Keep a secret
□もしもばなし
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時谷くんでポメガバース
▽
ペットのシュガーはポメラニアンのオスだ。ふわふわの真っ白い毛に覆われた丸っこいシルエットから、綿菓子みたいだとよく例えられる。
小学生の頃、ペットショップのガラス越しに出会ったそのつぶらな瞳に心奪われて飼いたいと言い出したのは俺だった。
前提条件としてシュガーは"可愛い"のだろう。まあ、犬だし、それなりに愛らしい見た目をしていることは認める。認めるが――
「あははっ! ちゅーしてくれてるの?」
「わんわん!」
「ありがとね! シュガーはほんとに可愛いなぁ」
昼下がりの公園。綾瀬さんを独占するシュガーは、彼女の無邪気な笑顔をベロベロと遠慮なく舐め回している。こいつがもしも人間の男だったなら、俺はどんな手段を使ってでも引き剥がしにかかるだろうし、冷静ではいられなかっただろう。
しかし、シュガーは犬だ。小動物だ。腸は煮えくり返っているけれど、その振り上げた拳の行き場がなかった。
「シュガー大好き!」
「わんわん!」
俺の存在は完全に無視して綾瀬さんとシュガーだけの世界で戯れているから無意識な舌打ちが漏れた。
シュガーはいいよな。ちょっと小さくて、ちょっとふわふわで、ちょっと愛嬌があるからって綾瀬さんの寵愛を受けられて。俺も犬に生まれればよかったかな。そうしたら綾瀬さんに可愛がってもらえるし、俺にはまだ許されてないキスだってできたのだろう。
ああ、忌々しい。妬ましい。こんな感情知られたら犬相手に馬鹿かと思われそうだから唇を強く噛み、目を閉じる。
でも、どれだけこらえようとしたって満たされない欲求は俺の中でむくむくと膨らんでいく。腹が立っているからだろうか。全身が熱くなり、肌が粟立つ。
本当は俺だって綾瀬さんを独占したい! 構われたい! 抱きしめられたい! 好きだって言われたいのに――
「わあっ、可愛い! あ、首輪もリードもつけてないんだね……どこの子だろう?」
「っ!」
突然の浮遊感に目を開ける。足が地についていない。足、が――? 飛び込んでくる見慣れない光景に目を見開く。なんだこの細くて毛むくじゃらの足は、小さな体は!?
「黒ポメちゃん、あなたの飼い主は?」
視界いっぱいに優しい表情をした綾瀬さんの顔が広がる。俺の顔面を覗き込んでいる彼女の綺麗な瞳にはくりくりとした瞳の小型犬、ポメラニアンが映っていた。そのまま「時谷くんはどこに行っちゃったんだろう」と呟きながら辺りを見渡して俺の姿を探している。
「きゃんきゃん!」
「シュガー吠えちゃだめ! この子リードをつけてないから抱っこしててあげなきゃ」
眼下に目をやれば、綾瀬さんの足元でシュガーが毛を逆立て、歯をむき出しにしながら吠えている。その小さな体は毛色こそ違うものの綾瀬さんの瞳に映った今の俺の姿と同じものだ。
俺はすぐに悟った。時折ポメラニアンに姿を変えてしまう人々がいる。ポメガバースというものだ。先天性ポメガ、後天性ポメガがおり、ポメラニアン化するきっかけも様々だとテレビで専門家が語っていた。俺も後天性ポメガになったのだろう。
「大丈夫! 私が飼い主さんを探してあげるから安心してね」
「くーん!」
綾瀬さんはポメガ化の可能性に考えが及ばなかったらしく、俺と入れ替わりで現れたポメラニアンを迷子犬と勘違いしているようだ。綾瀬さんの腕の中でわしゃわしゃと頭を撫でられる。彼女の名前を呼んだはずの声は言語にならない。
柔らかな体毛で覆われた皮膚の上から撫で回される感触は、今まで味わったことのない不思議な心地よさを生む。顎下を掻かれる感覚は特に極上で、目を開けていられない。遠き地面に這いつくばり、唸り声を上げるしかない負け犬の存在が俺に優越感を与える。
ほら見てるか、シュガー。綾瀬さんは動物を可愛がる優しい心の持ち主なんだ。お前だけが特別じゃないんだぞと内心ほくそ笑む。俺の尻尾はぶんぶん揺れて喜びを素直に伝えていることだろう。
「はー…いい匂い!」
「っ!」
綾瀬さんが俺の体を抱きかかえたまま首元に顔を埋めて、大きく息を吸う。柔らかな肌が俺の小さな体をすっぽり包みこみ、綾瀬さんの温もりを全身で感じる。
いい匂い――なんて俺の台詞だ。普段はふんわり香る彼女特有の匂いが、人より何倍も優れた嗅覚で感じ取れる。綾瀬さんに酔わされた俺の心臓はばくばく脈打っていた。
「もうっ、ほんと可愛い! 大好き!」
止めの言葉に小さな心臓は破裂してしまいそうだ。体が熱に浮かされている。幸せすぎて全身がむずがゆい。こんなに綾瀬さんに愛してもらえるならずっとポメラニアンのままでいいかも――
そう思った瞬間。綾瀬さんが短く悲鳴を上げて、俺は地面に尻もちをついていた。自分自身に視線を向ければ、見慣れた五本指の手足に綾瀬さんより大きな体。手の平を広げてみてまた握り、自由自在に動く手足で人間の姿に戻ったことを実感する。
「ガウウッ!」
「いだだっ!」
「あっ! だ、だめ! シュガー良い子だから! 時谷くんを噛まないの!」
「わん!」
俺の代わりに抱き上げられたシュガーの尻尾が大きく揺れている。シュガーくすぐったいよと笑い声を上げる綾瀬さんの姿を見上げる俺はまた負け犬に逆戻りだ。
やっぱりシュガーはずるい。綾瀬さんの唇を簡単に奪うなんて――頭に血が上り、また粟立つ体を感じた。