Keep a secret
□僕にください
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連れて来られたのは鍵が偶然空いていた近くの資料室だった。
当然のように壁際に追いこまれ、私は壁と時谷くんの間で縮こまる。
「前山田に抱きついてましたね。早速浮気ですか?」
「あ、あれはふらついたところを支えてもらっただけだよ」
「そうですか……綾瀬さん、体調が良くないんですね。青い顔してますよ」
ひんやりとした手のひらが私の頬に添えられる。時谷くんは労るように撫でてくるけれど私の不調の理由、本当は察してるくせに。
「真琴くんと何があったの?」
「何も……黒崎さんに届いた脅迫文の件は昨日解決したじゃないですか」
「でもさっき校門前で」
「ねぇ、綾瀬さん――」
時谷くんの囁き声は妙な甘さを帯びていた。
「っ!」
時谷くんの膝が脚を割り開くように差し込まれて、私の脚の付け根、秘所のあたりをスカートの上からぐりぐりと圧迫する。
「ちょ、ちょっと時谷くん」
「好きです」
「や……あれで解決したって言えるのかな」
「綾瀬さん、好き……」
ちゅ、ちゅと啄むようなキスが顔中に降ってくる。時谷くんは真面目に話をする気がないようだ。
「黒崎さんも納得してるかわかんないよ。ねぇ、校門前で何があったのか教えてよ」
「その件はもういいんです。綾瀬さんは心配しないでください」
「っ、でも小学生が泣いてたって聞いたよ。真琴くんが来てたんでしょ?」
顔を背けても時谷くんの唇は追いかけてくる。何度も何度も頬に触れる唇が少しずつ私の唇へ近付いて……唇の端同士が当たるかどうかの位置で止まった。
「そんなことよりも。先ほど綾瀬さんも認めてくれたことですし、僕達はもう恋人同士ですよね。キス……したいです」
「あ……っ」
時谷くんが長いまつ毛を伏せ、少し顔を傾けながら整った唇を私に寄せる――
「やめて!」
けれど、触れ合う直前に彼の胸板を思いきり突き飛ばした。
「っ、何で……!」
「ご、ごめん。まだなの……まだ心の準備が……」
「僕は綾瀬さんを十分待ちました。いつまで我慢したらいいんですか。いい加減僕のものになってください!」
「ひっ!」
時谷くんが私の顔のすぐ真横の壁に拳を打ち付けると、振動でガラス棚が音を立てた。
「綾瀬さん、僕のこと怖いですか?」
「うん」
「どうして?」
「だって……」
時谷くんは私のためならどんなことでもできる人だ。昨日のように――人に危害を加えることだって躊躇なくできてしまう。
「ごめん。昨日の今日で動揺してて……もう少しだけ待って。夏休み明けに返事をするよ。約束するから」
「なら……高橋さん達とのお泊まり会に行かないで」
「な、何で?」
「僕の目の届くところにいてください」
「……それはできないよ。ゆかりんとは前から約束してたし」
時谷くんのことが怖い。両思いのはずなのに彼と私の気持ちは何かが決定的に違っていて、彼の愛を重たいとも感じている。
でも、少し距離をあけてみたらわかるのだ。楽しいこの場所に時谷くんもいてくれたらいいのにって、私はきっと恋しくなるはずだから。
探るような時谷くんの目をじっと見つめ返す。先に目を逸らしたのは時谷くんだった。
「悪いけど、僕は生涯諦めないので綾瀬さんは必ず僕と付き合う運命にあるんですよ。早く覚悟を決めてくださいね」
そうなのかもしれない。こんなにも私を想ってくれている時谷くんを本当の意味で拒絶する未来は見えない。
今日付き合うか、夏休み明けに付き合うか、ほんの少しの差。
もしも断ったとしてもいつかは絆されて時谷くんの彼女になる日が来るんだろう。
「先に帰って。私はゆかりんと帰るよ」
「高橋さんは綾瀬さんを家まで送ってくれるんですか?」
「うん、大丈夫だから」
時谷くんは納得していない様子だが、資料室のドアを開ける。
「綾瀬さん、今日が何の日か覚えてますか?」
「え?」
――今日? 学校以外に何かあったっけ?
私が答えの代わりに首を傾げると時谷くんは少し寂しそうに笑った。
「いえ、いいんです。寄り道しないで帰ってくださいね。約束ですよ」
結局、真琴くんと何があったのか聞けなかったな。
なんとなく体がだるくて起き上がる気になれず、開けっ放しのドアの向こうをぼんやり眺めていると、誰かが立ち止まった。
「七花! やっと見付けた!」
「大丈夫っ? 体調悪いの?」
日向とゆかりんだ。
二人とも心配そうに私の元に駆け寄ってくる。私が教室に置いたままだった鞄も持ってきてくれていた。
***
「明日、駅前に九時だからね。寝坊しないように気を付けてよ。日向のためには一分も待ってやらないってゆかりん言ってたよ」
「ああ……そうだな」
「うん」
隣を歩く日向は普段の明るさが嘘みたいに静かだ。非常に気まずい。
日向と二人で帰るのは初めてだけど、初めて時谷くんと帰ることになった日より私は全然緊張していなかった。共通の話題もあるし、いつもみたいに喋り倒してあっという間に家に着くだろうと思っていたのだ。
しかし、日向はずっとこんな調子だ。
この状況が生まれるきっかけを作ったのはゆかりんだった。
「前山田! 七花が体調悪そうだから家まで送ってあげてよ。あんた男でしょっ! シャキッとしろー!」
ゆかりんは私の鞄を日向にぐいぐい押し付けて、「私の親友を一人で帰らせたら許さないからね」と念押ししてから先に帰ってしまった。あんなに急いで、何か用事でもあったのだろうか。
沈黙が続く中、近所で一番大きな時谷くんの家の前を通りかかる。
二階の時谷くんの部屋のカーテンは開いているものの窓に人影はない。こんな場面を見られたら大変だから、一先ず安心した。
「日向、ここが――あ……」
日向は去年、不登校の時谷くんにプリントを届ける役割だった。ここが時谷くんの家だよ、と何気なく教えようとして、今日が何の日か思い出した。
八月二十日――私が時谷くんの家のポストにメモを入れた日だ。
軽い気持ちでしたことだったけれど、あのメモが時谷くんに与えた影響は大きい。彼にとって今日は特別な日だったに違いない。
それなのに私は朝から時谷くんを避け続け、キスもあんな形で拒絶してしまった。
今更ながら強い後悔に襲われた。
「送ってくれてありがとう」
「あ、おう……」
「気を付けて帰ってね。じゃあ、また明日」
「あっ、あのさ!」
「ん?」
すっかり暗い気分で門扉を開けると引き止められた。日向は思い詰めた顔をしている。
「あ、え、えっと。お、俺は」
出てこない言葉を絞り出そうと口をパクパクさせてから、最後に大きく首を振った。
「俺っ、七花が好きなんだ。俺と付き合ってよ!」
日向の顔は真っ赤だ。真剣な告白なんだ。
「あっ、えっ、えっ?」
からかうつもりで言っているわけじゃないことが伝わってきたから、今度は私が意味もなく口を開閉する番になった。
緩みきっていた鼓動も急速に早まり、顔面に熱が集中する。
「わ、私――」
「うわあっ! いい、いいから! 返事は待ってくれ! てか、答えわかってるし……でもさ、俺ももう少し頑張りたいんだ。明日からは俺のことも男として意識してくれよ……じゃ、じゃあまた明日なー!」
「あっ、日向! また明日ね!」
告白、されてしまった……。
いつから好きでいてくれたんだろう。ゆかりんは日向の気持ちを知っていたのかな。
これまではお調子者の日向のことを異性としてほとんど意識してこなかった。
でも、明日からは多分意識してしまう。どんな顔をして会ったらいいのか、早くもわからなくなっている。
ただ、時谷くんが日向の気持ちを知ったらどんな恐ろしい手に出るか……。
私の答えは決まっている。お泊まり会から帰ってくるまでに断らなければ。
「ただいまー」
火照った頬を手で仰ぎながら、ドアを開ける。
「お帰りなさい。綾瀬さん」
「ひぃっ!」
玄関に立っていたのは制服姿の時谷くん――まったく想像もしていなかった出迎えに、私の心臓は危うく止まるところだった。
「何ですか? 化け物でも見たような顔をして」
段差の分だけいつもより高い目線。時谷くんは私を見下ろしながら笑う。
私の心拍数はさっきより格段に跳ね上がっていることだろう。
「ちょっと驚いただけだよ。ただいま」
落ち着こう。日向の告白を聞かれたとは限らない。もしかしたら今ちょうど玄関に近付いてきたところかも――
「全て聞いてましたよ」
時谷くんは私の考えを見透かしたように距離を詰めてきて、そう囁いた。
「っ!」
「へぇ。俺が迫ったら顔を真っ青にしてたのに、前山田が相手だとこんなに顔を赤くして……心臓も破裂しそうになってるんだ……」
時谷くんは私の胸に耳を当てて呟くが、その声には静かな怒りが含まれていた。
「七花、おかえり」
「ただい――っ!」
言葉が詰まる。リビングからお母さんが出てきたというのに、時谷くんは私の手に指を絡ませてきたのだ。
「あっ、邪魔しちゃった? ごめんねぇ?」
やっぱり勘違いされてしまった。
それでも手を離すどころか強く握ってくる時谷くんはどういうつもりなんだ。
「ふふっ、邪魔だなんてそんな」
ニヤニヤといやらしい笑みを向けてくる母に時谷くんは笑顔で対応する。
「七花ー、聞いたわよ。薫くんと付き合い始めたんだってね! わざわざ報告に来てくれたのよ。薫くんって真面目でいい子よね」
「え?」
「薫くん! 何かと不出来な娘ですが、末永くよろしくお願いします」
「はい! 僕、本当に綾瀬さんが大好きなんです。一生幸せにします」
「きゃーっ! こんなにイケメンで誠実な彼氏を捕まえるなんてやったわね七花!」
「えぇ……?」
一応この場には私と時谷くんとお母さんの三人がいるはずだが、私だけ完全に置いてかれている。
そして母よ、バシバシと遠慮なく叩かれている背中が痛いです。
「お母様、軽い気持ちじゃありません。真剣に綾瀬さんを愛しています」
「もうっ、ありがとね! なんか私まで照れちゃうわぁ!!」
「お母さんうるさいよ!」
「いやあ、青春っていいわねっ」
「ちょ、背中痛いってば!」
私達まだ付き合ってません、と否定できる雰囲気ではなかった。私も無性に照れくさくなって、お母さんの肩を叩き返す。
「だから……ごめんなさい。大切な綾瀬さんを僕にください……」
このとき、私とお母さんはわあわあ騒がしくしていて、時谷くんの言葉を真剣に取り合わなかった。
何とかお母さんを台所に引っ込めることに成功し、一人で時谷くんを見送る。
「綾瀬さん、明日のお泊まり会……行くんですか?」
「い、行きたいけど……駄目、かな?」
「そうですか……」
駄目と言われるに決まってる。でも時谷くんに待ってもらっている間に日向からも告白されてしまった。
時谷くんを不安にさせていることに対して罪悪感があったから、私はつい許可を求めてしまったんだろう。
「わかりました。それなら行く前に僕の家に寄ってください。今日あったことを話しておきたいんです」
「話してくれるの? 今からじゃ駄目? 明日は結構朝早いんだよね……」
「すぐ済みますから。ああ、僕とのこの約束は秘密にしてくださいね。お母様にもですよ。知られたら行くの止められるでしょ?」
ゆかりんや日向が知ったら心配すると思うが、お母さんは茶化すだけじゃないかな。
話なら今日にしてほしいのが本音だった。でも時谷くんだって本当は嫌な気持ちを押し殺して許可してくれたのだから、私もわかったと素直に頷いた。
「綾瀬さん、また明日」
「うん。また明日ね」
確かに時谷くんは容姿も頭もよくて一途だし、お母さんもあんなに気に入っている。彼氏として申し分ない男の子だろう。
でも、付き合っていると勝手に挨拶に来たり、彼の行動には違和感がある。
私はぎこちない笑みを返した。