時谷くんの瞳が揺れている。
きっと私が逆の立場でも不安になるし、行かないでほしいと願っただろう。
「まあ……寝落ちしたのは自分だから仕方ないね。けど、あーあ。夏休み後半の予定一気になくなっちゃったな」
ゆかりんやのんちゃん、日向、仲の良い友達との十日間のお泊まり会――
最初こそ迷いもあったものの、行ったら絶対楽しい思い出になっただろうし、名残惜しくないと言えば嘘になる。
でも、時谷くんの真剣な想いと向き合わず、逃げようとした罰が当たったのかも。
「綾瀬さん、残りの夏休みを僕と過ごしてください。家に帰らなくてもお母様も心配しないでしょう?」
時谷くんは要するに、このままここに泊まれと言っている。
彼の手には私のスマートフォンがあった。
スマホがないと落ち着かない。それこそ生きていけないといっても過言ではないのだ。
私にとってはそれくらい価値があるものを固く握りしめた時谷くんの手は、私を帰さないと訴えているように見えた。
「わかったよ……少しだけだからね」
「ありがとうございます!」
時谷くんと離れてみたかった。十日間という短くて長い期間を彼のいない場所で過ごし、彼への気持ちを再確認したくて。
でも、たったの十日、彼と距離を置くということがこんなにも難しい。
「綾瀬さんとずっと一緒にいられるんだ。何しようかなぁ。わくわくしますね」
「え、十日泊まると思ってないよね? そこまでは言ってないんだけど……」
「あははっ、大丈夫です。きっともう、家に帰りたいなんて思わなくなりますよ」
久しぶりにしっかりと目が合った時谷くんが笑った。