Keep a secret
□守りたかった
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時谷くんから昨日指定された待ち合わせ場所は、最寄り駅から四駅離れた場所だった。
初めて降りる駅だけど、私はこの駅の景色を何となく記憶していた。
鍵を落とした日に出会った小学生の男の子の目的地もこの駅近くだったから、駅周辺のことをネットで調べてどこの出口から出たらいいのかとか教えてあげた覚えがある。
あの男の子――真琴くんは目的地にたどり着き、そして無事に自宅へと帰れたかな。
偶然にもあの日教えたのと同じ出口から駅の外に出て、ふと心配になった。
駅から数分歩いて目的地に近付くにつれ、不安に駆られていた。
この辺りは住宅街がずっと続いており、待ち合わせするようなお店や建物がありそうにない。しかも、大きな家が立ち並んでいる高級住宅街のようだ。
本当にこっちで合っているのだろうか……。
なんとなく心細くて時谷くんとのメッセージの画面を開いてみるが、私が昨日した返信はまだ未読のままだ。
そこから一分も経たずに待ち合わせ場所に着いた。立派な家ばかりの住宅街の中でも一際目を引くお屋敷だ。
何でこの家を待ち合わせ場所に選んだのか、私の疑問はすぐに解決した。
黒崎――表札に刻まれた見覚えのある苗字。
黒崎って、あの黒崎さん? 何で時谷くんが黒崎さんの家に私を呼び出したの? 黒崎さんの家で何をするっていうの?
……昨日メッセージを送ってきたのは本当に時谷くんだった?
新たな疑問がとめどなく浮かぶ。
それらの答えを得るためにはインターホンを押す必要があるのだろう。
時谷くんになにか恐ろしいことが起きている。そんな確信めいた予感。
私はバッグの肩紐をぎゅっと握り、インターホンへと手を伸ばした。
「来てくれてありがと。来なかったらどうしようかと思ったわ」
玄関を開けたのはやはり私の知っている黒崎さんだった。
「勘づいてるだろうけど、あんたを呼び出したのあたしだから」
広いリビングに通されて早々。悪びれる様子もなく告げられ、頭がカッと沸騰する。
「時谷くんは? 無事なんだよね? ねぇ、どこにいるの!」
「騒ぐなよ。後で会わせてやるって」
黒崎さんの家に私を呼び出す内容のメッセージを送ることを時谷くんが黙って許すとは思えない。しかもメッセージが届いたのは昨夜だ。もう十二時間も経っている。
彼の身が心配だった。
「これに見覚えない?」
黒崎さんは普段より冷たい声で、テーブルの上にありふれた茶色の封筒を置く。
「何が入ってるの?」
中を確かめろと黒崎さんが顎で促す。
手にとってみると、封筒には切手が貼られておらず、差出人や宛先などの情報も何一つ書かれていない。
一度握りつぶしたらしく折れ目だらけでぐしゃぐしゃの手紙を取り出す。
『黒サキ美愛 若野真澄ト別レロ サモナクバお前タチノ不倫関係ヲ学校ニ告発スル』
「な、にこれ……」
文章の全てが新聞の文字を切り貼りして作られているそれは、漫画やドラマなんかで見かける犯行声明とか怪文書みたいだった。
「見覚えあるの? ないの?」
「ないよ! ていうかこの内容本当なの?」
不気味さが先に来て内容にまで頭が回っていなかったが、黒崎さんと若野先生が不倫してるなんていう話自体が初耳だった。
「まあ、そうだろうな。お前は無関係だろうと思ってたよ。でも時谷だけじゃ埒があかないからさ。お前を呼んだんだ」
「そ、そうだ! 時谷くんに早く会わせて! 話はそれからにしてよ」
「着いてこいよ」
うち風呂が二個あるんだよね。いいでしょ、と黒崎さんが話しながら足を止めたのは、二階のバスルームの前だった。
すりガラスの扉の向こう側でシャワーが流れている。
「時谷くんいるの? 時谷くん?」
シャワーの水音以外聞こえない。
心臓が嫌な早鐘を打つ。中にいるであろう彼に許可を取る前に、扉へ手を掛けた。
「っ!」
時谷くんはお風呂場の壁を背にして座り込んでいた。ぐったりと垂れた頭に向かってシャワーの冷水が降り注いでいる。
私は肩に掛けていたバッグをその場に放り投げる。慌てて中に入り、蛇口を閉めた。
「時谷くん! 大丈夫? 何があったの?」
時谷くんは全身びしょ濡れだ。私の呼びかけにぴくりとも反応しない。
「時谷く――」
頭を持ち上げると時谷くんの顔が目に入って、私は言葉を失う。
時谷くんは唇の端から血を流していた。よく見れば着ている白いシャツには赤茶色の染みがあって、ところどころ破れた生地の隙間から痛々しいアザや傷が覗いていた。
酷い暴行の跡だ。
「こんな……酷い。時谷くん、時谷くん! しっかりしてっ」
「う……」
「こうすりゃ起きるよ、っと!」
「なっ!?」
黒崎さんが時谷くんの濡れた黒髪を鷲掴みにして、水が張られた湯船に彼の顔面を押し込んだ。手足を垂らしていた時谷くんが苦しさにもがき始める。
「んぐ……っ、ん――っ」
何とか浮上しようと暴れてもまた顔を沈められ、水しぶきが上がる。
このままじゃ、時谷くんが死んじゃう!
「やめてーーっ!!」
信じられない光景に硬直していた私の体がやっと動く。
「おっと」
とにかく必死だった。不格好に黒崎さんの背中に体あたりをすると、黒崎さんはうっとうしそうに手を離した。
「っ、かっ……は……っ! ゲホッゲホッ」
「時谷くん大丈夫!?」
時谷くんは浴槽の前に倒れ込んで水を吐き出す。
「綾瀬さ、ん……! ど……して……ゴホッ、どうしてこ、こに……っ」
時谷くんが一瞬目を見開き、顔を歪める。
「時谷くんからラインが届いたの……話があるからここに来てって……」
華奢な背中をさすりながら、時谷くんから思わず目を逸らす。
呼吸ができない苦しみから解放されたのに時谷くんは今のほうが辛そうだ。世界の終わりを見たような、絶望の表情だった。
「綾瀬が心配してくれてよかったねぇ、時谷?」
「綾瀬さんを守りたかったから……俺は呼び出しに応じただろ。何で綾瀬さんを巻き込むんだよ……っ」
「はあ? 元はといえばお前が悪いんだろ。あたしはちゃんと約束を守ってお前達に干渉してなかった! なのにお前はうちのポストにこんな手紙入れて脅してきやがって!」
「ゲホッ……な、何度も言ってるだろ。俺はそんな手紙知らない!」
「じゃあお前以外に誰がいるんだよ!」
「誰か他に若野先生との関係を知ってる人だ。俺は何もしてな――あっ、ぐ……っ」
「時谷くん!」
かすれた声で反論をする時谷くんの顔面が再び浴槽の中に沈められた。真っ赤な血が透明な水に溶けていく。
「綾瀬、ごめんなぁ。こいつ昨日始発で呼び出したんだけどさー、ずっとこの調子でしらばっくれてるんだよ」
「っ、ゲホッゲホッ! んぐ……っ」
「やめて黒崎さん!」
黒崎さんは暴れる時谷くんの顔を水に押しつけて、少ししたら持ち上げて呼吸をさせ、また呼吸を奪うことを繰り返す。
昨日の早朝からだともう丸一日以上経っている。こんな酷い行為がずっと続けられていたのかと思うと泣きたくなるが、今はめそめそしている暇はなかった。
「やめて! やめてよっ!!」
「あたしだって迷惑してんだ。だからお前に来てもらったんだろ」
「っ、ゲホッゴホッ!」
時谷くんは自分で抜け出す体力がもう残っていない。
私が彼を助けてあげなくちゃいけないのに、怒りに燃える黒崎さんの力は強かった。ずぶ濡れになりながら必死で引き剥がそうとするが、びくともしない。
「あの手紙の内容は事実だよ。あたしは若野先生と付き合ってる。このことは誰にも話してないし、噂話になってるのも聞いたことがない。綾瀬もあたしと保健室で会ったのを覚えてるだろ? 時谷はあのとき、あたしと先生の関係に初めて勘づいたはずだ」
「ゲホッ!」
黒崎さんと保健室で会ったのは、時谷くんと一緒に学校に課題を提出しに行った日だ。
確かにあのとき時谷くんは保健室の前で黒崎さんの動向を探っていたし、時谷くんと黒崎さんの間には私にはわからない腹の探り合いがあったように思う。
そして同じ日、黒崎さんに忠告された。
私と時谷くんは一緒にいてもいい。その代わりに自分のことをこれ以上嗅ぎ回るな、と。あれは若野先生との不倫関係を知られたくなかったんだろう。
「手紙が届いたのはあの日から四日後だ。時谷以外の犯人なんて考えられないだろ。なあ、時谷?」
「ゲホゲホッ! 俺じゃ、な……っ」
「もうやめてよ、時谷くんは違うよ!」
解放された時谷くんが床に座り込む。
時谷くんは否定しているし、私も時谷くんが犯人だとは思えなかった。
黒崎さんと若野先生を別れさせて、時谷くんになんのメリットがある?
黒崎さんへの復讐のつもりなら脅迫文なんて送りつけずに公表してしまった方がいい。
「時谷だよ! 時谷以外ありえない!」
黒崎さんは怒りで我を忘れて、冷静な思考ができなくなっているようだった。
「あたしを裏切った罪は重いから! この代償はお前の可愛い可愛い綾瀬にも償ってもらう」
「な、に言ってるんだよ……っ、綾瀬さんは関係ない!」
とっくに体力の限界を迎えているはずなのに時谷くんは立ち上がった。
私を守りたい――その思いだけが彼のボロボロの体を突き動かしている。シャワーノズルを振りかぶり、おぼつかない足で黒崎さんに立ち向かっていく。
時谷くんの肩越しに黒崎さんの笑顔が見えた。加虐心に満ちた恐ろしい笑みが。
「綾瀬さんは――っ!?」
バチバチッと、何かが弾ける音がした。
時谷くんの体が急に後ろに傾く。
「時谷くん!」
私の元に倒れこんできた体を何とか抱きとめる。
「これよく効くね。改造してあるんだ」
笑う黒崎さんの手には黒いスタンガンが握られていた。
「じゃあね。しばらく大人しくしてて」
そのまま黒崎さんは浴室から出ていって扉を閉めた。立ち上がろうとするも、意識のない時谷くんの体重がのしかかっている。
躊躇った一瞬の間にガタガタと扉に細工をする音がして、黒崎さんの気配は消えた。
――何? この状況はなんなの?
全然理解が追いつかない。
昨夜はあんなに楽しくて平和だったじゃないか。今日だって時谷くんとデートのつもりだった。告白をしようと決めて来たのに――
私と時谷くんの髪から水滴が落ちていく。
傷だらけの体を後ろから抱きしめながら、その静かな音を呆然と聞いていた。