Keep a secret

□立てますか?
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 高一のあの夏の日。
 もしも綾瀬さんがポストに手紙を入れてくれなかったら、俺はとっくに高校をやめていた。
 高二のあの校舎裏。
 もしも綾瀬さんが勇気を出して声をかけてくれなかったら、俺の初恋は一縷の望みもなく終わるところだった。

 俺の運命はいつだって綾瀬さんに委ねられているといっていい。
 俺の人生を救うことができるのも壊すことができるのも綾瀬さんしかいない。

 でも、たまに空想する。

 俺は少女漫画のかっこいいヒーローで、綾瀬さんは気弱で優しいヒロイン。
 放課後の校舎裏で黒崎さんに絡まれているのが綾瀬さんで、それを助けるのが俺だったなら――「立てますか?」あの日俺がそう言って差し伸べた手を、綾瀬さんは取ってくれただろうか?

 俺の救世主が綾瀬さんであるように、綾瀬さんを救うのも俺でありたいと思うのに。
 俺はどうしていつも――


「だから、あたしに手紙を出した犯人わかってんだろ? 言えよ!」
「知ってどうするの?」
「お前には関係ないだろ!」

 黒崎さんは高級そうな革張りのソファーに腰かけて、貧乏揺すりをしている。
 黒崎さんに話す役目を「私に任せて」と買って出たのは綾瀬さんだが、先ほどから同じ問答が続いていた。

 尾行中に若野先生が他の女子生徒とホテルに入っていくところを見た。相手の顔は暗くてよくわからなかったけど。
 そんな風にぼかして話をしたところでこの女が諦めるわけがない。
 それに、若野先生の裏切りには気付いていたのかもしれない。さして驚きもせず苛立ちだけを募らせているようだった。

「綾瀬は席外してよ。時谷の方がまだ話通じそうだわ」
「えっ、そんな!」

 綾瀬さんは不安げに俺を見る。「時谷くんを一人で置いていけないよ」という心の声が伝わってくるようだ。
 純粋に俺の身を案じてくれているなら嬉しいが、俺への心配というよりも自分のいない間に真琴くんと美山さんのことを話される可能性を危惧してるんだろうな。

 ――ごめんなさい。
 できれば綾瀬さんの信頼を損ないたくないけど……俺は目の前の問題を速やかに解決する方法を選ぶかもしれない。

「綾瀬さん、大丈夫ですよ。すぐ話を済ませるので家の外で待っていてください」
「う、うん」

 納得していない様子の綾瀬さんには悪いけど、俺は彼女を黒崎さんの前から遠ざけることができてほっとしていた。
 これでポケットに忍ばせたお守りを使う機会も訪れないだろう。


「あー、喉乾いた」

 黒崎さんは仕切り直しとばかりにテーブル上のポットを手に取り、水らしき透明な液体をグラスへ注いでいく。

「お前も飲む?」

 こんな何が入っているかわからないもの飲むわけないだろ――そう思いながらも断るのも面倒だから無言でグラスを受け取る。

「で、あたしを脅したバカは誰なの? お前は綾瀬と違って他人を庇おうなんて思わないよな」
「……庇う気はない。けど、相手に何もしないと誓ってもらえませんか」

 真琴くんは若野先生の庇護下にあるし、まだ小学生だ。危害は加えないと信じたいが、この女だから何とも言えない。
 真琴くんに何かあったら綾瀬さんが悲しむから、できれば何も起こってほしくない……気持ちもあるが、こんなことを言い出した一番の理由は言い訳作りのためだった。
 「黒崎さんが何もしないと誓ってくれたので伝えました」と、後で綾瀬さんに報告しなければならない。

 これは綾瀬さんの彼氏にしてもらうための試験みたいなもの。この問題を解決できれば綾瀬さんと付き合えるんだ。
 もう、すぐそこまで来ている。
 早く、早く、俺を綾瀬さんの彼氏にして。綾瀬さんは俺のものなんだと安心させてほしい。

「黒崎さん。多分知ったところで手を出しにくい相手だと思いますよ」

 平静を装いながらも俺が今どれだけ焦っているか、目の前の女にはわからないだろう。

「そうだな……じゃあ」


「や――嫌ぁっ! 時谷くん!!」
「っ!」

 ――綾瀬さんの声。

 パリン
 俺の手から滑り落ちたグラスが足元で割れて靴下を濡らす。

「ハァ……何で声出させてんだか……」

 そんなに遠くない。家の中だ。
 俺はすぐさま廊下に飛び出した。

 一階の廊下の突き当たりの部屋から複数の男の声と物音が聞こえてくる。
 数秒でたどり着ける距離。でも一秒だって惜しいから自分の足の遅さを強く呪った。
 そうだ、昨日ファミレスで会った元親友にも俺の走り方はださいって笑われたんだった。

 なに油断してたんだ。綾瀬さんを失ったら俺は――

 たった数秒が地獄のように長く感じた。足の裏が痛むのはグラスの破片で切ったのかもしれない。
 やっとのことでドアを開けると、ベッドに転がされた綾瀬さんの上に男が馬乗りになっている光景が飛び込んできた。
 全身が粟立つ。

 綾瀬さんに何してるんだ。
 彼女から離れろ。今すぐどけ。
 彼女に触るな。触るな。

「汚い手で彼女に触るなよ――!」

 脳の血管でも切れたのか、一瞬目の前が真っ赤になって、俺はポケットに手をやっていた。


 ***


「……っ……」

 気が付くと、綾瀬さんが泣いていた。
 俺の下に横たわった彼女の綺麗な髪がシーツに扇状に広がっている。瞳からぽろぽろと透き通った雫をこぼす彼女の周りには白い羽根が散らばっていた。

 なんて綺麗なんだろう。
 本物の天使みたいだ。

 ぼんやりしながら視線を少し動かすと、羽毛布団に突き刺さる折りたたみナイフが目に入った。微かに血がついている。
 そこでやっと、つい先ほど起きた出来事を思い出した。

 綾瀬さんを襲おうとしていた男を背後から刺そうとして――防御した男の腕を刃が掠めた。次に男の胸部、あるいは腹部目がけてナイフを振り下ろそうとして、綾瀬さんが駄目だと叫んだ。
 ……それで俺は手を止めることができた。

 逃げていった男のうちの一人が言い放った言葉が妙に頭に残っている。
「やっぱりお前は狂ってるよ」
 あれは、この家でバスルームに閉じ込められた際にもいた男だったか。

「綾瀬さ、ん……」
「うっ、うぁぁ……っ」

 俺の下で泣く綾瀬さんの目は真っ赤だ。何度も見たことがある泣き顔と光景だと思った。俺もあの男たちと同じことをして、綾瀬さんを泣かせてきたから。
 でも、幸い今の彼女は無傷のようだ。

「綾瀬さん、立てますか?」
「っ、やっ!」

 パンッ
 もうすぐ手が届きそうだったものが、壊れる音がした。

「綾瀬さ……」

 差し出した手にじわりと熱が広がる。

「やっ、あっ、ご、ごめん! わ、私……そのっ、ごめんなさっ」

 綾瀬さんが震えているから、羽根がふわふわと舞い上がる。俺を見る目は恐怖に染まっていた。
 俺は助けようと思っただけなのに、これじゃ彼女を組み敷いて乱暴した時と変わらない。

「綾瀬さん……ごめん……」

 俺にもっと力があったらナイフなんか持ってくる必要はなかった。
 悪い奴の顔面にパンチを一発お見舞いし、綾瀬さんを軽々とお姫様抱っこして救い出したのかもしれない。
 悔しい。自分が情けなかった。どうして俺はこんなにかっこ悪いんだろう。


「て、手紙を出した相手を突き止めるって言い出したのは綾瀬だろ。あ、あたしを裏切ろうとするからいけないんじゃん……」

 いつの間にか部屋の入口に黒崎さんが立っていた。
 常に自信に満ち溢れ、高圧的に喋るこの女にしては珍しくおどおどしていて、怯えを感じさせる声だった。

「犯人は若野先生の息子です」
「え、真琴っていうんだっけ……確か小学生でしょ。本当に?」
「本人も認めたから間違いありません」
「時谷くん!」

 体を起こした綾瀬さんの抗議の声を無視し、俺は話を続けた。

「こんなこと、もうやめてください。じゃないと僕も黒崎さんと若野先生が一緒に映ってる写真を流してしまうかもしれません」
「は、はあ!?」

 美山さんを尾行していた日、偶然目撃した若野先生と黒崎さんの写真だ。
 変に話せばどんな逆恨みをしてくるかわからないから黙っていたが、俺だって最初からこうやって脅せばよかったのか。

 折りたたみナイフをパチンと閉じる俺の手はみっともなく震えていた。
 今回も綾瀬さんに救ってもらったのは俺の方だ。
 もしもあの男にナイフを振り下ろす瞬間、綾瀬さんが止めてくれなかったら――

「……お願いだから、もう僕と綾瀬さんに関わらないでください。綾瀬さんに手を出されたら僕は本当に……何をするかわからないんです」

 また、綾瀬さんがこんな目にあったら、今度こそ取り返しのつかないことをしてしまう。
 そう確信が持てる自分が少し怖かった。

 帰り道。ふらつく綾瀬さんを支えたいのに手を繋いでもらえなかったから、彼女の細い手首を引いて歩く。

 犯人が真琴くんだと伝えたこと。
 怖い思いをさせたこと。
 何度も謝ったが、綾瀬さんは震え続けていて一言も口を利いてくれなかった。
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