Lunatic Rabbit

□異端者
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耳元で聞こえたハサミの音に、私はすぐ耳を押さえた。

「った!…くない…?」

痛みはなく、恐る恐る確認した手の平に血は付着していなかった。
金色のハサミが耳元から離れていく。一般的なハサミより二回りほど大きいそれは、持ち手に凝った装飾とルビーがあしらわれた特別な物だった。
刃から血が滴っていることもなく、代わりに数本の髪の毛がハラハラと宙を舞う。

「ねぇ、お利口さんな家畜でいられないなら、次はこの可愛い耳をちょん切っちゃうよ?」
「痛っ」

私に顔を近付けた王が薄く笑い、耳たぶを軽くつまんだ。痛いと訴えるほどではなかったけど、つい声が出た。
もしも本当に耳を切られたら、どれくらい痛いんだろう。紙で指を切る痛みの何倍かと想像したら鳥肌が立った。

「人間には耳が2つしかないんだから大切にしなくちゃね」

王が私に背を向けて、濡れた靴の裏を男の子のお腹に押し付けた。
男の子は小さな呻き声を上げ、床に倒れてぐったりしている。
もう、見ていられない。

「足をどけて!王様だか何だか知らないけどね、そんな酷いことしていいわけないよ!」

初対面のうさぎの男の子に何故こうも肩入れするのか、自分でもわからないけど。この結果殺されたとしても後悔しないと思うくらい、王の…いや、アンジェのしていることが許せないから。
私は初めて直接的な言葉で反抗した。

「もう自分の立場を忘れたみたいだね」
「っ!?」

アンジェがため息をつくと、バスタブ内の花が舞い上がり、お湯はシャボン玉のような水の玉になって次々と宙に浮かんでいく。
ぶつかっても割れない水の玉と花が天井近くに留まって、なんだか綺麗な光景を作り出しているけど、それによってバスタブ内の水かさは減っていくばかりだ。

「や、やだ…っ、これ止めて!」
「心外だな。僕は家畜の体に欲情するような変態じゃないよ」

私は残り少なくなったお湯の中で前のめりになって、胸と下半身を隠すのに必死だった。
近くにしゃがみ、バスタブの縁に肩肘をついたアンジェが、その様子を呆れ顔で眺めている。

「人間って本来は裸で生活してる生き物でしょ。なのに君は今、恥じらい、頬を染めているの?それってなんか変だよ」
「お湯を戻して…!」

冷静に指摘されて、益々顔が熱くなった。同性相手でも少し気恥ずかしいものなんだから、裸で生活なんて考えられない。

「いいよ。お望み通り戻してあげる」

アンジェがパチンと指を鳴らすと、天井の水の玉が一斉に割れた。
バスルーム内に雨が降り注ぐ。

「やぁぁーー!冷たい…っ!」

水が体に触れた瞬間、心臓が跳ね上がった。水の玉は既にお湯ではなく、氷のような異常な冷たさに変わっている。
温まっていた体を芯まで凍えさせてから、最後に花びらが舞い落ちて水は止まった。
バスタブに水が溜まり、冷たいという感覚を超えて痛みを感じる。私はさっき男の子が隠れていたバスタブの裏に倒れ込んで避難した。

「服、用意させるから早く出て来てね」

バスタブの裏を覗き込まれて、私は凍えた体を抱きながら頷いた。
バスルーム全体に万遍なく降ったように見えたのに、アンジェの体は不思議と濡れていなかった。
私はバスタブの縁に手をついて少し顔を出して、アンジェの背中を目で追う。


「……ノア。僕がいつ動いていいと言った」

ノア、それが男の子の名前らしい。倒れていた場所にいないと思ったら、水が降る前に洗面所に避難していたようだ。
アンジェの声を聞いて、慌ててバスルームに戻って来る。

「お前、耳を切られたいの?」
「ご、ごめ…ごめん…なさ…っ、寒いの苦手で…で、でも二度としない…から…それだけは…っ」

ノアが床に顔を擦り付けて許しを乞う。アンジェはそんなノアを見下ろし、床に垂れた右耳を掴み上げ、顔を起こさせる。
いつの間にか、もう片方の手にはハサミが握られていた。

「だ、駄目…!」

私がその場で声を上げただけで必死になって止めに入らなかったのは、こんなに謝っているんだからアンジェだって許すはず。私にそうであったように、本当に切ったりしない。
そう、頭のどこかで思っていたからかもしれない。

「……神に祈れよ。異端者め」

シャキン――
冷たく、少し鈍い音が響いた。


「っ!あぅぅ…っ」

ノアが耳を押さえて倒れ込む姿を、私は呆然と見つめた。
アンジェの手の中のハサミから、ポタポタと赤い水滴が落ちる。
それは、ノアの血だった。

「神を信じないからお前は救われないんだ」

アンジェは傷口を押さえているノアの手を踏みにじり、バスルームから出て行った。
最後に、これ以上ないと思うくらい冷たい声で、言葉を残して。


「う、あ…っ、いた…痛…い…っ」
「だっ、大丈夫…!?」

私はノアの悲痛な声で我に返る。裸だとかそんなことも今は忘れ、ノアの前にしゃがんだ。
切られたのは長く垂れた右耳の先の方。切断こそされていないものの、薄皮一枚で繋がっているような状態だった。
それなのに血はもう止まっている。魔法のような力を使うアンジェといい、この世界のうさぎの体はどうなっているんだろう。

「おい、13番!1分以内に服を着ろ!」
「あ……」

洗面所でエリオットが怒鳴っている。そういえば30分なんてとっくに過ぎていると思う。
ノアはエリオットの声で私よりも怯えて、ゆっくりと上半身を起こした。皮一枚で繋がった耳の先っぽが揺れる。重さに耐えきれずにプツンと千切れてしまいそうだ。早く縫わなくちゃ。

「……行って……」

か細い声。輝きのない濁った瞳で私を見ている。
私が手で体を隠し静かに立ち上がると、ノアの肩はビクッと大きく震え、顔を強張らせた。

私は、君を踏んだりしないよ。

「待ってて。手当てしてもらえるよう頼んでみるね」

バスルームを出るのは私も怖い。
ノアの肩に手を置き、自身を勇気付ける為にも精一杯微笑んだ。

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