Lunatic Rabbit

□赤い風船
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 建物の角を右に曲がり、階段を上って下りて、次の角を左に曲がって、また左に曲がって、階段を上って、トンネルを潜り、右に曲がる。
私の手を引いて走るうさぎの着ぐるみは、迷路のように入り組んだ細い路地を迷わず進んでいく。
私を追う足音はもう聞こえなくなっていた。
息が上がり始めた頃、建物に囲まれた小さな空間で着ぐるみが足を止めた。

着ぐるみは私に背を向けたまま、よっこいしょと呟いて着ぐるみを脱ぎ始めた。私より背が高い、華奢な背中が目に入る。
うさぎの着ぐるみの下には、うさ耳フード付きの黒いパーカー。
そして、これまで出会ってきたうさぎ達とは違って自然色とは思えない薄いピンク色の髪と、同色のうさぎの耳が印象的だった。


「赤ずきんちゃん、これから僕とデートしませんか?」

男の子がうさ耳のフードを揺らしながら、くるりと体をこちらに向ける。
どこに隠していたのだろうか。彼は私の前に跪き、薔薇でも渡すようにうやうやしく赤い風船を差し出した。
着ぐるみの下の素顔はとても整っていて、ファンシーな髪色も違和感なく似合っている。一瞬性別がわからなかったけれど、声や体型、立ち振舞いなどから男の子だと思った。

私はポカンと口を開けながら今度こそ風船を受け取り、彼の澄んだ瞳を覗き込んだ。
綺麗な瞳だ。茶色の虹彩はそれほど珍しいものではないのに、彼の瞳は特別な輝きを放っているように見えて、目を奪われる。

「あれ?呼び方気に入らなかった?じゃあ、可愛いお嬢さん。俺さ、君を一目見てビビッと運命感じちゃったんだよね」

男の子は今度はこめかみに人差し指を当てて綺麗にウィンクをしてみせた。
運命だなんて言っているけれど、その口調はプカプカ浮かぶ風船みたいに軽く、挨拶代わりの一言という感じで、真剣味に欠ける。
ナンパの定番台詞だし…と思ったら、途端に彼の存在を胡散臭く感じて、キラキラ光っているように見えた瞳も私の中で輝きを失う。
彼は私をうさぎだと勘違いしてる?それとも油断させて食べようとしてる?どちらとも考えられた。


「それに、俺達って前にどこかで」
「あの!助けてくださって本当にありがとうございました。でもデートはちょっと……わ、私はこれで失礼させてもらいますね」
「帰るの?ここからの道わかる?」

とにかく少しでも早く彼から離れようと露骨に早足で歩き出せば、彼は全く意に介していない様子で後に続く。

「家まで送ってあげよっか?あ、大丈夫大丈夫。俺、送り狼じゃないから」
「…………」

その言葉で、これからどうすればいいのか、どこへ行けばいいのか、わからなくなっていたことを思い出した。
不用意に歩き回ってうさぎと出くわしたら、また追い掛けられるだろう。次は捕まって殺されるかもしれない。そう思うと自然に足が止まる。

「俺が必ず、君を無事に家へ帰すって約束するよ」

一人で喋り続けていた彼がウィンクをしてへらりと笑った。
約束するなんて、軽々しく言わないで。そんなこと無理なのに。

「……この世界に、私の帰る場所なんて…ない……」

"この世界に人間が安心して暮らせる場所なんてないわ"
あの時のレイチェルの言葉を噛み締めるように、私はゆっくりと呟いた。


「……行こう」
「え?ちょっと!」

静かで、落ち着いた声だった。男の子が着ぐるみを小脇に抱え、また私の左手を取って走り出す。
今度はどこへ行くというのだろう。手を握る力は強く、振り解けそうになかったから諦め半分でついて行く。

「俺はフィン。君の名前は?」

振り向いた彼はふわりと柔らかく微笑む。やっぱり彼の瞳は綺麗。
赤い風船が風を受けながら遅れてついてきていた。私が今着ているパーカーと同じ色だ。
ああ、彼は私の好きな色が赤だと思って、この風船をくれたのかな。噴水広場で私が暗い顔をしていたから……そんな単純なことに今更気付いた。

もしかしたら私が気付けなかっただけで、空っぽに見える風船の中にも大事な何かが詰まっているのかもしれない。
そうだったらいいのにな。と思いながら、私は自分の名前を伝えるために口を開いた。
名前を聞いてくれたうさぎは彼で三人目だ。


 複雑な路を延々と進んでいくと、真っ白で綺麗な壁から、古びて汚れた壁の目立つ建物が立ち並ぶ景色へと移り変わっていった。
立ちこめる下水の悪臭と足下を走るネズミに眉をしかめると、フィンは「愉快なところでしょ?」なんて軽口をたたく。
お世辞にも綺麗とは言いづらい怪しげな建物の勝手口のような入口から入って、いくつもあるドアの中の一室が目的地だった。

「これ転んだの?おてんばなのもいいけど、怪我には気を付けなよ」
「ま、まあうん」

もらった野菜スティックのニンジンを咀嚼しながら、曖昧に頷いた。
同じくニンジンにかじりついているフィンが、私の左腕を好き勝手触っては「これが女の子の腕かあ」なんて感慨深そうに呟いている。
室内でも頑なに脱がずにいるフードと、ポケットに突っ込んだままの右手に関しては、まだ言及されていない。
私が人間だと一目でわかる頭頂部と、右手の甲の焼印だけは何としても隠さなければ。陽気な彼が豹変するところは見たくない。


 フィンが救急箱を探しに出て行くと、私は緊張感から開放されて室内を見回した。
「僕の城へようこそ。お姫様」と迎えられたのだからフィンの部屋に違いないのだろうが……十畳ほどの室内には、女性用の派手な衣装やランジェリーがハンガーラックに掛けられていて、男の子の部屋らしくない。

女の子だと言われても納得の容姿とはいえ、彼の態度はどう考えても男の子だった。
それに女性用の衣類がある点を除けば、物が乱雑に置かれて散らかっている普通の男の子の部屋という感じもする。
しかし香水の匂いがきつい部屋だ。部屋中の大量の衣類に香水が染み込んでいるせいで鼻がおかしくなりそうだった。


 少しして、部屋の前の通路を慌ただしく駆けてくる足音が聞こえた。
緊急を要するような怪我じゃないから、何もそこまで急がなくていいのに……。
足音はこの部屋の前で止まり、私の背後でドアが開く。

「フィンくーん、まだ寝てるんですかー?サボりは駄目ですよー、僕まで怒られちゃうじゃないですかー…っ!」
「……!」

"フィンくん"
それはフィンの性別が男であることを裏付ける言葉だった。そして、入室者がフィンではないことを示していた。
まずいまずいまずい。
出口は一つ。逃げ場がない。
気だるそうに語尾を伸ばして喋る声は、ピタリと止まった。

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