Keep a secret

□不愉快なので
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 私は布団の中で体を丸める。
 時谷くんに握られた手首にはまだ微かに赤い跡が残っている。蒸し暑い室内でエアコンも付けずに布団を被っているが、体は震え続けていた。

 怖かった。すごくすごく怖かった。
 自宅に帰ってきてもまだ生きた心地がしない。

 黒崎さんの家で、潜んでいた男達に口を塞がれ寝室へ連れ込まれた時の恐怖と後悔は今まで感じたことがないものだった。それでも時谷くんなら助けてくれると信じていたから必死になって抵抗し、声を上げることができた。
 そう、時谷くんが来てくれなかったら今頃どうなっていたかわからない。私は時谷くんに助けてもらったのだ。
 わかってる。わかってるけど――

 今までで一番の恐怖は時谷くんによってすぐに塗り替えられた。我を忘れて凶器を振りかぶった姿はそれだけ恐ろしかった。
 時谷くんを説得できたのだと思い込んでいたけど、まさか包丁の代わりに小さなナイフを隠し持っていたなんて。

「うー……」

 どうして私は誰にも相談できずに一人で震えてるの。
 今日に限った話じゃない。時谷くんと親しくなってから怖い思いをしてばかりだ。

 音を聞くのが嫌でサイレントモードにしたスマホにさっきからひっきりなしに通知が来ている。全て時谷くんからの着信やメッセージだった。
 私はなにも時谷くんのことを避けようなどと考えていない。
 ただ、今日は疲れてしまったのだ。
 今の状態では時谷くんが望むお話はできそうにないのに通知が止まないから、追い詰められている気分になる。

 いっそのこと電源を落としてしまおうか。そう思いスマホを手に取ると、着信の切れ間に新たな着信――画面に表示された名前は、私がいま最も話したい相手だった。

「も、もしもし、ゆかりん?」
「七花〜! 出てくれてよかったぁ」

 よく通る明るい声にホッとして、震えが少しずつおさまっていく。

「明日って何か必要な物あったっけ? プリントなくしちゃって困ってたんだぁ」
「明日?」
「えっ、学校だよ。自主登校だけど、七花も行くでしょ?」
「あ、あー……ちょっと待ってね!」

 そういえば明日は八月二十日。学校があるんだった。私は自然と布団から這い出て、夏休み前に配られたプリントを探し始める。
 時谷くんはこの間も電話をかけてきているだろうから、私が誰かと通話を始めたことに気付いただろうな。

「うーん? 七花、何かあった? なんか元気ないね」
「あ……」

 普通に話しているつもりだったけどゆかりんには伝わってしまったみたいだ。

「ゆかりん……」
「うん、どうしたの?」

 いつも通りの優しい声……目の奥が熱くなって、涙がぶわっと押し寄せる。

「あ、あの、あのね――」

 ずっと私の頭を占めていたけれど、話せなかった悩み。これ以上抱え込むのも限界で、ゆかりんに聞いてもらいたくなった。


 ***


「おはようございます。約束通り迎えに来ました」

 翌朝――制服に袖を通して玄関を開けたら門の前に時谷くんが立っていた。普段より三十分も早い時間なのに当たり前みたいな顔をして。

「約束なんてしてたっけ?」
「昨日ラインしましたよ」
「……昨日は疲れてて見てないや。ごめんね。今日ゆかりんと学校に行く約束してるんだ」
「あ、昨日の電話……じゃあ僕も一緒に」

 私の大好きな笑顔を浮かべてみせるが、彼がほんの一瞬ぴくっと表情を歪めたのを私は見逃さなかった。

「いいですよね?」
「えっと……」

 時谷くんは人を避ける傾向にあるから引き下がってくれることを期待したのにな。

「七花、おっはよー!!」
「ゆかりんおはよう」
「おはようございます」
「お、おはよ。時谷くん」

 時谷くんに向けたゆかりんの挨拶は明らかに声のトーンが低く、表情は強張っていた。
 ゆかりんはいい子だ。口も固いし、信頼している。でも感情が素直に態度に出やすいタイプなんだよね。

「高橋さん、僕もご一緒していいですか?」
「う、うん」

 本当は嫌だけど断りにくいから仕方なく。そんな調子でゆかりんは頷く。

 この夏休みに私と時谷くんの間にあったことを、黒崎さんとのトラブルを隠して話すのはむずかしかった。
 ゆかりんに伝わったのは、私が時谷くんに告白されたこと、私も好きだけど付き合うのが少し不安なこと、時谷くんに返事を急かされて困ってることくらいだ。

『時谷くんってそんな強引なタイプだったの? こっちの気持ちを無視してグイグイこられても迷惑だよね。しっかり考える時間を取った方がいいよ。本当に好きなら待ってくれるはずだもん!』

 ゆかりんは多分結構……いやかなり、時谷くんのことを酷い奴だと誤解したようだ。
 これは完全に昨夜の私が悪い。
 最初こそ恋愛相談のようなノリだったが、私は言葉を選びながら話しているうちに、突然わあっと泣き出してしまった。
 ゆかりんからしたら何がなんだかわからないけれど、私が酷く怯えている、これはただ事ではないぞと思ったんだろう。

 だからゆかりんは、ストーカー一歩手前の同級生から親友を守ろうとするがごとく、こうして家まで迎えに来てくれたのだ。

「高橋さんが許可してくれました。行きましょう綾瀬さん」
「あっ……」

 昨日の帰り道同様に時谷くんが私の手首を握った。彼の大きな手は氷みたいに冷たい。
 昨日は繋いだ手を私が振り解いたからこの形になったが、今日はもう私の意思を確認もせずに引っ張っていくつもりらしい。

「あっ、だめだめ! 七花は私と手ー繋ぐんだもん!」

 時谷くんと反対側の腕にゆかりんがくっついてきて、自然に手を絡めてくる。
 温かで小さな手だ。私も控えめに握り返すと、ゆかりんはこっそりウィンクをした。
 私が困っていることに気付いて助けてくれたんだろう。

「女の子同士の特権なんだよ。ねっ?」
「うん」

 昨日のように手首に跡が残るくらい強く握られるのは嫌だったから、素直に肯定する。
 時谷くんは無言で手を解くと、歩く速度を極端に緩めた。すぐに時谷くんの姿は視界の後ろに消えて足音も小さくなる。

 時谷くん、怒ってるかな……。
 痛いほどの視線を感じるが振り返る勇気はなかった。罪悪感を抱きながらもゆかりんと手を繋いでの実質二人きりの登校となった。


 ***


 夏休み中の学校は午前で授業が終わる。
 授業の合間はゆかりんを中心にして明日からのお泊まり会の話で盛り上がっていた。

 明日――八月二十一日から、始業式の前日である三十一日まで、ゆかりんの叔父さんが所有する別荘に泊まらせてもらう予定だ。
 ゆかりん、ゆかりんの彼氏の押野くん、のんちゃん、日向、他にも仲の良いクラスメートがたくさん来る。
 昨日の今日だから迷いはあったけど、みんなの輪の中で笑っていたら少し気持ちも軽くなった。以前から約束していたことだし、せっかくだから楽しもう。


 全ての授業が終わり、すぐに荷物をまとめて帰る生徒、残って話をしている生徒が半々くらいの教室で、時谷くんの姿はなかった。
 早々に帰ったのか……それともトイレかな。

「大事な話があるから来てください」
 一時間前にそう言って腕を引っ張ってきた時谷くんを「今日は嫌」と拒絶したのは他でもない自分なのに――私は結局、ここにいない時谷くんのことを考えていた。

 わいわい賑やかなゆかりん達を残して、私は時谷くんを探しに教室を出た。
 時谷くんとは明日からしばらく会えなくなる。彼の話が何だったのか聞いておきたい。そうじゃないと、お泊まり会でずっともやもやしそうだった。

 まだ校内にいるのか確認のために向かった下駄箱で日向に会った。
 珍しく、元気のない様子の日向に。


「本当に時谷くんが……?」
「そうだよ。言っとくけど、周りに下校中の生徒もいっぱいいたし、嘘じゃないからな」

 時谷くんの靴は下駄箱にもうなかった。
 それなら私も帰ろうと、教室に置いてきた荷物を取りに教室へ向かう道中――日向は信じられない話をした。
 ついさっき時谷くんが校門前で小学生の男の子を泣かせていたというのだ。日向が止めに入ると、その男の子は走り去ったらしい。

 小学生――小学生って誰だろう?
 まさか私に避けられている腹いせとして通りすがりの小学生を泣かせるわけがない。
 一番可能性が高いのは真琴くん……かな。
 真琴くんだとして何があったの? 昨日黒崎さんに真琴くんのことを教えたから、それで何か起こったとか……?

「うっ……」
「七花! おいおい大丈夫か!」

 昨日のことを思い出したら急に激しいめまいがした。日向に抱きとめられ、なんとか体勢を保つが頭の中は不安で満たされていた。
 時谷くん……学校にまであのナイフを持ってきてないよね? 真琴くんに何かしようとしてないよね?

「……なあ、七花って本当に時谷と付き合ってんの? 教室であいつに話しかけられた時、嫌がってたじゃん。今と同じですごい具合悪そうな顔してたよ」
「それ、は」

「付き合ってます」

 背後から腕が伸びてきて、日向の胸から引き剥がされる。そのままお腹に腕を回され抱きしめられて、私とおそろいのシャンプーの匂いがふわりと香った。
 時谷くんが耳元に唇を寄せる。

「ね、綾瀬さん?」

 耳たぶに柔らかく唇を触れさせながら囁かれる。人前でこんなことをする人じゃなかったのにどうして。

「っう、うん……」

 付き合ってない――本当はそう言って体を突き飛ばしたいけれど、そんなことをしたら様子のおかしい時谷くんが次にどんな行動を取るか恐ろしかった。

「お前さ、なんか無理やり言わせてないか? 七花怯えてんじゃん」
「はあ? 僕の彼女に触らないでください。不愉快なので」

 時谷くんの態度は明らかにいつもと違う。
 冷え冷えとした声に思わず「ひいっ」と漏らしそうになるが、私は日向を安心させるために笑ってみせた。

「日向、私なら大丈夫だよ! ちょっとケンカ中だったんだ。時谷くんと話したいからもう行くね。い、行こう時谷くん」
「はい、綾瀬さん」

 日向に背を向けて、強制的に繋がされた手はすぐに恋人繋ぎへと変わった。
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