Lunatic Rabbit

□十字架
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洗面所に用意されていた着替えは、ジャケットがないことを除けばジュリオや他の使用人の正装時の装いと同じ物だった。
私はシャツの袖をまくって、バスルームに繋がる寝室を出た。
改めて見ても、城の主である国王の私室は広い。置かれている家具の一つ一つに気品が感じられた。

アンジェは、寝室の向かいの壁際に立てられた十字架と祭壇の前で目を閉じていた。
部屋の床一面に敷かれた絨毯の上から、そこの区画にだけ刺繍の凝った別の絨毯が重ねられている。この部屋の中で、そこが特別な空間なのだということは一目でわかった。

それにしても熱心に祈りを捧げている。うさぎはみんな信心深いのだろうか。
玉座の間の壁画には、うさぎの耳が生えた神らしき存在が描かれていたし、使用人も毎日私達が芝生の運動場で過ごす午前中に、見張りの一人すら残さず礼拝の時間だからと行ってしまう。
気になるのはバスルームでの言葉。ノアのことを異端者って……。


「ふぁーあ……眠たい……」
「アンジェ様、お休みになられる前に13番を…!」

祈りを終えたアンジェは、私とエリオットの横を素通りし、大きなあくびをした。寝室の扉へと向かうアンジェの後ろを、エリオットが慌てた様子で付いていく。
うさぎは夜行性の動物といわれているけど、この世界のうさぎの生活リズムは人間と変わらない。
深夜になると活発になるクロに、遊んで遊んでとアピールされて困っていたことが遠い昔のようだ。
昼間は昼間で、ひっくり返って爆睡しているから、その姿を見る度に死んでしまったんじゃないかと思って、心臓に悪かった。そんなところも含めて可愛かったんだけれど。

「何ぼーっとしてるの?13番も来るんだよ」
「わ、私も?」

寝室の扉を開けて、アンジェは振り返った。エリオットからしても予想外だったのか、彼は言葉を失っている。

「エリオット、マットを外に出して。明日の朝までに13番の代わりを見繕っておけ」
「……畏まり…ました……」

淡々としたアンジェの指示に従い、エリオットは寝室に入っていった。恐らくこれでまた一つ、彼の怒りと憎しみを買ったことだろう。
すぐに鎖の音が聞こえ、首輪に繋がった鎖を引かれながらノアが姿を見せた。切られた右耳の先がぷらんぷらんと揺れている。早く手当てを頼まなければ。
俯いたノアは、エリオットと一緒に部屋を出て行くまでの間、顔を上げることはなかった。


「13番、もう一度質問するよ。君は北の森に住んでいたの?それとも他の森から迷い込んだの?」
「だから何も知らないんだよ!私はこの世界の住人じゃないんだから」
「全く。キリがないね」

このやりとりもこれで何度目になるだろう。アンジェがけだるげに寝返りを打った。
ノアの怪我の手当てと引き換えに、何でも正直に答えるという約束だ。私は当然嘘偽りなく話しているのだから、何度同じことを聞かれても答えは変わらない。

どうしたものかと椅子の背もたれに体を預けながら、アンジェの背中に視線を向けた。
権力の象徴の王冠と、仰々しいマントを外したアンジェの体は、初めて対面した時よりずっと華奢に見えた。
一人で眠るには持て余す、広過ぎるベッドが余計にそう感じさせるのかもしれない。


「見て。私の元いた世界では、うさぎはこんな感じの小動物なんだよ」
「空想上の動物の絵なんて興味ない」

説明の為にと先程描いた絵を再度取り出して、アンジェの背中に向けて掲げる。私の絵は特別上手なわけではないけれど、うさぎの体の特徴をちゃんと捉えていると思う。
アンジェはまた寝返りを打ち、ベッドの天蓋を眺めながら、首からぶら下げた十字架をシャツの中から取り出す。

「神は自身の姿と似せて、僕達うさぎをお作りになったんだよ。この高貴なる耳を授かった動物は他にいない。
いるはずがないんだ」
「…………」

その言葉には確かに強い意志を感じるのに、十字架を見つめる赤い瞳は空虚で、何も映していないように見えた。
アンジェの考え方を変えられる、決定的な証拠を示すことが出来ない私は口をつぐんだ。


 少しの沈黙の後、ぼんやりしていたアンジェが十字架を握り締めたまま自然に瞼を落とす。

「もう牢に戻っていいよ……」
「お、おやすみなさい!」

アンジェの部屋から生きて帰って来た人間はいない。そんな絶望的な話を聞いていたけれど、とりあえず殺されずに済みそうだ。
私はアンジェの気が変わらないうちに退室しようと、慌てて腰を上げた。

「……ねぇ。もしも、君が言う世界が本当にあったとして」

くるりと背を向けた途端に、掠れた声で呼び止められる。私は目を閉じたアンジェの端正な顔を上からこっそりと覗いた。

「その世界に、僕の信じる神はいるのかな」
「……いない…と思う」

私のいた世界では人間がうさぎの食糧などではない。神が存在したとしても、アンジェの信じる神というのはきっといない。
約束通り正直に答えるとアンジェは握っていた十字架をくたりと放し、小さな寝息を立て始める。
神を否定する返事は聞こえたのだろうか。アンジェの寝顔は不思議ととても穏やかだった。


 アンジェの部屋の前に待機していた使用人に連れられ、地下牢に戻って来た。消灯時間を過ぎているというのに、ジュリオは通路の雑巾掛けをしていて、牢屋の人達も珍しく騒ぎ立てている。
それに、鼻につく鉄錆の匂い……この匂いの正体を私は知っている。

「あっ、花音!おかえりなさいっ!」

ジュリオは驚いた様子もなく顔を上げた。私が帰って来ることを事前に知っていたようだった。

「な、何かあった…の…?」
「……うん……生贄にされちゃった子がいるの……でも…!」

ジュリオは悲しそうな顔で呟くと、すぐにパアッと瞳を輝かせた。そして、手に持っていた雑巾を放り投げ、両手を広げて胸に飛び込んで来た。

「よかったぁ!おかげで花音が帰って来た!」

ベチャッと汚い音を立てて雑巾が床に落ちる。血を吸って赤茶色に染まっているそれに、私の胸は激しくざわついていた。

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