創作夢

□09
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「お姉さん、ここおいで。髪乾かしてあげる」

 ソファーを背もたれにし、床に座っているしろの手にはドライヤー。開いた脚の間をポンポンと叩いて私を呼んでいる。

「時間ないのわかってる……よね?」
「あれあれ、なに警戒してるんですか? お姉さんがさっきのじゃ足りなかったっていうならお相手するけど?」
「っ! すぐ乾かしてね!」

 持っていたバスタオルを投げ捨ててしろの股の間で体育座りをすると「はーい」と機嫌の良さそうな声が返ってきた。
 鼻歌を歌いながら私の髪を乾かし始めたしろの方こそ、濡れてツンツンになった毛先から水が滴り落ちている。
 朝は時間がないから困るのにシャワーを一緒に浴びたいと駄々をこねられ、案の定しろの良いようにされてしまった。でも、丁寧に全身を洗われながらのエッチを思い出してドキドキしてしまう。

「お姉さんの髪サラサラー」
「そうかな? このトリートメントいいね」
「でしょ?」

 ドライヤーの風に吹かれて、新しくなったトリートメントの香りが広がる。
 元彼と住んでいた頃からシャンプーとトリートメントを変えていないことが気に入らないらしく、しろが美容院で買ってきたのだ。

「はい、終了。美容師のお兄さんみたいな仕上がり! 惚れるっしょ。俺と付き合う気になった?」
「つ、付き合わないってば!」
「えー」

 しろの告白はひとまず断っている。しろは高校生だし付き合えるわけがないんだから本当はもっとしっかり突き放すべきだ。
 わかっていてもしろとお別れすることになるのが寂しくて、九月に入ってからもこの同居生活は続いていた。
 変わったといえばしろがアルバイトを始めたことだ。うちへの居候料と引越し費用を稼ぐためだというけれど、しろの通っている高校は新学期が始まっているはずだ。

「しろ、早く準備しよう。バイト遅れるよ」
「はーい」

 ……このままじゃいけない、よね。





 しろも日中八時間のバイトに行っている身だから家事は分担制になった……といっても私がしていることといえば洗濯と休日に掃除機をかけていることくらい。
 今日のお風呂もしろがシャワーを浴びながら掃除をし、準備してくれたのだ。

 私がお風呂から出るとしろはソファーに座って爪を切っていた。元彼の服はもうないから、しろは自分で買った部屋着のTシャツとジャージを着ている。

 パチッ、パチッ

 しろの爪切りは丁寧だ。爪をまず切ってから十分な時間をかけてヤスリで整えている。
 色白だけど関節が太い男の子の指だ。毎晩、私はこの指に――

「……お姉さん見すぎ。待ちきれない?」
「っ!」
「お姉さんは気持ち良いところをー、こうやってされるの大好きだもんね?」

 しろは"こうやって"と、くの字に曲げた二本の指をまるであそこに入れている時のように動かしてみせる。
 このしなやかで繊細に動く指に内側を擦り上げられる心地良さを私の体は覚えてしまっている。意地悪な笑みとともに見せつけられる指の動きだけで私のそこは疼く。

「あははっ、想像しちゃった?」
「あ、あ……っ」
「お姉さん、可愛いー。もう少しだけ待ってね。お姉さんの体傷付けたくないからさ」

 恥ずかしくて私は口をぱくぱくさせることしかできない。

「しっ、しろー。しろー!」
「にゃー」

 空気を変えようともう一匹のしろの名前を呼ぶ。「なに?」と真横からの日本語の返事は無視し、鈴を鳴らして駆け寄ってきた小さなしろを抱き上げる。

 パチッ、パチッ

「しろー……」
「にゃあ」

 私は膝の上で丸まったしろの体に顔を埋める。しろの匂いは落ち着くし、大好き。
 元彼が家を出ていってから立ち直るまでのどん底だった日々……毎日玄関で出迎え、泣いている私に寄り添ってくれたしろにどれだけ救われたことか。
 実家の両親との連絡を断っている今となってはしろだけが私の家族だ。

「……あ。そういえばさ、夜に爪切るのはやめた方がいいよ。親の死に目に会えなくなるんだって」
「……知ってるよ。だから夜に切ってんの」

 パチッ、パチッ

 一瞬で空気が張り詰める。
 以前しろは家出をした理由は親とケンカをしたからだと言っていた。私だって同じようなものだけど、しろはまだ十七歳なのだ。このまま高校にも行かずに過ごすことを見過ごしていいとも思えない。

「しろ、どうして家に帰りたくないの? 何があったのか話してよ」
「やめて。あいつのことは考えたくないんだ」
「でも!」

 パチンッ

「お姉さん」
「ん……っ!」

 爪を切る音がやけに大きく響いて、口を塞がれる。下唇を食む柔らかい感触。すぐにしろの舌が入ってくる。
 私が黙ってしろを受け入れて目を閉じてしまうのはきっと、この目先の幸せが壊れてほしくないからだ。
 私はどうしようもなくしろに惹かれている。





「んー。コンプレッサーの故障だな。交換が必要だよ」
「あぁぁっ、やっぱり……」

 昨日から冷えなくなってしまった冷蔵庫を前にして私は膝から崩れ落ちる。
 私も事務員とはいえ電気屋で働いている身だ。何となくそんな気はしていたが、私より遥かに頼りになる同期の水谷くんからも宣告されたらもうおしまいだ……。

「この冷蔵庫型番が古いよな。中古で買ったの? 保証とかある?」
「ない……知人からの貰いものだから……」
「なら買い替えたほうがいいだろうな。これだけ古かったら部品交換してもすぐに他が悪くなるだろうし、かえって高くつくぞ」
「だよね……」

 ただでさえカツカツなのに冷蔵庫を買わなきゃいけないだなんて思いがけない出費だ。

 ……しかも、ポケットの中でスマホがずっと振動し続けている。
 藁にもすがる思いで水谷くんに頼り、仕事帰りにそのまま家に連れて来たのだ。「絶対に出てこないでね」と有無を言わさず寝室に押し込んだしろは相当お怒りだろう。
 冷蔵庫代とダブルで本当に泣けてくる。

「まあ、どんまい。元気出せよ。明日奢ってくれる約束だったランチさ、俺が奢るから」
「っ! い、いやいや!」
「何だよ水くさい。こんな時くらい遠慮すんなって。ランチ代出すよって俺が言っても毎回断るんだもんなぁ」
「ちょ、ちょっとあの!」

 玄関で靴を履きながら水谷くんが漏らした言葉に私は慌てふためく。すぐそこの寝室のドアの向こうにしろがいるのになんてこと。
 明日ランチに誘ったのは今日のお礼だ。嫉妬深いしろは怒るだろうから会社でこの話は済ませてきたっていうのに何で言っちゃうの! しかも他の同僚も一緒に行ったランチのことまで……!

 ブーッブーッブーッブ――

 鳴り続けていたスマホのバイブレーションが不気味に止んだ……次の瞬間、寝室からドンッと大きな音がした。

「うおっ!?」
「あーっあーっ、物が落ちたみたい! 全然大丈夫!……なんだけど片付けないといけないかも! 今日は本当にありがとね!」
「お、おう。お疲れ」

 水谷くんの背中をぐいぐい押して半ば追い出すような形でドアを閉め、鍵を掛ける。

「っ!」

 一息つく間もなく、寝室のドアから伸びてきた手に腕を掴まれて、そのまま室内に引きずり込まれた。


「あの男とどんな関係?」
「ど、同期の水谷くんだよ。しろにもたまに話してるでしょ」

 壁際まで追い詰められた私は、しろの圧に縮こまる。少し動けば唇が触れてしまいそうなほど近い距離にあるしろの顔は怒りで歪んでいた。

「頻繁にランチ行く関係性だとは聞いてないけど?」
「い、いや頻繁には行ってないし……」
「何回? いつ行ったの? 俺は一度も話聞いてないから俺と出会う前なんだよね?」
「え、えっと。一昨日行きました……」
「一昨日は仲の良いパートさんと行ったんじゃなかったの?」
「や、あの……」

 何で付き合ってもないのにこんな風に問い詰められなければならないのかと思う。
 けれど、私の両手首を壁に縫い止めている手は怒りにぶるぶる震えているし、私の頭の中を直接覗き込むような、しろの真っ黒な瞳孔が嘘やごまかしを許さない。
 正直に答える私の声はだんだん弱く、小さくなっていく。

「俺に嘘をついたってこと?」
「ご、ごめんなさい……水谷くんと、もう一人の男性社員も合わせて四人で行きました……」
「一昨日? それで明日は二人きりでランチ? 何度も何度もランチ奢ってもらって家にも上げる仲なんだね。それってただの同期って言える?」
「う、家に上げたのは冷蔵庫のために仕方なく……今まで水谷くんと二人でランチ行ったことないし、私だけ奢ってもらうなんて悪いから断ってるよ」
「ふぅん。つまりあの男は、他の社員もいるなかでお姉さんにだけ特別に奢るって提案してるわけだ?」
「や、そうではなくて……っ」

 ……まずい。墓穴を掘ってしまった。
 特別な意味なんてないのだ。一緒に行く相手は大体私達より一回り以上も年上で、男なんだから出してあげなよーと言うものだから、水谷くんも仕方なく「じゃあ奢るよ」となっているだけのことだ。

「明日行かないでね。昼休憩中ずっと電話繋いでよう。一応はお姉さんがお世話になってる人みたいだし、俺がお金出すから渡して。何かお礼はしないとまずいんでしょ」
「う、うん……」

 拘束を解いてもらえてホッとしたのもつかの間――

「で、冷蔵庫をくれたのはお姉さんの知り合い?」
「っ」

 台所での水谷くんとの会話も聞こえていたんだ。何も言わなくても私の強張った表情が答えになってしまったらしい。

「……引っ越すこと決定ね。明日仕事を休んで不動産屋に行こう。お姉さんは別れた後も元彼にマーキングされてる。だから俺はこんなにもお姉さんのことが大好きなのに彼氏にしてもらえなくてセフレ止まりなんでしょ……っ、この家にいる限りお姉さんは俺を見てくれない!」

 しろが今にも泣き出しそうな表情で悲痛な声を上げるから私の視界までぼやけてくる。

「ち、違うよ。しろとは年が離れてるから付き合うのが少し不安なだけ……セ、セフレとか思ってない。私だって引っ越したかった! 元彼のこと思い出す部屋に住んでるの辛かったよ! でも、"しろ"がいたの……! しろがいてくれたから私は……っ」

 なんだか自分が無性に情けなく思えてきて涙がぽろぽろこぼれ落ちる。
 リン、リン――
 遠くから鈴の音が近付いてきた。しゃがみこんだ私の足に温かくて柔らかい顔を擦りつけてくる"しろ"。
 泣かないで。元気出して。そう言ってくれているみたいだ。

「……ペット可で条件の良い物件はどこも高いの。慌てて引っ越しても毎月大変なのは変わらないよ。自分で引越し費用も家具も家電も新調できるくらいお金貯めて、家賃安いところを見付けたら引っ越すよ。ここは私の家だから引っ越すタイミングは私が決める。しろとのお付き合いは……ごめん。もう少しだけ考えさせてほしい」

 私が涙を拭ってしっかり気持ちを伝えることができたのは、白猫のしろのおかげ。

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