Lunatic Rabbit

□命の期限
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 太陽と入れ替わりに街灯が辺りを照らす頃。やっと着ぐるみを脱ぐことを許された。
 頬を撫でる生温い風が、嗅ぎ慣れない香りを運んでくる。胸焼けしそうなくらい甘ったるい匂い。クリスマスを約一週間後に控え、連日この噴水広場の前で風船配りのアルバイトをしているが、初めてのことだった。

「なんの匂いだろ? みんなこの匂いの方に行くみたい」
「あー、近くの大広場で今日からクリスマスマーケットをやってるんだよ。サウスタウンで大人気のシフォンケーキの店の出店もあるから毎年結構賑わうんだ。不景気とはいえこの時期はみんな浮かれてるからね」

 フィンは着ぐるみ、私はたくさん余ったピンク色の風船の束を持って、そんな話をしながらうさぎの流れとは逆方向のバニーボーイクラブに向かって歩いていく。
 初日に比べたら多少慣れてきてはいるが、へとへとだ。ただ、スマイルの物語を知ったから子供達に風船を配るのに以前より身が入る。恐ろしいスマイルの悪夢にうなされることもなくなっていた。

 帰ったらまた仕事が待っていると思うと気が重い。バニーボーイクラブの客入りは順調で、入場制限がかかる日もあるくらいだ。そのため目が回るほど忙しく、私は便利屋扱いでこき使われている。
 今日のミーティングでは、無給の私を除いて特別ボーナスが配られる予定らしく、フィンは機嫌が良いようだった。
 軽快な足取りのフィンの後ろをノロノロとついていくと、少し距離ができる。すれ違ううさぎ達は本当にみな男性ばかりだ。

 大通りの端を歩きながら横の狭い路地にふと視線を向けた瞬間――路地の奥の方を横切っていった、小さな動物に目を奪われる。

「クロ!!」

 無意識に緩めた手から解放されたピンク色の風船達が一斉に空へと舞い上がっていく。私の体は考えるより先に走り出していた。
 クロを追いかけて、暗く狭い路地を進む。私の前をぴょんぴょん跳ねるように走っているのは黒い毛並みのうさぎだった。
 この国に私が知っている小動物のうさぎは存在しない、という言葉が本当ならば、このうさぎはクロで間違いない。
 クロも北の森で川に落ちてイーストタウンに流れ着いていたんだ。

「クロ、クロ! ねぇ、待って!」

 路地を超えて、甘い香りが充満する華やかなクリスマスマーケットも通り抜けた。
 大勢のうさぎ達から注がれる視線も、フィンの元から離れていることも、気にしている余裕はなかった。それだけ私は目の前のクロを見失わないよう追いかけるのに必死だったから。


 どれだけ走っただろう。何度もけつまずきそうになりながらその小さな体を抱き上げようとして、でも、あともう少しのところで私の手は届かない。
 息が苦しい。全身から汗がどっと噴き出ている。疲れ知らずなクロとの距離は大きく広がっていた。

 焦りを覚えながら一層狭い路地を駆け抜けると、開けた場所に出た。左右を建物の壁に囲まれており、道はどこにも続いていない。
 あるのは裏口とみられる扉だけだが、しっかりと閉まっている。確かに行き止まりなのにクロの姿が見当たらない。
 隠れられそうな場所や、通り抜けられそうな道もないのにどうして――

「ク――」

 やっとのことで息を整え、名前を呼ぼうとして、口をつぐむ。閉まっている扉の鈴が鳴った。

「馬車は大通りの前で待たせています!」
「助かります」

 話し声が聞こえる。誰かが出てこようとしているのだ。こんな誰もいない場所でうさぎに出くわしたらまずいことになる。
 私は慌てて元来た狭い路地に戻り、すぐそこにある横道で曲がった。
 そうして大きなゴミ箱の裏にしゃがみこんで息を殺す。ネズミが飛び出してきて鳥肌が立つが、少しの辛抱だ。

 私が身を潜めた路地の横を先ほどの二人組が通りがかると、再び会話が耳に入ってきた。
 ハキハキとしていてよく通る低い声と、落ち着いた声だ。

「珍しいですね。クロムさんが時間に遅れて来るなんて」
「ああ……少し寄るところがあったので」

「っ!」

 知っている名前が聞こえてきて、思わずゴミ箱の裏から声の方を覗く。
 私と年が変わらないように見える、燕尾服に身を包んだ少年には見覚えがあった。
 髪は艶のある黒い色をしていて、髪色とおそろいのうさぎの耳は姿勢が良い彼に相応しくピンと立っている。

 間違いない。クロムだ。
 一緒に歩いているうさぎは知らないけれど、同じ服を着ているため城の使用人だろう。
 見つかったら城に連れ戻されることは確実。途端に緊張感が増して、額から汗がツーと流れ落ちてくる。

「あの職人、代金を釣り上げようとしてきて大変でしたよ! クロムさんが来てくれなかったらどうなっていたことか」
「毎年のことです。扱いが難しいですが、彼の作る祭壇飾りはアンジェ様が認めています。作業の方は滞りなく進んでいるようで、何よりでした」
「そうですね! 実は自分、24日の祭事に参加するの初めてだから緊張しています!」

 早く遠くに行ってほしいのに、彼らはまだ会話を聞き取れる範囲内にいる。私が今少しでも動いたら、耳が良いうさぎ達にはすぐに気付かれてしまうだろう。

「……でも、特別なクリスマスイブに神へ献上する贄が、あんな人間で大丈夫なんでしょうか? あんな……うさぎの言葉を喋る人間、気味が悪い……先日も、何で私がとわーわー騒ぎ立てていましたし」
「アンジェ様が決めたことです」

 神へ献上する贄……?
 うさぎの言葉を喋る人間ってまさか……!

「――っ!?」

 頭に浮かんだ名前を考えなしに叫ぼうと開けた口を、物理的に塞がれた。
 ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。淡いピンク色の髪が視界に入ったと思った時には背後から抱きしめられていた。
 いつのまにか後ろに座り込んでいたらしいフィンの腕の中で、私は抵抗することなくじっとしていた。先ほどのクロム達の会話が脳内で何度も再生されている。

 私が知っている限りでは城に捕われている人間の中でうさぎの言葉を喋れるのは一人しかいない。
 24日、クリスマスイブに生贄にされることが決まっているという人間は、恐らくレイチェルだ――


 クロム達が立ち去ってしばらくの時間を置いてから、フィンは焦ったように体を離した。私の口を塞いでいた手に涙がぽたぽたこぼれ落ちてきたからだろう。

「な、なんだよ! あいつらのこと知らないの? 城に連れ戻されないように助けてやったんだろ!」
「……っ……」
「……あー、はいはい。わかってるよ。せっかく逃げ出せたと思ったのに見つかってショックなんでしょ? 言っとくけどマーケットがざわついてて、あんたがどっちに行ったかなんて簡単にわかったからな」
「う……っ、うぁぁ……っ」

 困ったように頬をポリポリかいているフィンの前で、気付けば私は泣き出していた。
 子供みたいに声を上げて鼻水を垂れ流し、みっともないと思ってもどうしようもなかった。

 城に置いてきたレイチェルのことは気がかりだったけれど、きっと大丈夫だと信じていた。そう願うことしかできなかったからだ。
 それが、24日――あと6日後という明確なタイムリミットを突きつけられたのだ。頭が真っ白で、混乱していた。

「べ、別に逃げようとしたからって殺すとは言ってないだろ! 俺はただ、逃げるんならもっと上手くやれって……い、いや。とにかくそんなどんくさくちゃ逃げたって誰かにすぐ食われちま、」
「フィン、助けて……っ、このままじゃレイチェルが! 私の友達が殺されちゃう!」

 我ながらバカみたいだと思った。無関係なうさぎのフィンに、人間の友達を助けてほしいと縋りついたって仕方がない。
 うさぎが人間より力があるというおかしな世界。でも、泣き崩れる私の前でオロオロしている、おかしなおかしなうさぎしか、私には頼れる相手がいなかった。

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