Lunatic Rabbit

□香水
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 血まみれの密室の中。逃げ出した私はいとも簡単に捕まって、ピンクの体を真っ赤に染めたうさぎのピエロが告げる。「お前の友達は美味しかったぞ」と。
 耳障りな高笑いとともにその顔が近付いてきた。子供達から愛されている、大きな大きな着ぐるみの目。縫い付けられた笑顔の奥から覗く、本当の瞳と目が合う。見覚えのある瞳の色だと思った。
 ……見覚えがある?どこかで会ったの?……思い出せない。あれ、何色だっけ。そもそも声は?どんなだった?
 急に全てがもやがかったように曖昧になって、肝心なことが思い出せなくなる。中に入ってるのは誰…?


「……痛…っ!」

 突然強い衝撃を感じて、目を開ける。お腹が重たい。どうも真横のベッドで寝ていたフィンが私の布団に落ちてきたらしかった。
 今は何時なのだろう。窓のないフィンの部屋には陽の光が差し込まないから時間の感覚が失われがちだ。暗闇に少し目が慣れてきて視線を下に向けたら案の定。フィンは仰向けの状態で豪快に手足を伸ばし、私に被さったまま眠っていた。
 普通ベッドから落ちたら起きるだろうと思うのだが、何事もなかったかのように寝息を立て続けているからため息が出る。

「フィン、フィン、起きて。どいてよー…」
「…………」

 一応声を掛けてみたけれど、早々に諦めた。寝起きの悪いフィンを起こすのはすごく骨が折れる。フィンは自分のタイミングでならすっきり起きるけれど、自分がまだ寝ると決めている時間のうちに他人から声を掛けられても意地でも動こうとしない。ラピスも手を焼く自由うさぎなのだ。自然に起きるのを待った方が懸命な気がした。
 フィンは幸せな夢でも見ているのか、むにゃむにゃ言いながら口元を緩めている。舞台の上で扇情的な表情をして、客も私も翻弄しているフィンと同一人物には思えないくらい、無防備な寝顔は幼く見えた。

「ん……お腹減った……」
「あ、起きたん、」
「……っ!」

 そこまで待たずにフィンが上半身をむくりと起き上がらせた。暗い中、目が合ったと思った次の瞬間に「うわーっ」と大声を上げてフィンが立ち上がる。そして、反応する間もなく、顔面に冷たい強烈なものを浴びせられた。

「ぶっ!ケホッ、ゴホッ」
「ば、馬鹿!俺のベッドに入ってこないでよ!俺が寝ぼけて噛み付いたらどうするつもりだったわけ!?」
「いや、フィンが…っ、コホッゴホッ!」

 顔面から体まで必要以上に吹き付けられたのは香水だった。フィンが最近気に入っているというスイートピーの香りだ。適度に使用すれば甘くて可愛らしい香りを楽しめるのだが、香水で洗顔でもするかのように浴びせられたらもはや凶器に変わる。
 鼻がもげそうな強烈な匂いに咳き込みながら、理不尽だと思った。

「……よし。人間の匂いは香水でごまかすんだよ。わかってるよね?」
「うん…っ、うん……」

 なんだか目にまで染みてくるようで、涙目になりながら頷く。香水を常に身に纏っておくように……という教えを、私はきちんと守っている。寝る前に浴びるシャワー後にも、フィンとお揃いの香水を手首と首裏にワンプッシュずつ吹きかけていた。
 前に一度つけたラピスのきつい香水と比べて、この香りは嫌いじゃないから苦じゃなかったのにしばらく匂い酔いしそうだ。

「あー…また忘れちゃった……」
「忘れたって何を?」
「夢の話だよ……」

 フィンが眠たそうにあくびをしながら呟く。夢といえばそうだった。怖い夢を見ていたことを思い出す。詳細には思い出せないが、夢の中でスマイルに酷い目にあわされる直前だったような。フィンが落ちてきてくれて案外助かったのかもしれない。

「フィンはどんな夢を見てたんだろうね」
「確か、檻に閉じ込められてて……んー…思い出せない……」
「え……檻?」

 私にはフィンの寝顔はとても幸せそうに見えた。まさかそんな、檻に閉じ込められている夢を見ていたようには思えなくて。「怖い夢なんて意外」と正直な感想が漏れた。

「……怖い?……怖い。怖い……」

 フィンがうーん、と唸ってから沈黙する。どうにもしっくりこない、という風に首を傾げて、最後に「わかんない」とその答えを投げ出したのだった。


 フィンと初めて会った日から一週間が経とうとしていた。あの日もらった赤い風船は、ガスが大分抜けてしまっている。縮んでぶよぶよになった風船には宙に浮かぶための力が残っておらず、今ではもう私の布団の上に転がるだけになっていた。

「今週は風船配りのバイトもいっぱいあるから稼げそうだなぁ!」

 ベッドの上であぐらをかいていたフィンがその風船を上機嫌に拾い上げる。ピンク色のうさ耳と赤い風船が視界に入って、体に寒気が走った。夢の中で見た、血に染まったうさぎのピエロを想起させる。これも全て昨日の殺人ビデオのせいだ。

「昨日のビデオに映ってた着ぐるみ、どうしてスマイルだったのかな……」
「……知らない」

 映像の中のスマイルがあまりにも無邪気に殺戮を楽しんでいたから、可愛いと思っていた着ぐるみの笑顔も今見れば狂気しか感じられないだろう。フィンは私の言葉に眉をひそめた。

「わかってると思うけどさ、スマイルは悪者じゃないからね。いつだって夢と希望と笑顔を届けてくれるヒーローさ!子供向けの絵本に出てくるキャラクターをあんな使い方するなんてどうかしてるよ」

 フィンの手で強く握られて形を変える柔らかな風船。余っていたゴムが引き伸ばされて今にも割れそうな嫌な音がしている。あの映像に引きずられ、スマイルにまで苦手意識を持っている私に機嫌を悪くしたらしい。

「ごめん。スマイルを悪く言うつもりはなかったんだけど、昨日の映像が衝撃的で……フィンもスマイルが大好きなんだね」
「……そりゃそうさ。スマイルはすごいよ。いつだって子供達の……みんなの、ヒーローなんだから」

 拗ねたようにそっぽを向いたフィンが風船を手放した。空いた手で自身の長い耳を伸ばしてみたり握ってみたりして落ち着きがない。フィンの髪と耳は、照明によく映える。スマイルと同じ、薄いピンク色だ。
 あぁ、何故その色にしているのか理由がわかったよ。

「スマイルに憧れて染めてたんだね」
「う、うるさいな!……笑えば」
「えっ、フィンに似合ってるのに」
「い、いや……だっておかしいじゃん。こんなストリップクラブなんかで働いてる奴が絵本の中のヒーローに憧れてるなんて……人間にはわかんないかもだけど……」

 か細い声で言い終わると、羞恥の限界とばかりに長い耳を折り曲げて目を隠す。私で言うなら幼い頃に見ていたアニメのヒロインに憧れる感覚だろうか。それで言うなら、その思想は私の中にも残っている。
 だからきっと他人に親切にしようと思うのだろうし、誰かが泣いていたら自分も悲しくなるんだろうし、

「私も風船を配ってる時に子供に喜んでもらえて嬉しくなったよ。複雑でもあったけど……もしもうさぎに生まれてたらスマイルに憧れてたかもね。スマイルの絵本ってどんな話なの?」
「……花音って本当に人間?」
「うーん……だと思う」
「あはははっ、何だそれ…っ」

 綺麗な瞳に涙が浮かぶくらい笑い転げている、年相応の笑顔が眩しかった。見ていると安心するような、心の奥がむず痒くなるような、消化できない感情が生まれる。

「あっ!そうだ。共用スペースの本棚にスマイルの絵本置いてあったな。公演始まるまで時間あるし、読んであげよっか」
「わ、私、自分で読めるよ」
「大丈夫大丈夫。強がらなくても。読み聞かせ得意だから安心してよ」

 フィンは立ち上がり、泣く子も黙るよと言って屈託なく笑う。私達同い年らしいのに幼児のような扱いをされていることは不服だったけど、そんなに上手いなら気になるかも……なんて少し思った。

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