Keep a secret
□魔法のような
1ページ/1ページ
夕暮れ。彼女と俺の家を挟んだ道路で綾瀬さんが探し物をしている。
身を屈めて道路に意識を集中させている彼女は、俺が自室の窓から見ていることに気付いていないようだった。
今日綾瀬さんが俺の家の前を通った回数は把握しているだけでも八回目だ。
彼女はそれだけ必死で探さなければならない物を落としてしまったのだ。
しかし残念だけど、落とし物が見付かることはないだろうな。
俺は再び駅の方角に向かう綾瀬さんの背中を見送ると、泥水から拾い上げた鍵を机の引き出しに入れた。
綾瀬さんがいけないんだよ?
"友達"に嘘をついたりするから。この鍵が大切な物じゃないのなら、俺も知らない振りをするだけだ。
***
下着を買いに行った綾瀬さんを待つ間、ベンチからランジェリーショップの手前までを行ったり来たりしながら、彼女がどんな下着を買うのか想像を膨らませていた。
綾瀬さんは可愛らしい淡い色の下着を着けていることが多い。だから今もそういった下着を中心に見ているのかな。
それともデザインより着け心地重視で選んでいるということもあるだろうか。
綾瀬さんが悩みに悩んで決めた下着を着けている姿を一番最初に目にする相手になれたらいいのに。
そして――
「っ」
彼女の下着を乱暴に引き裂き、脱がせるところまで妄想が発展してしまって首を振る。
良からぬことを考えるな。
綾瀬さんをうちに泊まらせることができたのは賭けに勝った気分だけど、鍵のことで罪悪感があるのも確かだ。その罪悪感が理性を保たせてくれたから昨晩の俺は我慢強くいられた。
不純な妄想を追い出そうと首を振っていたら視線を感じた。
釣られて見ると前山田の姿があった。
「よお、時谷。こんなところで奇遇だな……」
「どうも」
前山田はさっと顔を背けて、結構な距離を保ったまま話し掛けてきた。
よそよそしい態度に違和感を覚える。前山田が歩いて来た方向には綾瀬さんが買い物中のランジェリーショップがある。
――もしかしてこいつ、綾瀬さんと会ったのか?
「あー……俺もう行くわ。またな」
前山田は口数少なく俺の横を通っていった。
あの様子は綾瀬さんと話したか、姿だけでも見かけたんだな。それで綾瀬さんと俺を結びつけて動揺したのか。
もしも俺とのデート中に下着を選んでいる綾瀬さんの姿を目撃したとしたら?
前山田の心情を思うと気分は爽快だった。
俺は内心ほくそ笑みながらベンチに戻った。
***
「"ノーモア時谷くん"! "ストップ時谷くん"!」
意味不明なことを言われて綾瀬さんを逃がしてしまった。
一人になるとさっきまでの興奮が嘘みたいに冷静になれた。
駄目だな俺は。また強引に綾瀬さんに迫ったりして。
軽く反省しつつ、あともう少しで今日買った下着を見られたかもしれないのに……とも悪びれなく思っている。
この際、綾瀬さんと別々に寝る羽目になることは置いておくとして。引き出しの中の鍵を見付けられたらまずい。
どう声を掛ければドアを開けてもらえるか考えながら階段を上っていった。
「い、いいから早く持っていってよ」
「はい……」
綾瀬さんは少しのやりとりで俺の嘘を信じ、部屋に入れてくれた。
ノーモア時谷くんと高らかに宣言していた割には警戒心が足りない。つくづく愚かで可愛い人だと思う。
課題なら七月中に全て終わらせている。
それでも課題のプリントを手に取り、ドアの前で監視の目を光らせている綾瀬さんの様子を密かに窺った。
鍵の入っている引き出しを開けたいところだが、生憎課題に関係する物は入っていない。どうしたものかと考えていた矢先にまたとないチャンスが訪れた。
「この部屋の鍵ってどこにあるの?」
「ああ、机の引き出しです。どうぞ」
綾瀬さんのアシストに感謝しながら引き出しを開ける。自然な動作でこの部屋の鍵二つと落とし物の鍵を手に握った。
そして綾瀬さんの手の平の上に部屋の鍵を一つだけ落とす。
「あ、ありがとう」
今俺の手の中にはこの部屋のスペアキーと彼女の自宅の鍵がある。
そんな重大なことにも気付かずに安心したように口元を綻ばせる彼女が愛おしい。つい緩んでしまいそうな表情を悲壮感漂う表情に作り替えて、俺は部屋を出た。
「ハァー……」
湯舟で自然と深いため息が出る。
綾瀬さんが入浴した残り湯なのに堪能する気分ではなかった。
怪談っぽく意味深に話せば、怖がりの綾瀬さんはやっぱり一緒に寝ようと言ってくれるんじゃないかと期待していた。
でも、さすがに甘い考えだったらしい。綾瀬さんは部屋から出て来ない。
しばらくリビングで待機していたけどもう一時過ぎだ。一人で眠ったんだろう。
綾瀬さんを待つ間、落ち込んでいる俺に追い打ちをかけるようにあの女から何度も着信があった。昨日から急に電話を掛けてきている理由がわからない。
電話に出る気は一切ないが着信拒否にまで踏み切れないのは、俺の秘密を守りたいと思ってくれている綾瀬さんの姿がちらつくからだろうな。
俺はいつも思ってる。
あの女さえいなければ。前山田さえいなければ。俺と綾瀬さんは今頃全てが上手くいっていたはずなのにって。
でも本当は……努力次第で手が届いたかもしれない場所にどうやっても辿り着けなくなったのは誰の所為だ?
俺は悪くない。そう言い聞かせていないと、告白の返事すらまともに聞けない自分自身の弱さに耐えられそうになかった。
「……っ」
胸が痛くなってきて、温かなお湯の中に潜って目をつぶった。
俺の汚いところも全部、綾瀬さんが包んでくれている気がしてほっとする。
綾瀬さんを好きでいることは幸せだけど、時々呼吸ができないくらい苦しいんだ。不思議だよね。
俺の日課。それは、一年前に綾瀬さんからもらった手紙を読むことだった。
現物は自室の金庫に厳重に保管してあるが、いつでもどこでも読めるようにと家の至る所に手紙のコピーを置いている。
そのうちの一枚を持ってソファーに座った。
『そろそろ学校に来ない? 学校に来たら友達になろう』
たった二言。
たった二十三字。
二秒で読み終わる手紙。
それでもこの手紙には俺に生きていく活力をくれる魔法のような言葉が書かれているから、何度も何度も読み返す。
一昨日、綾瀬さんに友達になろうと言われたときは振られたみたいで辛かったのに、嬉しくもあった。
ずっと元気付けられてきた魔法の言葉を綾瀬さんの口から直接聞けて、喜ぶなという方が無理な話だ。
綾瀬さんはきっと優しい逃げ道を用意してくれた。
振られても友達としてなら綾瀬さんのそばに置いてもらえる……それはとても魅力的に思えたけど、俺の出した答えは"綾瀬さんの友達にはなりたくない"だ。
一応、綾瀬さんの友達になったことにしているが、建前上だ。
綾瀬さんだって友達だなんだと言っておきながら俺のことを全然信用してないんだからお互い様だ。
もしも告白の返事をもらえたなら、こんな俺達の関係も劇的に変わるのだろうか。
俺には綾瀬さんが離れていく未来しか想像できなくて、綾瀬さんに出された条件をどうしても飲みこめない。
「はは……」
俺って本当に臆病者だ。それでも俺を好きになってほしいなんて、都合のいいことばかり考えてるんだから救えないよ。
時刻は二時過ぎ――
手紙や遊園地で撮った写真を眺めていたらこんな時間になってしまった。
そろそろ寝よう。冷蔵庫が空だから早起きしてスーパーに行こうと思ってたんだ。
テーブルに広げた写真を一枚ずつ丁寧にファイルに入れていく。
綾瀬さんは今頃ぐっすり眠っているだろうか。
ちゃんとエアコンのタイマーを設定したかな。お腹は出してないだろうか。
夢は見てる? 見てるならどんな夢?
そこに俺はいるの?
綾瀬さん、綾瀬さん……。
綾瀬さんのことで胸がいっぱいで苦しい。
どうしてここに綾瀬さんはいないんだろう。同じ屋根の下にいるのに離れ離れなことが無性に寂しく思える。
綾瀬さんの匂いが、体温が恋しい。
俺は下半身に右手を伸ばしていた。
また俺が、いつもの俺じゃなくなってしまわないように。自室のスペアキーを使わなくて済むために必要な逃避行動だった。