Keep a secret
□殺さなくちゃ
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マットレスってこんなに柔らかくて快適だったんだ。
随分と久しぶりに思える至福の時間をもう少し味わっていたかったれど、私は異変を感じて体を起こす。
隣で寝ていたはずの、このベッドの持ち主である時谷くんの姿がない。
昨日、ボロボロの時谷くんをベッドまで送って寝かせようとしたら、彼は私に抱きついた状態で寝落ちしてしまった。どれだけ抜け出そうとしても離してくれなかった時谷くんが、私を残してどこへ行ったんだろう。
トイレならいいが、時谷くんのことだから何か無茶をしている予感がする。
病院はいいと言うから直帰したけれど、疲れ果てていてまだ傷の手当もしていないのだ。
心配で廊下に出ると美味しそうな匂いが漂ってきた。
匂いの元に釣られて行けば台所に立っていた時谷くんが顔を上げる。
「綾瀬さん、おはようございます! ちょうど呼びに行こうと思ってたんです」
「おはよう。ごはん作ってくれたの?」
「はい!」
テーブルの上に並んでいたのは彩り豊かな和食。そこに時谷くんが白米をよそったお茶碗と味噌汁を運んできて、一汁三菜の理想的な朝食が完成した。
「栄養たっぷりで消化の良いメニューにしました」
「う、嬉しいけど傷の手当は? 先にしなくて大丈夫なの?」
「そんなの後でいいですから冷めないうちに食べてください」
昨晩はさすがに時谷くんも私も料理をする気力はなかった。
帰り道で買ったコンビニのお弁当は極限の空腹状態で口にするにはきつかったから、あまり食べられていない。それでも多少は胃に食べ物を入れてから寝たおかげで調子は良くなったように感じる。
湯気を立てているご馳走を前に、お腹がぐう、と正直な声を上げた。
「僕は先に食べたので遠慮なくどうぞ」
時谷くんは椅子を引き、席に着くよう私を促す。
その綺麗な顔には痛々しい傷跡がいくつもあった。「食べたらすぐに手当しようね」と言ったら、わかったんだか定かじゃない曖昧な笑みが返ってきた。
「綾瀬さんのお母様は今日の夜に帰って来るんですよね?」
「うん。十九時の新幹線に乗るって。まさか予定より二日も遅れるなんてね」
「よかったと思いますよ。予定通り帰ってきていたら心配させてしまうところでした」
シャッ、シャッ――
対面式のキッチンに立つ時谷くんとたまに視線を交わしながら朝ごはんを堪能中――私からは見えない時谷くんの手元で、金属がこすれる音がする。
「あ、そうそう! 時谷くんにもお土産買ったってお母さん言ってたよ」
「僕にもですか、楽しみですっ! なんだろうな。綾瀬さんとおそろいの物だったらいいなあ」
「んー。多分食べ物系じゃない?」
シャッ、シャッ――
時谷くんが包丁を研ぎ続ける。黒板に爪を立てる音ほどの不快感はないけれど、ご飯中に少し耳障りだと思った。
でも、ときどき眼前に包丁を持ち上げ、研ぎ具合を確認している時谷くんは鼻歌でも歌い出しそうなくらい上機嫌に見えた。
平和な時間だ。黒崎さんの家であった出来事が嘘みたい。
でも、黒崎さんとの約束はなかったことにはならない。食後に怪我の手当をして、どうするか考えないとね……。
「これで良し、と!」
底抜けに明るい声。時谷くんは研ぎ終わったらしい包丁の出来栄えを満足げに眺めた後、私に視線を移した。
「じゃあ僕、黒崎さんをちょっと殺しに行ってきますね。綾瀬さんはゆっくりご飯を食べていてください」
「うん、ありがとう」
その言葉はまるですぐそこのコンビニに行くかのような調子だったから、私の頭を違和感なくすり抜ける。
飲みやすい温度になった味噌汁に口をつける私の隣を、軽やかな足取りで横切っていく時谷くん。
しかし――彼の手には明らかに不自然なものが握られていた。
今の今まで丁寧に研いでいた包丁だ。
私もすぐさま席を立った。
いや、だって、何で?
さぞ良い切れ味になったであろうそれを外に持ち出す必要が――
「とっ、時谷くん! ご、ごめん。何をしに行くって言った?」
「黒崎さんを殺しにですよ」
時谷くんは廊下で立ち止まり、ポツリとこぼした。
「えっ、殺しに? 黒崎さんを殺しに行く……?」
その手に握られた違和感の正体に答えをもらっても思考が全然追いつかない。
「僕達が手紙の差出人を見つけられたとしてもあの女のことだから今後も何かにつけて脅してくるに決まってます。あの女がいる限り、綾瀬さんは危険に晒される可能性があるんです。どうしたらいいのか考えてたんですけど、料理をしてて簡単なことに気付きました。あの女をこの世界から消せばいい……そうすればもう何も心配いらない」
「な、何を言って……さすがに冗だ……」
冗談だよね、と言いかけて思い出した。
黒崎さん家のバスルームでの言葉――
時谷くんは優しい男の子だ。
だけど、"私のため"という大義名分があれば、どんな恐ろしいことでも現実にしそうな危うさがあることを私は知っている。
時谷くんが私を置いて廊下を突き進む。
華奢な背中も、規則正しい歩調も、靴箱を開ける所作もいつもの時谷くんに違いはないのに。時谷くんじゃない何かが彼の体を動かしているような不安が付きまとう。
靴を履くために立ち止まった時谷くんの手首を掴む。
「待ってよ!」
「心配しないでください。きっと上手くやってみせます」
「い、一回落ち着いて話そう。時谷くんおかしいよ……」
「おかしい?……あ。そうですね、僕としたことがうっかりしてました。抜身の包丁を持ってたら電車乗れませんよね」
「違う、そうじゃなくて……っ」
時谷くんは私の手を振り解こうともせず、ここにエコバッグがあるので……と言いながら玄関収納を漁り始める。
いまだ時谷くんの手にある包丁と信じられない言葉に私の頭は混乱している。
でもこのまま時谷くんを行かせるわけにはいかない。それだけは確かだった。
「ありました。これで包丁を隠せます。綾瀬さんは危ないので家で待っていてくださいね」
目の前の優しい笑顔はこれからしようとしている行為と到底結びつかない。
「だから! 殺すなんて駄目だよ!」
必死になって時谷くんの手首を引っ張ると取り出したばかりの袋が床に落ちる。
「綾瀬さんだって知ってるでしょう? あの女は危険です。何をしでかすかわからない。綾瀬さんがこれ以上被害にあう前に殺すべきです。うん、そうですよ。それしか方法はないんです。殺さなくちゃ。殺さなくちゃいけないんです……」
「時谷くん、一旦落ち着こう?」
「殺さなくちゃ、殺さなくちゃ……」
顔の位置まで包丁を持ち上げ、鋭い切っ先を眺める時谷くんの瞳は黒く濁っていた。
取り憑かれたように同じ言葉を繰り返す彼に私の声はもう届いていない。
閉じ込められて何日も酷い暴行を受けたのだ。黒崎さんを脅威に思うのは理解できる。だけど人殺しだなんて……気が動転してるとしか思えなかった。
包丁を握る拳に私は手を重ねる。
「ちゃんと話をしようよ。それを渡して!」
「っ、離してください。危ないです」
「時谷くん駄目だってば!」
固く握られた手から包丁を奪い取るのは簡単じゃない。それでも引き下がるわけにはいかなかった。
私の手が届かない高い位置にまで包丁を掲げる時谷くんと、こちらに引き寄せたい私。
激しく揉みあって、
「僕はあなたを守りたいんです……っ!」
「きゃっ!」
悲痛な声とともに手を振り払われた。そのまま私は尻もちをつく。
痛い! と瞬間的に思った。
床にお尻をぶつけたからじゃない。痛む場所、左手を見れば薬指の腹に一センチにも満たない切り傷ができている。そこから赤が滲んでいた。
びくっ、時谷くんが怯えたように大きく肩を揺らし、膝から崩れ落ちる。
「あ……あ……あぁぁぁっ、血! 綾瀬さん、血が出て……っ、ご、ごめ、なさっ、ごめんなさい! 僕はなんてことを……っそ、そうだ、救急車! すぐに呼びます!」
「ちょっと切れただけだから大丈夫だよ」
この程度の傷で救急車を呼ぶだなんて馬鹿だな。
でも、真っ青な顔をした時谷くんは本気なのだ。私の手を握る手は可哀想なくらい震えてしまっている。
あれだけ手放そうとしなかった凶器ももう床に転がっていた。
指先を傷付けたくらいでこんなに動揺してるのに人を殺そうだなんて……いや、時谷くんは私相手だからこうなっているだけで、黒崎さんが血溜まりを作ろうと表情一つ変えないのかもしれない。
「綾瀬さん、大丈夫ですか! 血、血が止まらない……っ」
むしろ時谷くんが傷口周りを圧迫するから血がぷっくり膨らんでいるのに。更におろおろしている彼は馬鹿だなあ、とまたぼんやり思った。
***
リビングのローテーブルの上に、包丁と救急箱。
私の怪我の手当なんて小さいサイズの絆創膏を貼るだけ。本来一瞬で終わることのはずだが心配性の時谷くんときたら自身の手指や道具に念入りにアルコール消毒をし、患部に細菌が入ったら困ると言って絆創膏をピンセットでつまんで丁寧に、慎重に貼ってくれた。
それとは対照的に時谷くん自身への手当は雑なものだ。
血を流したばかりの綾瀬さんは休んでいてください、と強く言われて見守っていたけれど……彼は鎖骨にある一番大きな傷口の消毒はしないわ、誤って床に落としたガーゼをそのまま使用するわ、他の傷もサイズが合っていない絆創膏で済ませるわで全てが適当だった。
「痛い、ですか? 痛いですよね……ごめんなさい。僕どうかしてました。綾瀬さんに怪我をさせてしまうなんて……」
「少しは冷静になったみたいだね」
「はい」
私の左手が時谷くんの両手の平に包まれてそっと撫でられる。
何個も絆創膏を貼っている手。黒崎さんに踏みつけられながらも私を庇ってくれた手だ。私よりずっと痛いだろう。
「どんな罰でも受けます……」
何を言い渡されると思っているのか。不安に揺れる彼の瞳は涙ぐんでいた。
「確かに黒崎さんは怖いけどさ……私もあの手紙を誰が出したのか気になるし、調べてから考えても遅くないよ。一人で動いて黒崎さんに何かしようとしないでね?」
「…………」
時谷くんが静かに目を逸らす。視線の先には狂気の象徴があった。
黒崎さん排除の恐ろしい方法を思い付いてから家を出ようとするまでの間、考え直す時間はいくらでもあったはずだ。
それでも時谷くんは黒崎さんを殺しに行こうとして、今も包丁に意識を奪われている。
私が怪我をしたから一時的に足を止めただけなのだ。
もしもあのまま行かせていたら今頃どうなっていただろう。考えたら涙がこみあげてきて、時谷くんの輪郭がぼやける。
よかった。彼が今、ここにいてくれて。
「私だって時谷くんのこと守りたいんだよ……」
私が関わると驚くほど簡単に人の道を踏み外してしまう人だ。今までもそうだった。
だから私はこれからも時谷くんのそばにいて、そっちは違うよ、そんなことしたら駄目だよ、って何度でも教えてあげたい。
思いを込めて時谷くんの傷だらけの手を握り返す。
「時谷くんのことが好きだからだよ」
本当はずっと伝えたかった気持ち。
遠回りしてきたけれどやっと言葉にできた。
言い終わるのと同時に、視界を揺らがせていた透明な薄い膜が弾けた。心を覆う霧が晴れたみたいに時谷くんが鮮明に見える。
時谷くんの頬にも涙が伝っていた。
「で、でも僕は最低な奴です……っ、鍵を隠したし、存在しない写真で脅して強引に体を重ねて……今だって綾瀬さんに怪我をさせました。それなのに、す、好きって言ってくれるんですか……?」
「うん、全部わかってるよ」
「っ、じゃあ僕とつ――」
「待って!」
今にも抱きついてきそうな勢いで続けようとした言葉を遮る。
私の話はまだ終わりじゃなかった。
「ご、ごめん。お付き合いの話はもうちょっと先でいいかな。黒崎さんとの件を解決するまでは安心できないから……何にも不安がない状態で付き合い始めたくて……」
「解決するまで保留ってことですか?」
「うん。どんな罰でも受けるって言ったでしょ?」
少しずるいが、さっきの発言を盾にする。
夏祭りの夜、時谷くんに告白しようと決意したけれど、あの頃の私はまさかこんな問題に直面するなんて思ってもみなかったのだ。
「わかりました」
肯定しながらも時谷くんの視線はまた机の上の包丁へと向く。
私と少しでも早く付き合い始めるために物騒な考えが再燃したのだろう。
「時谷くん、私達これからも一緒にいるのに慌てて付き合う必要ないでしょ?」
「これからも一緒に?……はい、はいっ! 綾瀬さん、綾瀬さん、好きです、大好き。僕は死ぬまで綾瀬さんのことを愛すると誓います。この傷も一生かけて償いますから」
時谷くんは私の左手の甲に、手の平に、薬指の絆創膏の上に、順番に口付けてはにかんだ。
「好きです。好き。綾瀬さん、大好き。好き。大好き大好き!」
「わ、私も好き……」
「っ、うー……綾瀬さん、好き。僕、綾瀬さんが好きです。誰より大好きです。好き。大好きです。世界で一番綾瀬さんのことを好きなのは僕です。大好きなんです」
「わ、わかった! わかったってば!」
時谷くんは愛おしそうに私の左手に頬ずりしながら上目で見る。
欲しくて欲しくてたまらなかったぬいぐるみを買い与えられた子供みたいな無邪気さで。でも幸せを噛みしめ、安堵するような、どこか力の抜けた表情でもあった。
「だって全然言い足りないんです。もっと伝えたら駄目ですか?」
「駄目じゃないけど」
これ以上この時間が続いて私の心臓保つかな。そこだけが心配だ。
「綾瀬さん、好きです」
何度も何度も耳をくすぐる告白に心臓が破裂しそうになりながら、私も精一杯の「好き」を返した。
多分時谷くんの思いの十分の一も返せていないけれど、それでも時谷くんは幸せそうに笑っていた。