Keep a secret

□不正解な答え
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 カチ、カチ、カチ――

 眠れない夜は時計の秒針が妙な存在感を発揮する。

「痛……っ」

 逃げるように寝返りを打つと傷だらけの肌が擦れて声が出た。
 ほとんどカサブタが出来たものの大きな傷はまだ治っていない。綾瀬さんの前では平気なフリをしているが、本当は痛みを我慢している場面も多かった。

 うんざりした気分で枕元の時計を手に取れば、時刻は深夜一時過ぎを指していた。
 長い時間をやり過ごした気がするのに、さっき確認した時間から五分しか経ってない。

 ここ数日は張り込みのために始発から出かけていき、終電で帰宅する日々だった。疲れが溜まっている。
 しかし俺はなかなか寝付けずにいた。
 二時間前に電話した際、「今日は早く寝てゆっくり休んでね」と綾瀬さんも言ってくれたのにな。

 ――綾瀬さんが俺のことを好き。

 信じられない。でも、夢じゃない。
 日を改めてから気持ちを確かめてみても、当たり前だよと、夢ではなかったことを裏付ける答えが返ってきている。
 これは現実なんだ。

 ただ、綾瀬さんの「好き」はふわふわしていてまだ形が定まっておらず、いくらでも形が変わる可能性があるんじゃないか。
 それとも些細なきっかけで割れてしまうような壊れものだったとしたら、「ごめん。勘違いだったみたい。付き合うって話はナシね」と明日言われるかもしれない。

 こうして俺が綾瀬さんのことを思っている間にも綾瀬さんは心変わりしてるかもしれないんだ。
 不安でたまらない。
 もちろん綾瀬さんが軽い気持ちで俺に思いを打ち明けたわけじゃないってことはわかってるつもりだ。
 だけど、自分が綾瀬さんに愛されるに足る人間かと考えたら、途端に怖くなる。
 何度も無理だと思った、叶うはずがないと思ってきた彼女に、もうすぐ手が届きそうだからこそ怖いんだ。

『起きてますか?』

 ラインを開けば、五分前に入力だけした未送信のメッセージが目に入る。
 ニ時間前、電話を切る直前にも気持ちを確かめたのだ。綾瀬さんは恥ずかしそうに「好きだよ」と言ってくれた。
 離れていても幸せで満たされる時間だった。

 なのに今。俺がこんなにも思い詰めていることを知ったら、なんて面倒な奴なんだと綾瀬さんもさすがに呆れるかな。
 それとも「あれから二時間しか経ってないよ」と笑ってくれるだろうか。

 綾瀬さんも相当お疲れだった。睡眠の邪魔をしたらいけない。
 彼女の眠りは深いからメッセージの通知程度では起きないだろうが、それでも身勝手な文章は消してまぶたを閉じる。

「綾瀬さん……」

 会いたい。綾瀬さんに会いたいよ。
 綾瀬さんが眠れない夜に会いたいと焦がれる相手も俺であってほしい。

 カチ、カチ、カチ――

 静かな部屋で、秒針が一定のリズムを刻んでいる。
 早めることが出来ないこの音をあと何回聞いたら朝日は昇るんだろう。あと何度こんな夜を過ごしたら不安から解放されるんだ。

 早く眠れ、早く眠れ。朝が来れば綾瀬さんに会えるんだから……!
 必死でつぶった目の端から涙が溢れてくる。俺はごまかすように枕に顔を擦りつけながら寝返りを打った。


 ***


 駅前にあるランチタイム中のファミレスは混雑していた。
 良く言えば賑やか、正直に言えば綾瀬さんの声を掻き消そうとする雑音が不快だった。

「真琴くん、泣いてたね……」
「そうですね」

 向かいの席に座る綾瀬さんはぼんやりしていて口数が少ない。
 先ほど話を終えて帰っていった若野先生の息子のことが気がかりなんだろう。

『ママも知ってるんだ。パパとあのお姉さんが悪いことしてるってこと!』

『でもね。パパには言わないんだって。ママたまに一人で泣いてる。可哀想だよ……』

『僕がしたこと秘密にして! このことを知ったらママがもっと泣いちゃう』

『僕はママもパパも大好き。悪いお姉さんからパパを取り返したいだけなの』

 お姉ちゃん、お願い! 僕を助けて――

 若野先生の息子、真琴はあの女に脅迫の手紙を出したことを認めた上で、そう綾瀬さんに泣きついた。

「綾瀬さん。僕達も黒崎さんに脅されている身です。犯人がわかったんだから早く伝えてこの件は終わりにしましょう」
「でも! 黒崎さんが真琴くんになにか仕返ししたらどうするの?」
「どう、って」

 ――どうもしないし、何とも思わない。

 確かにあの女なら小学生相手でも何をしでかすかわかったものではないが、真琴くんや若野先生の家庭がどうなろうと関係ないことだ。
 綾瀬さんに被害が及ばないなら後は勝手にしてほしい。
 ただ、この考えは口にすべきではない。不正解な答えであることは何となく理解していたから言葉に詰まった。

 グラスを伝う水滴を指でなぞりながら熟考する。
 正しい答えを言わなくちゃ。
 綾瀬さんに嫌われないために、好きでいてもらうために、俺は常に正解し続けなければならないんだ。
 痺れを切らした綾瀬さんが少し強めの口調で話し始める。

「真琴くんのことは秘密にしようね。美山さんの名前も伏せた上で、若野先生が他の女の子にも手を出してることを報告しようよ。黒崎さんもさすがに若野先生に幻滅して別れたくなるかもよ」

 綾瀬さんが真琴くんと話をすると言い出した時点でこうなることは予期できていた。

 綾瀬さんは元からお人好しだが、加えて責任も感じているらしい。
 真琴くんが手紙を出しに行こうとした日、自分が道を教えなければ。
 お金を貸さなければ。
 彼は思い留まり、こんなトラブルは起こらなかったかもしれないと思っているのだ。

 綾瀬さんは困ってる子供に親切で手を貸しただけ、何一つ落ち度はない。
 しかし、人を思いやる優しい心を持っているところも綾瀬さんの良いところだ。
 ……その優しさを俺だけで独占できないことが寂しくもあるが。

「黒崎さん怒りますよ。丸く収まるとは思えません」
「わ、わかんないよ。黒崎さんだってショックでしおらしくなるかも。何か言われたら、その時にまた考えよう。決定ね!」

 綾瀬さんは一息で言い切り、オレンジジュースを煽る。グラスはあっという間に空っぽになって、この話は終わりだというように勢いよく机に戻された。

「入れてきますよ。またオレンジジュースでいいですか?」
「あ、うん。ありがとう」

 綾瀬さんと自分のグラスを持って素早く立ち上がった。


 このままだとあの女に逆上されてろくなことにならない未来が見える。綾瀬さんも納得してくれる良い案はないだろうか。
 考えながらドリンクの補充をしてテーブルに戻ろうと思った時だった。

「薫?」

 背後から声をかけられた。

「あ……」

 懐かしい声に心臓が跳ねる。
 急に呼吸の仕方を忘れたみたいに息をすることが難しくなった。

 この嫌な感覚には覚えがあった。
 あれは中学一年生の二学期。一番仲が良い……と俺は思っていた友達の裏切りを知った日、味わったものと同じ。
 声の主はまさにその友達。俺が二度と会いたくないと思っている存在だった。

「やっぱり薫だ! 偶然だな」

 俺の顔を覗きこむ、短く整えられた髪と日に焼けた肌の活発そうな男子。
 背が伸びて体格も良くなっているが、笑うとほとんど目が見えなくなる明るい笑顔は昔と変わらない。

「俺のこと覚えてない?」

 そっちこそ俺を覚えていたのか。県外に住んでいるはずなのに何故こんな場所に。どことなく前山田に似てるな。
 いろいろ思うことはあったが、浅い呼吸を繰り返す俺の喉からは言葉が出てこない。

 パリンッ

 音に釣られて足元を見ると、俺の手から滑り落ちたグラスの破片やドリンクが派手に飛び散っていた。
 目の前の男子が「うおっ」と声を上げ、水たまりの出来た床から離れる。近くにいた店員がモップを持って駆け寄ってきた。

「落としちゃったの? 怪我してない?」

 騒ぎを聞きつけた綾瀬さんも心配そうに俺を見上げている。
 綾瀬さんを連れて早くこの場を離れたいのに――足が床に張り付いて動かない。心臓は異常なほど激しく脈打っていた。

「君って薫の連れ?」
「そうですけど……?」
「なに、もしかして付き合ってんの?」

 無言で青ざめている俺と返答に困った様子の綾瀬さんを見比べ、彼はハハと笑う。さっき見せた人の良い笑顔ではなく、意地の悪さが滲んだ笑み。

「薫ってさ――」

 気持ち悪い――かつて向けられた軽蔑の眼差しが色濃く蘇る。過去の俺の心を殺した言葉が、頭の中で反響していた。

「行きましょう……っ」
「あっ、時谷くん!」

 綾瀬さんの手を引っ張って会計に向かう。
 彼は逃げ出した俺の後ろを追いかけてまではこなかった。

 息が苦しい。ギリギリと過去に首を絞められている。食べたばかりの物が逆流して、喉奥で辛い味を感じていた。
 あいつが何を言おうとしていたのかはわからない。
 だけど、これだけはわかる。俺が「久しぶり」と笑って応じることができなかったから、過去に存在したカーストのようなものが再び掘り起こされた。
 変わりたいならあの一瞬しかなかったのに、俺はチャンスを逃したのだ。

 綾瀬さんの前で情けない。
 かっこ悪い過去のことはもうとっくに知られているし、みっともない姿も散々見せている。それでも募る惨めさに頭がおかしくなりそうだった。
 俺の異変を感じ取った綾瀬さんが何も言わずに手を引かれているから余計にだ。


 カチ、カチ、カチ――

 時計の音がうるさい夜。
 昨晩よりずっと強い不安に襲われていた。

 相変わらずこちらに確認を取らない一方的な呼び出しで、明日あの女の家で会うことが決まってしまった。
 真琴くんと美山さんのことを隠してあの女を納得させられるだろうか。
 以前は俺があの女に捕まったから綾瀬さんまで呼び出され、彼女の身を危険に晒している。
 あの日の無力な自分と、今日ファミレスで震えていた弱い自分が重なる。

 もうこんな失敗は繰り返さない。
 綾瀬さんを守り抜く。例えどんな手を使っても――それが正解だ。
 そうしたら。今度こそ僕を綾瀬さんの彼氏にしてくれますよね。


***


 一睡もできずに迎えた当日。
 真夏の直射日光が寝不足の体に容赦なく降り注ぐ。隣の家の庭木に止まったセミの鳴き声が頭に響いてクラクラする。
 綾瀬さんは約束の時間ちょうどに玄関の扉を開けた。

「時谷くん、早いね。待たせちゃった?」
「こんにちは! 今来たところですよ」

 本当は十五分前から待機していたけれど。
 俺の姿を見て顔を綻ばせた綾瀬さんの手元で鈴が揺れる。チリンと可愛い音が鳴った。夏祭りで買ったというお守りの鈴だ。
 綾瀬さんは前山田とお揃いだというその鈴を鍵につけている。

 わかってるんだ。綾瀬さんは前山田との関係を俺に誤解されたくないから、正直に鈴のことを申告してきたのだ。
 神仏の類は信じていないけど、お守りを無下に扱うのはあまりよろしくないだろう。
 俺はそれを持ち続けることを認めた。認めてしまったから、鈴の音を聞く度に嫉妬で狂いそうになるのを耐えなければならなかった。

「昨日の男の子……ちょっと日向に似てたね」
「そうですね」

 最寄り駅までの道中、控えめに切り出された話題はファミレスで会った俺の同級生のことだった。
 昨日から気になっていたんだろう。綾瀬さんはそわそわしていて落ち着きがない。
 "日向"、か――俺が怒らないことに気付いてから、彼女はまた前山田の名前を変わらぬ調子で呼ぶようになった。綾瀬さんにはやましいことがないのだ。

 俺は我慢しなければならない。
 名前で呼び合う異性の友達の存在も、意図せずお揃いになった鈴も、普通の彼氏なら許すはずだから。
 綾瀬さんが望んでいるのはきっとそういうお付き合いだ。
 俺の思いがもうすぐ受け入れられそうなところまで来ている。綾瀬さんとの関係を長続きさせたいなら、必要以上に彼女の自由を制限しようと考えてはいけないんだ。

 一番怖いのは綾瀬さんを失うこと。
 俺の人生から綾瀬さんがいなくなったらと考えると怖くてたまらない。
 綾瀬さんはすごい人だ。彼女は空っぽのビニール袋を幸せで満たして、俺を生かすことができる。
 こんな特別な存在、もう二度と出会えない。

 だから――

「それで昨日の人は……」
「安心してください。綾瀬さんは必ず僕が守ります」
「え……」

 にこり、と極めて自然に微笑みを作ったつもりだったが、俺を見つめる綾瀬さんの表情は不安に満ちていた。

 ――大丈夫。俺もポケットの中にお守りを忍ばせているんだ。
 無力な俺が綾瀬さんを守るために必要なのは綺麗な音の鈴なんかじゃない。
 昨日綾瀬さんと別れてから買った折りたたみナイフだ。アウトドア用で、しっかりした作りの物だった。

 使わないで済むならそれが一番いいが、もしも何かあった時は躊躇しない。
 俺はポケットの中でナイフを握りしめた。
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