創作夢
□ていうかあなた誰?
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夜十時、バイトを終えたら挨拶もそこそこに最短ルートで帰路につく。それが春から一人暮らしを始めた私の日常となっていた。
自分で生活費と学費を稼ぐために学校前の早朝と、放課後からバイトに明け暮れる毎日だ。当然自由な時間は少なく、やらなければならないことが常に山積みだった。
今日はコンビニに寄る時間さえ惜しく感じた。また夜ご飯がカップラーメンになるのかと思ったら多少は憂鬱な気分だったが、時短のためには仕方がないだろう。
とにかくわずかな時間のロスも惜しい。アパートが近くに見えると、歩きながら鍵を取り出して握り締めた。頭の中では家に帰ってからの行動を順序立てていく。
まず一番に洗濯機を回すでしょ。次にご飯を食べて、学校の課題と準備を終わらせて、洗濯物を取り込んで、干して、シャワーを浴びて……寝られるのは十二時過ぎくらいか。
明日も五時前には起きないといけないから十分な睡眠時間を取るのは難しそうだ。しかも明日は生憎のゴミの日だから、少し早めに家を出る必要がある。溜めてしまっているから明日こそは出さなければ。
考えている間にアパートに着いた。ポストを確認してから部屋へ向かうと、私の部屋の前に誰かが立っている。
黒いパーカーを着た見知らぬ男の子だ。寒いなか私を待っていたらしい彼は、小刻みに震えながら白い息を吐き、赤い頬にカイロを押し当てていた。こんな時間にお客さん……?
不審に思いながらも近寄っていけば彼が足音に気付いてこちらを見る。
「あっ! 天音さん、お帰りなさい。バイトお疲れ様です!」
俯いていた彼の表情はパッと明るくなる。ポケットにカイロを慌てて仕舞い、姿勢を正してからの第一声だった。
「……ど、どうも?」
白い歯を見せて笑う彼は私と同じ高校生くらいの歳に見える。第一印象はまずまずで、人当たりが良さそうな男の子だと思った。
「俺、肉じゃがを作ったんです。お口に合うといいんですけど……鍋にあるので温めて食べてくださいね」
「肉じゃが……?」
彼は太ももの上でなんだか指をもじもじさせているが、唐突な定番家庭料理の登場に疑問符が浮かぶ。
寒いなか、家の前で待っていた理由がそれ? 鍋はどこにあるのだろう?
見たところ彼は手ぶらに見える。足元にはゴミの詰まった袋が四袋も置いてあるけれど。
「そうそう……夕方から雨の予報だったので洗濯物を取り込んでおきましたよ。あと十五分程でお風呂も沸きます。ゆっくり浸かって体を温めてくださいね。それじゃあ俺はこれで失礼します」
彼は軽く頭を下げるとゴミ袋を持って立ち去ってしまった。
「い、今の誰……?」
玄関前に一人残された私はしばらく呆然と佇んだ後、鍵を開けた。
台所には肉じゃがの入った鍋と、味噌汁と炊きたてのご飯、「おかずが一品でごめんなさい。もっと料理の勉強をしますね」と書かれたメモが置いてあった。
洗濯物は丁寧にアイロンまでかけられて収納ボックスに仕舞われている。明日出す予定だったゴミも綺麗に消えていた。そして、彼の宣言通り十五分後にはお風呂が沸いて、久々に湯舟に浸かることが出来た。
何かがおかしい……そう思ったけど、私はとにかく時間に余裕がない。細かいことは気にせずに明日のバイトと学校に備えて眠りにつくことにした。
「天音さん、お帰りなさい。今日も遅くまでバイトお疲れ様です!」
「……ど、どうも」
翌日――玄関前にまた黒いパーカーの彼がいた。耳当てと手袋で防寒対策をしてきたようだけれど、鼻の頭がほんのり赤い。
私を見付けた彼は顔を綻ばせて、昨日とよく似たやりとりが始まった。
「今日はもうバイトの休憩時間にご飯を済ませたんですよね。代わりに朝ご飯を用意したので食べてくださいね。あぁ、それからシャンプーがなくなりそうでしたよ。俺が詰め替えておきました」
「え? まだシャンプーのストックあったっけ?」
「いえ。だから買ってきました」
目の前の彼が屈託なく笑う。さっぱりしたその笑顔を見ていると、ついつい友達と話しているような感覚で返事をしてしまう。
本当なら彼に聞くべきことはもっと他にあるのだろうけれど、疲れた頭では深く考えられない。それがさも自然なことであるかのように会話が成立していた。
「あ、シャンプーは……」
「わかっています。前まで使っていたシャンプーのボトルに今は違うシャンプーを入れてるんですよね? 今のシャンプーと同じ物を買ったので安心してください。それじゃあ俺はこれで失礼しますね!」
「あ、うん。色々ありがとね」
彼は昨日と同じように小さく頭を下げると背を向けた。そのままゆっくりと歩いていく後ろ姿を見届けず、私は部屋に入る。
何かがおかしい……それは確信へと変わり始めていた。だけど、私には時間がないのだ。面倒なことは考えないで今日も眠った。
▽
時刻は深夜一時過ぎ。バイト終わりにバイト仲間と寄り道したから普段よりずっと遅い時間になってしまった。学校にバイトに遊びにと盛り沢山でハードな一日になったが、たまにはこういう気分転換も必要だ。
しかし、精神的には楽しい気分でも肉体はついてこない。疲れ切ってふらつく足でなんとかアパートに辿り着いた。
ポストにハガキが一枚届いている。見覚えのない請求書だ。防犯カメラのレンタル会社からみたいだけど――
「……水原葵?」
よく見たら私宛ての手紙ではなかった。宛名も違うし、住所がお隣りの部屋番号になっている。長いこと空き家だったはずだけど、いつの間にか引っ越してきていたらしい。
隣人は名前からして女性だろうか。防犯カメラなんて物騒な。この辺は治安が良い方だからそこまで心配しなくていいのに、と思いながら隣のポストにハガキを入れ直した。
そのまま部屋に向かうと今日も彼がいた。
「あ……天音さん、お帰りなさい。遅かったですね。もう一時ですよ……」
「ご、ごめん……」
お馴染みのやりとりになるかと思ったら今日の彼は元気がない。私の帰りが遅いから心配していたのだろう。
昨日と一昨日は満面の笑みで迎えてくれた彼がこんな感じだと少し調子が狂う。何故彼に謝る必要があるのかわからないけれど、素直に申し訳ないような気持ちになった。
「女の子のお友達だけでカラオケ……きっといい息抜きになったと思います。でも天音さんは働き過ぎだから心配で……体を大事にしてくださいね」
「う、うん。ありがとう」
彼は優しげに笑って気遣ってくれている。親切で善良そうな人だけど、やはり何かが絶対におかしい。そう強く思っているにも関わらず普通に接してしまうのは、彼は昔馴染みなんじゃないかと錯覚するくらい、それはもう親しげに接してくるからだ。
「それともう一つ心配なことがあるんですよ。天音さんのバイト先に不審者情報のポスターが貼ってありました。ここ最近、近辺で怪しい男の目撃情報が多発してるみたいです。俺は怪しい男を見かけたことはないのですが……念のため注意してくださいね」
そういえば不審者の話はバイト仲間や店長も結構前から言っていたな。黒いフードを被った怪しい男が入店もしないで外からずっと店内の様子を窺っていることがあるって。
この辺の地域も意外と治安が悪いのかもしれない。私もお隣りさんみたいに防犯意識を持とうと考えながら、わかったと頷いた。
「それじゃあ俺はこれで失礼します。お風呂で疲れを癒して、出来るだけ早く体を休めてくださいね」
「あ、うん。帰り道気を付けて」
頭を下げて背中を向けた彼に何となく手まで振ってしまった。彼は後ろを見て立ち止まると笑顔で手を振り返す。
こちらが手を止めても彼は嬉しそうにぶんぶん手を振り続けている。一体いつまで続けるつもりなのか……。
よく考えたら時間がもったいないじゃないか。見切りをつけた私はさっさと鍵を開け、中に入ってドアを閉める。
すると、外から全く同じ流れの音が聞こえたような、聞こえなかったような……でも、私の口癖は"時間がない"だ。そんな些細な音を深く考えるはずもなかった。
「あーー…ねむ……」
温かなお湯に浸かりながら激しい眠気と戦っている。
口から漏れた独り言が反響する。その声すら今の私には子守唄のように思えた。
目の前が霞んで瞼が重くなっていく。ああ、もう目を開けていられない……。
「……さ……ん……っ、天音さん……! しっかりしてください!」
「……っ、ゴホッ! ケホケホ……ッ!」
ふと気付けば浴室内に彼がいた。ぐったりしている私の肩を支え、心配そうな表情を見せている。
そうか。お風呂で寝ちゃってたんだ。水を飲んでしまったようで喉が痛い。咳をして水を吐き出しながら呼吸を整える。
「やっぱり天音さんは働き過ぎなんです。俺が来なかったら死ぬところだったんですよ! 今日は土曜日で学校が休みだし、俺がバイト先に連絡しておくので家で安静にしてください! わかりましたね?」
少し怖い顔をした彼がぼんやりしている私に言い聞かせてくる。お風呂で溺れかけていた私を助けてくれた彼は命の恩人だ。このタイミングで駆け付けるって奇跡だな。
でも、でも、やっぱり何かがおかしい。私を心から心配して怒ってくれているらしい彼の顔を見ながら、この状況の異常さが急に怖くなってきた。
彼はどうして私の部屋の浴室にいるの?
肉じゃがも洗濯物もシャンプーの時も確かに鍵は掛けてあった。それに私がバイト先でご飯を食べたことや、女友達とカラオケに行ったことを知っている。
彼はそれら全てが当たり前のことのような態度で接してくるから、私もそういうもんかと思ってしまっていた。けど、間違いなく何かがおかしい……。
だって、私は未だに彼の名前すら知らないのだ。
End