Lunatic Rabbit

□勘違い
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 落ち着こう、落ち着くんだ。まだ大丈夫。言葉を話せばうさぎだと思ってもらえるかも…と、私は希望的観測に基づき、"こんばんは"と挨拶しながら後ろを振り返った。
すると、目を丸くした彼と視線が合う。フィンより二、三歳下だろうか。
彼もまた、自然色には見えない藍色の髪と垂れたうさ耳が印象的な美少年だった。

「……どーもこんばんはー」

男の子は挨拶を返しながら品定めするように私の体を上から下まで眺めて、舌舐めずりをした。
私を見る彼の目は捕食者のそれだった。身がすくんで動けなくなった私は蛇に睨まれた蛙だ。

「フィ、フィンなら今、救急箱を取りに行ってくれてるんです」
「へー…フィンくんいないんだあ?」

男の子が不気味な笑みを浮かべ、それは好都合とばかりに部屋へ足を踏み入れてくる。
男の子との距離が一メートルにまで迫った時、廊下から足音が聞こえてきた。「やば」と短く呟き、男の子がドアに向かう。

「ラピス、何してんの」
「フィンくんを起こしに来てあげたんですよー。とばっちりは勘弁なんでー。それより"あれ"どこで手に入れたんですか?僕にも分けてくださーい」
「ん?あれって?……あの子のこと?全く油断も隙もないな。あの子はお前にはあげらんないよ。ほら、出てけ出てけ!」
「あーーずるいーー」

戻ってきたフィンは男の子を部屋から締め出すと、鍵を掛ける。男の子が文句を言いながらドアを叩く音もすぐに聞こえなくなった。


「あいつラピスっていうんだ。変なことされなかった?」
「……大丈夫だよ」

フィンは「ならいいけど」と言って感じの良さそうな笑顔を見せる。でももう私は助かったなんて手放しでは喜べない。
ラピスや他のうさぎは私が人間だと一目で気が付いた。それならフィンは…?
他のうさぎに追われていたところを助けてくれた。風船をくれた。名前を聞かれた。そんな理由で少なからず信頼し、フィンが部屋を留守にした隙に逃げなかった自分の馬鹿さ加減に嫌気が差す。

「花音、傷が痛むの?ちょっと見せてよ」
「ひっ!」

ポケットの中で右手を、胸の上で左手を握りしめる私の顔には不安が表れていたのかもしれない。フィンは心配そうに私の左手を握り、あろうことか指をぱくりと口にくわえた。
第二関節まで温かな感触に包まれた薬指に軽い痛みが走る。指がなくなったと一瞬頭が真っ白になったが、指の腹を這う舌の感触に何とか正気を保つ。指にも出来ていたらしいかすり傷を舐められているようだ。

「あ、ごめん!救急箱見付からなかったから消毒してあげようと思って……」

私が嫌がっていることに気付いたフィンは指を解放してくれた。薬指に第二関節から上があることを目視し、更に動くか確認して、改めてほっとした。
フィンの口の中は猛獣のような鋭い牙が生えているわけでも、変な舌をしているわけでもなくて、多分人間と変わりなかった。
ジルさんも言っていたが、うさぎと人間は本当によく似ている。ただ、外見が同じように見えるだけで、体の硬度や筋力、もちろん顎の力も全然違うんだと思うけれど。


「……でもなんだろ。なんか変な気分。花音の血、甘いんだね。それにすごくいい匂い……」
「っ!」

フィンは左腕を鼻に近付けると頬を赤く染め、蕩けきったような瞳で私を見つめる。今までと雰囲気が明らかに変わっていた。
熱っぽい息を吐きながら、左腕の一番大きな傷に舌を這わせてくる。ピリピリした痛みに顔を歪める私を気にも留めないで、味わうようにねっとりと傷口を舐め上げた。

「はぁ……知らなかった。運命の相手って美味しいんだ……」
「やっ、嫌!」

おぞましい言葉に必死になって腕を振り払い、フィンを突き飛ばす。私の何倍も力があるはずなのに、フィンは少しよろけた。
視線の先に気を取られていたことが原因だった。私の頭上へと注がれている視線を追う。
フードが脱げていることに気付かされて、全身の血の気が引いていく。

慌てて両手を使ってフードを被り直そうとするも、今度は右手を掴まれる。フィンは私の右手の甲と頭を交互に見て、ゆっくりと口を開く。
……ああ、嫌だ。聞くのが怖い。

「に…んげん…?」
「っ、ぅ…く…っ……」

今の今までフィンは私が人間だと気付いていなかったことがわかって、私は思わず泣き出した。さっきまで私に親しげに話し、私の名前を呼んでいた彼に殺されるのかと思ったら、恐怖より悲しみの方が大きかった。
こんなことなら、あのうさぎの親子に食べられておくんだったとすら思う。

「えっ、泣い…!?」

混乱したようなフィンの声を聞きながら、私は目を閉じて泣き続けた。


「ハァー…信じらんない。人間相手に運命って……俺、完全にどうかしてた。発情期はまだ先なんだけど盛ってたのかなー」
「…………」
「この部屋匂いきついでしょ?おかげで俺の鼻イカレてるんだよね。まあ、初対面から多少は人間みたいな匂いがするなとは思ったけどさ、女の子ってそんなもんなのかと思うじゃん……でもそうだよね。普通に考えて女の子がイーストタウンにいるわけないよね……」
「…………」
「……フードを被って、この世界が嫌いで嫌いで仕方ないって顔で歩いてるから、"耳無し"なんだって思って嬉しかったのに……」

フィンは尚も泣き続ける私の前で頬をポリポリ掻きながら一方的に話し、最後にまた深いため息をついた。無意識にびくりと震える私を困ったように見て、顔を近付けてくる。

「で、これからどうしたいわけ?」
「……解放してほしい」
「まっ、当然か。だけどそれは無理かな。人間が外を歩いてたら即効食われるよ?食料不足だからみんな飢えてんの」
「それでも…いい」
「あんたがよくても俺は嫌なんだってば。勘違いでも一瞬は運命感じた相手が他の奴の腹の中に収まるなんて、なんか癪じゃん。どうしても外に出るってんなら、今晩のディナーになって俺の飢えを満たしてよ」

お互いに息が掛かるほどに近い距離。私はフィンの整った唇を食い入るように見つめた。
私、この口に食べられるの?

……そんなの嫌だ。元の世界の家族が、友達が、レイチェルが、ジュリオが、クロの顔が頭に浮かんで、力無く俯いた。


「そろそろ開店ですよー。準備してくださーい」

ラピスがドアをノックしながらフィンに声を掛けた。そういえばサボりは駄目だとか言っていた気がする。もう随分夜遅いだろうに、こんな時間から仕事なのか。

「それが嫌なら俺に提案があるんだけど」

フィンはドアの方を見ながら顎に手を当てて何か考えを巡らせた後、私の耳元で囁いた。提案なんて言ったって、断ったら殺されるのなら選択肢は一つしかない。
私は嫌な予感を覚えながら頷く。いつの間にか涙は止まっていた。

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