Keep a secret

□できない約束
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 若野先生が女子生徒を連れて昨日と同じ道を歩いていく。昨日の黒崎さんの位置に今立っているのは美山さんだ。

 若野先生には正直幻滅した。
 不倫とはいえ黒崎さんと付き合いながら美山さんとも関係を持っていたのだ。黒崎さんが知ったらショックを受けるだろう。
 証拠になるからと二人の姿を熱心にカメラに収める時谷くんの隣で、私はため息ばかりついていた。

 見失わない程度の距離を開けて後を追っていると、二人は大通りを抜けて人目を忍ぶようにせまい路地へと歩を進める。
 休憩プランの料金がいくら、全室ジャグジー完備、朝食にビュッフェ有りだとか書かれた看板たち――派手なネオンのビルが立ち並ぶここは、いわゆるホテル街だ。
 目的地を察してしまい、若野先生への嫌悪感は益々強くなった。

「若野先生ってこんな人だったんだね……なんか結構、軽蔑したかも」
「未成年の生徒に手を出す教師、しかも既婚者ですよ。言うまでもなくクズです」
「その通りだけどさ。あの黒崎さんが若野先生のことを本気で好きなんだよ。不倫だとしても黒崎さんは大切にされてて、真剣に付き合ってるのかと思ってたんだよ……」

 路地を進むにつれて人が減っていき、私達の前を歩いているのはもう美山さんと若野先生だけになっていた。
 親密な距離感ではあるが一定の間隔を保ってきた二人の距離を若野先生が詰める。腰に手を回され、何事かを囁かれた美山さんは恥ずかしそうに笑う。

 美山さんも若野先生のことが本気で好きなんだ。
 彼女の横顔を見ていると胸が痛む。

「不倫相手に一途なら悪い人間じゃないみたいな言い方をするんですね」
「え? そんなつもりじゃ――」

 カシャッ

 小さなシャッター音が響く。スマホの画面を見つめる時谷くんの瞳は冷たく、雰囲気が変わったのを感じる。
 美山さんと若野先生が密着する決定的な場面を撮ったスマホをしまい、時谷くんは私の手を握った。

「不倫してる時点で救いようのないクズなんですよ。本当に泣きたいのは黒崎さんや美山さんじゃないと思います」

 時谷くんの眉間にシワが寄る。

「生涯愛することを誓いあった人をどうして裏切るんでしょうね……離婚も大罪ですよ。結婚しておいて簡単に別れる人の気持ちが理解できません。理解したくもないけど」

 乱暴な言動からは不倫と離婚に対する強い怒りが滲んでいた。
 私の親も離婚しているから、時谷くんの手を握り返す気にはなれなかった。

 私は親を恨んだことはない。
 お父さんとは幼い頃に離れることになったが、私を引き取ったお母さんは女手一つで私を育て、不自由のない生活をさせてくれている。

 中学生の頃に一度だけ聞いたことがある。
 どうしてお父さんと結婚したのか。
 どうして離婚してしまったのか。
 お母さんは困った顔で「何でだろ。大好きだったから結婚したんだよ。別れることになるなんて思わなかったな」と答えた。

「離婚は簡単な決断じゃないと思うよ。今の私達じゃ想像もつかない苦悩の末に選んだんだよ」

 将来離婚することになるとわかっていて結婚する人なんかいない。どれだけ好きでも、長い時間を共にしていく上でどうしても上手くいかなくなることはあるんだろう。
 離婚後に再婚して幸せを掴んだ人だっているはずだ。

「結婚は相手に一生を捧げる契約ですよ? できない約束なら最初からしなければいい」
「何言ってるの? 人の心が契約で縛れるわけないじゃん」

 時谷くんの極論に腹が立つ。
 時谷くんのご両親は他と比べても特別に夫婦円満だから、好き同士で結婚して上手くいかない未来を想像するのがきっと難しいのだ。

「最初はどんなに好きでも心変わりする可能性は誰にでもあるんじゃない?」
「……心変わりなんて認めません。僕だったら離婚したいなんて言わせない。永遠の愛を誓った以上は絶対、絶対……死ぬまでそばにいてもらいます」
「…………」

 身を寄せ合い歩く美山さんと若野先生の後ろ姿は幸せな恋人同士に見えた。
 二人の関係が罪深いものだと遠目からは思えない。
 時谷くんも二人を目で追いながら私の手に指を絡ませてきた。
 恋人繋ぎと呼ばれる繋ぎ方だ。
 私を逃がす気はない――強く握られた手が、意思表示をしているようだった。

 やがて二人は一軒のラブホテルに入り、視界から消えていった。

「もしも綾瀬さんが誰かとあそこに入っていくのなら、それが十年後でも二十年後の話でも、必ず僕の元に連れ戻します。信じられないかもしれませんが、僕は本気でそう思っています」

 時谷くんは私を安心させるように手の力を緩め、笑みを浮かべる。
 気まずくて目を逸らす。
 例え時谷くんがそう信じてくれていても将来のことなんてわからない。私達はまだ交際を始めてすらいないんだから。


 いずれにせよ、「幸せな結婚」というものに思いを馳せるには最悪な場所とタイミングだった。
 人生の手本となるべき先生の不貞行為を目撃した直後であり、目に入るのはムードの欠片もない下品な建物ばかり。
 二人の姿が見えなくなるとこの場所にいることが急に恥ずかしくなった。

「ホテルに入ったらいつ出てくるかわかんないよ。今日のところは帰ろうよ」
「いえ。若野先生には家庭があるので泊まりはしないはずです。ホテルに直行したのも時間がないからだと思いますし。僕は終電の時間まで張り込みを続けるので綾瀬さんは先に帰ってください。何かあったらいけないので駅まで電話を繋いでおきましょう」
「えー……」
「あのホテルの出入口を監視できて怪しまれなさそうな場所は……」

 時谷くんは私の手を離し、長時間の監視に備えられる場所を探し始めた。この数日で随分と張り込み慣れしてる。
 一緒に帰ろうよと時谷くんを説得するのは骨が折れそうだ。
 憂鬱になって帰り道に視線をやると、すぐ近くのホテルの看板裏から顔を覗かせている人影に気付いた。

 その姿を凝視する。ホテル街には相応しくない、小学校低学年くらいの子供。
 もう夜の八時過ぎなのに一人でこんな場所にいるから迷子かもしれない。
 近寄っていくと看板の明かりが男の子の顔を照らし出す。今にも泣き出しそうなその顔に見覚えがあった。
 あれは自宅の鍵を失くした日――私にぶつかってきた男の子だ。

「ねぇ、君」

 真琴くんだよね?
 と声を掛けようとしたら、男の子はビクッと体を揺らして駆け出した。

「待って! 真琴くん!」

 それでも子供の足だ。すぐに後を追えば追いつけたかもしれない。
 しかし、

「まことって言いましたか? "真琴"なら若野先生の子供と同じ名前ですけど……」

 時谷くんの言葉に足を止める。

「若野先生の子供……?」

 真琴くんはあの日、よくある茶封筒を直接ポスト投函しようとしていた。
 届け先は私の最寄り駅から四駅離れた場所。黒崎さん家の最寄り駅と同じ。

 ――へぇ。ママの代わりにお手紙を届けに来たんだ。偉いね!

 ――お、お姉ちゃんごめんね……このお手紙は見せられないの。

 ――真琴くんはママに頼まれてお手紙を届けに来たんじゃないの?
 ――ううん。ママにもパパにも秘密。ママが泣いちゃったら僕も悲しい……だから絶対絶対知られちゃいけないの……。

 真琴くんと交わした会話が濁流のように頭に流れ込んできて。よろける私を時谷くんの腕が支えてくれた。

「綾瀬さん?」
「わ、たし、黒崎さんに手紙を出したのが誰かわかった……」

 "真琴"という名前は若野先生の小学生の子供と同じ。小学生向けの子供新聞の切り抜きが使われていた手紙。
 投函日は私が真琴くんと会った日と同日。

 若野先生の不倫を知って本当に泣くことになるのは若野先生の奥さんだ……。
 だから、どういうわけかお父さんの不倫の事実を知った真琴くんは、お母さんのために黒崎さんへ手紙を出したんだ。


 ***


 帰りの電車は疲れきった様子のサラリーマンとOLが三、四人乗っているだけで空いていた。
 独占状態の座席にゆったり座る。
 始発から美山さんを尾行していた時谷くんは疲労が溜まっている。普段は行儀が良い時谷くんも今ばかりは少し足を伸ばしていた。
 途中参加の私もクタクタだ。

 手元のメモに視線を落とす。
 真琴くんを駅まで送り届けた際に渡された、彼の家の電話番号が書かれたメモ。財布の中にずっと入れっぱなしだったものだ。

「本当に黒崎さんに連絡を入れたら駄目なんですか?」
「うん。まだ真琴くんだと決まったわけじゃないし……」
「若野先生を追いかけてきてたっぽい姿と、綾瀬さんの話を繋ぎ合わせたら確定と言っていいですよ」
「そうだけど……」

 今すぐ真琴くんの後を追いかけて監視すると言い出した時谷くんのことを何とか説得し、私達は帰路についている。

 ――この件を解決させて私と付き合いたい。
 それがこの数日間の時谷くんを突き動かしてきた理由だ。少しでも早く黒崎さんに報告したがるのも無理はない。
 でも、あの日話した真琴くんが良い子だったから、真琴くんの話も聞かずに犯人だと吊るしあげることに迷いが生じる。

「綾瀬さんがどうしてもと言うなら止めませんが……僕は本人に話を聞く必要はないと思っています。問い詰めたら泣くかもしれないし、何かと面倒ですよ」
「と、問い詰めたりしないよ。不確定な状態で黒崎さんに伝えるのはどうかと思って……この番号は家電だから、明日若野先生が家にいないと思う時間に電話してみるよ」
「わかりました。綾瀬さんに任せます」

 黒崎さんは犯人を探し出して報復でもする気なのかな。
 この前私達にした仕打ちを子供相手にするとは思えないが、それでもやっぱり真琴くんの身が心配だ。

 じゃあ、美山さんなら黒崎さんの元に突き出してもいいのか――違う。私は目的を達成した後のことまで考えが及んでなかった。
 そもそも私と時谷くんは不倫問題とは全くの無関係で、とばっちりを受けた被害者だ。しかし、自分の身代わりに誰かを差し出すみたいで気乗りしない。
 明日を思うと憂鬱で、真琴くんのメモを無意識に握り潰す。


「綾瀬さん、さっきはごめんなさい」
「さっきって?」
「ホテ――」

 時谷くんは顔を寄せて声を潜める。途中まで言いかけてから周囲を見回し、「外で話してたことです」と言い直した。

「気を悪くしましたよね。綾瀬さんのご両親を否定したかったわけじゃないんです」
「まあ、ちょっと頭にきたよ」
「ごめんなさい。僕は弱いから……綾瀬さんと両思いだとわかって嬉しいけど、今が幸せだからこそ失うのが怖くて……結婚がゴールだったらいいのにって思ってしまうんです」
「時谷くん……」

 この時間にくたびれた表情で電車に乗っている大人達はどこに帰っていくんだろう……視線を感じたのかスーツ姿の中年男性がこちらを一瞥し、また目を伏せる。
 あの人も家に帰って家族の顔を見たら「ただいま」と笑うのかな。

「……私も結婚は憧れてるよ。綺麗なウエディングドレス着てみたいし、いつかはお母さんになりたいし、おじいちゃんおばあちゃんになっても仲良しの夫婦って素敵だなって思う。でも、相手によっては人生の墓場にもなるんでしょ? 離婚が大罪とは思わないかな」

 更に声を落として返事しながら遠い未来を想像してみるが、まだ曖昧なイメージしか湧かなかった。

「結婚が永遠を約束するものじゃないとしたら、僕が綾瀬さんを手に入れたと安心できる日は一生来ないんでしょうか。綾瀬さんと死ぬまで一緒にいるためにはどうしたら……」

 時谷くんが顔を両手で覆う。漏れた声はか細く、震えている。私に向けた言葉というより独り言のようだった。

 私だって時谷くんとずっと一緒にいたい。どんなに酷いことをされても好きでいたのだ。離れるなんて考えられない。
 でも、"ずっと"っていつまでだろう。
 それが長い期間であることは間違いないのに、一生一緒にいるから大丈夫だよと今伝えるのは嘘になる気がした。

「はは……ごめんなさい。僕達まだ高校卒業後の進路も決まってないのにもっと先の話をされても困りますよね。きっとまだ付き合う前だからこんな気持ちになるんです。早く綾瀬さんの彼氏になりたいな。いつだろう……明日かな……早く、早く。お願いだから、誰も俺の邪魔しないで……」

 こんなにも思ってくれてる人がいる――胸が締め付けられる思いがした。
 交際を先延ばしにしたことへの後悔と罪悪感も芽生えたが、黒崎さんの件は一応進展している。
 私は「ごめんね」と心の中で謝罪をし、時谷くんの肩に寄り添った。
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