Lunatic Rabbit

□出逢い
1ページ/1ページ

私がクロと出逢ったのは、一年前の初雪の日――
公園近くの道路の側溝に倒れていたクロを保護したことがきっかけだった。
しばらくは迷子のうさぎの飼い主探しを積極的にしたけれど、飼い主は現れなかった。
幼い頃にも飼っていたからうさぎは好きだったし、捨てられてしまった子なら…と思い、私は家で正式にクロを飼うことにした。
名前の由来は見たまま、黒うさぎだったから。

最初こそ私の手とケージに噛み付いてばかりいたクロも、次第に警戒心を解いてくれた。
私に懐いてからのクロは、外へ散歩に連れ出そうとすると一目散にケージに逃げ込んで、外に出るのを嫌がっていたから、脱走するなんて夢にも思わなかった。

私はこの一年でクロのことが大好きになった。
クロも我が家を気に入ってくれていると思っていた。
でも、それは私の勘違いだったのだろうか。
人間の私には、言葉を喋れないうさぎの本当の気持ちをわかってあげることは出来ない。
クロはずっと、私が支配者の世界から逃げ出したかったのかもしれないと、薄れゆく意識の中で思った。


「……ん……」

 目を開けたら、苔の生えた石の天井が見えた。
相当長い時間気を失っていたらしく、辺りは暗くなっていて、びしょ濡れだったであろう全身が既に乾ききり、赤のパーカーワンピースにパサパサになった泥がこびり付いていた。
擦り傷だらけであちこち痛む体を起こし、真横を緩やかに流れる川を眺めた。

どうやら橋の下に横たわっていたようだ。
激流の中で必死に掴まっていた覚えのある流木も隣に転がっている。
北の森に人工物の橋があるとも思えないし、川の流れからしてかなり下流……どこまで流されたのか、クロは川に落ちなかったのだろうかと思案する間もなく、話し声が聞こえてきた。

「ねぇねぇ、パパ。ほんとに今晩はステーキなの?」
「あぁ。ご馳走を腹一杯食べれるぞ。早く持って帰ろうな」
「やったぁ!僕、ステーキ食べるの初めて!」
「あ、こら。走ったら危ないぞ」

それは普段なら、よかったねと微笑ましく思う会話だったのかもしれない。
でも私は、この親子がテーブルにご馳走を並べる為に誰の肉が必要かわかっているからゾッとした。
こちらに近付く足音とは逆の方向へ、音を立てないよう注意しながら急いだ。

すると「逃げないで」という高い声とともに早まる小さな足音。
まずい。気付かれた。土手から上がる為の階段まで走っていくと、今度は後ろで派手な砂利の音が聞こえ、すぐに「ぱぱぁ、痛いよぉ」と泣き声があがる。

私は思わず立ち止まり、振り返った。
砂利の上で倒れて泣いているその子は幼稚園児くらいだった。
やはりまだ子供だ。幼いうさぎの子供。
なんだか私まで泣きたくなってくる。こんなに幼い子供も捕食者で、うさぎの耳が無い私は食われる立場なのだという現実が悲しかった。
逃げる私には目もくれず、慌てて子供を抱き上げ、あやし始める優しそうな父親の姿を背に、階段を一気に駆け上がった。




 白い壁と赤い屋根で統一された街を俯きながら早足で歩く。
恐らくここはイーストタウンだ。あの川は北の森から東の森を通って、イーストタウンにまで流れていたようだ。
最初に馬車の窓から眺めた時には人気がなかったのに、夜も更けた今は街中に煌々と明かりが灯り、露店商の立ち並ぶ大通りをうさぎ達が行き交って、街は活気に満ちていた。

親子が後を追ってきている気配はないが、うさぎ達がすれ違い様に怪訝な顔で私を見る。
その視線が頭頂部に向けられていることに気付いて、パーカーのフードを被った。
帽子を被ってうさぎの耳が見えない状態で歩いている住民は他にもいるけど、私は彼らとは何かが違うのだろう。歩けど歩けど注目を集めている。
ただ、私の周りをキョロキョロと見回し、視線を逸らす様子から察するに、私の飼い主…あるいは持ち主のうさぎが近くにいると思われているのかもしれない。

私は家畜なんかじゃないけれど、狂った世界において私の所有者のうさぎがいるとしたら、それはこの国の王ということになる。
アンジェの顔を思い浮かべると、銃弾が掠めた右手の甲の傷がズキリと痛んだ。
でも、13の焼印を真横に切り裂くように出来た傷痕に気持ちは少しだけ軽くなる。
私、今は自由なんだ。エリオットから、アンジェから、逃げ出せたんだ。


「あーー旨そうな匂い……」
「なぁ、あの人間さぁ」

人間が言葉を理解出来るとは思わないのか私の背後で話す声は大きく、危険な流れに変わっていくのがわかった。
私は徐々に足を早める。
賑わっている広場を通り掛かると、噴水の前に子供達が群がっていた。可愛らしいピエロ風のうさぎのキャラクターの着ぐるみが、色とりどりの風船を配っているようだ。

うさぎがうさぎの着ぐるみを着てる……何となく不思議に思いながら横を通ると、何故だかその着ぐるみが子供達の輪を掻き分けて近付いてきた。
多くの視線を集める中、私の前に赤い風船を一つ差し出す。

「……私にくれるの?」

着ぐるみは偽者のうさ耳を片手で押さえて目を隠し、照れているような動作をしながらコクコク頷いた。

「あ…りがとう……っ!」

風船の紐に手を伸ばしかけた時、「いたぞ」「逃がすな」と、さっきの二人の声がした。
一瞬忘れていた自分の立場を思い出し、私は風船を受け取らずに雑踏の中を走り出した。


 大通りを一本外れて細い路を行くと、途端に人気がなくなる。私を追い掛ける足音以外は静かな路をあてもなく走った。
どこへ逃げればいいんだろう。エリオットのいる城に戻る?人間を神への生贄にするあの城に、自ら死にに戻るっていうの?
レイチェルはまだ城にいる。だから戻るの?再び逃げ出すことが出来るかどうかわからないのに?
でも、レイチェルは友達だ。二人で一緒に逃げようって約束した。

クロはどこにいるの?私はどうしたら……

「こっち!」
「えっ!?」

突然曲がり角から現れ、私の左手を取って走り出したのはあのピエロ風のうさぎの着ぐるみだった。
動きづらそうな体でスキップでもするかのように軽快に走り、私を引っ張っていく。
「どこへ行くの?」と問えば「どこへでも」と着ぐるみは楽しげに答える。
ついていったら食べられる…なんて不思議と思わなかった。

.
次の章へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ