創作夢

□お薬の時間だよ
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「誰か! 誰か助けて!! 助けてよぉ……おねが……だからぁ……っ!!」

 私はガラガラの声を一層張り上げた。四肢はベッドに縛り付けられている。手足のベルトを何とかしようと身をよじるが無駄な抵抗だ。惨めにも自分で拭うこともできない涙と鼻水で顔面はぐちゃぐちゃになっていた。
 何時間叫び続けているのだろう。壁へと視線を向けると、液晶に大きなヒビの入ったデジタル時計は十四時前を示していた。もうじきまた、あの時間だ――

 廊下をスリッパでパタパタと叩く音が私の部屋の前で止まる。軽いノックの後、ドアは開かれた。

「ああっ、また綺麗な顔を汚して……」

 ノックの主は部屋に入るなり私の顔を覗き込んだ。私をベッドに拘束した犯人であるこの男は、私と同世代の二十半ばくらいだろか。慌てたように私の顔にタオルを押しつけてくる。

「やっ、やめて! あなた誰なの!?」
「僕は君の婚約者だよ?」

 男は唇の端を釣り上げて、もう何度耳にしたかわからない言葉を吐き捨てた。
――婚約者だって? 冗談じゃない。

「馬鹿言わないでよ! あなたなんて知らない! 私の家族をどこへやったの!?」
「…………」

 不快な手から逃れるため、必死で顔を背けながら男をキッと睨みつける。男は手を止めて眩しそうに窓へと視線を向けた。
 レースのカーテン越しに穏やかな日の光を感じる。窓ガラスを一枚隔てた先には、平和な日常が広がっているのだろう。聞こえてくるのは鳥のさえずりに、近所の子供達の声に、電車が通る音。今の私にはそれら全てが遠い世界のことのように思えた。
 いつからだったか、何がきっかけだったのか、何も思い出せないけれど。両親と弟の四人で暮らしていた自宅の、自室のベッドに、私だけが縛り付けられ監禁されている。

「……家族と会いたい?」
「当たり前でしょ!」
「いいんだよ。家族のことはもう考えなくて。悲しくなるだけだ」
「っ、いやぁ!! 私の家族はどこ!? 殺したの!? 許せない、許せない!!」

 私がこいつを殺してやる――必死で暴れてもスプリングがギ、ギ、と虚しく音を立てるだけで、脇に立つ男に少しも届かない。無力な自分が悔しくて、視界はまた滲んでいた。

 家の中は荒れていて、以前の面影はない。壁には何箇所も大きな穴が開いており、みんなでこだわって選んだ家具はどれも傷だらけ。私の部屋のテレビも画面がバキバキに割れていて電源がつかなくなっていた。全てこの男の仕業だ。
 私は男を罵倒しながら、あざだらけの肌にベルトが食い込むのも構わず抵抗を続けた。何を考えているのか、男は顔を覆い、喉をくつくつと鳴らしている。やがて不気味に充血した目を露わにして口を開く。

「お薬の時間だよ」
「っ!」

 男の唇が歪に弧を描いている。手には注射器。私は監禁されてから毎日三回、決まった時間に怪しい薬を注射されている。あれを打たれると急に思考にもやがかかり、何も考えられなくなって、私が私でなくなっていくのを感じるのだ。
 嫌だ、嫌だ。怯えて首を振っても、細い針が体を蝕んでいくのを止められなかった。


 聞き慣れたインターホンの音がした。続いてドアが静かに閉められる。薄っすらと目を開けると、カーテンの隙間から西日が差し込んでいた。
 そんなに長い時間眠っていたわけではないようだ。腫れたまぶたを指で擦って、気付く。体が拘束されていない……!!
 慌てて廊下へ出て、階段を駆け下りる。勝手知ったる我が家だ。階段を下りてすぐ目の前にある玄関のドアから迷わず外に出た。
 門扉の前に、男と、先程インターホンを鳴らした主らしき男性の姿があった。顔見知りの隣人だ。

「たっ、助けてください! 私、この男に閉じ込められてるんです!!」

 家の前の道路では近所に住む主婦数人が立ち話をしていたらしく、全員の視線が私に向けられた。しかし、真っ先に近付いてきた男に口を塞がれて羽交い締めにされる。

「んーっ、ん――!!」
「うるさくしてすみません。気を付けます」

 隣人は「頼むよ」と言い残し、私から背を向ける。外の主婦達も何事もなかったかのように会話を再開したようだった。誰もこちらに駆け寄ろうとする素振りはない。
 明らかに異常だってわかるでしょ? 警察を呼んでくれるんだよね? すぐに助けが来るって信じていいよね……?

――日が暮れてから随分経っても助けは来なかった。私は抵抗虚しく定位置のベッドに戻され、縛り付けられている。
 そしてまた、血走った目で男は言う。
「お薬の時間だよ」





「……ごめん。また怪我させちゃったね」

 薬が効いて落ち着きを取り戻した彼女が穏やかに、寂しそうに、包帯を巻いた僕の腕を撫でる。夕方、逃げ出そうとした彼女を再び拘束するのに手こずってできた傷だ。
 でも、彼女の細い手首や足首の痛々しい傷跡に比べたらこれくらいどうってことない。

「僕は大丈夫だよ。それより君が無事でよかった。ごめんね。僕が不用心に君から離れたせいで危ない目にあわせるところだった」
「ううん。謝らないで。私の体、また縛ってね。きっとすぐに暴れちゃうから」
「うん……」

 彼女は体から薬が抜けると酷い錯乱状態になる。強い幻覚を見て、自分にも他人にも見境なく危害を加えるようになってしまうのだ。その状態の時の彼女は長年交際関係にある僕や、友人のこともすっかり忘れている。
 彼女が彼女でなくなってしまわないように。八時、十四時、二十時の計三回。処方された薬を欠かせないが、最近どうにも薬が効く時間が短くなってきていた。
 昼夜問わず泣き叫ぶことが増えたため、ついにお隣さんも苦情を言いに来た。お隣さんは事情を知っているからある程度は理解を示してくれているが、このままというわけにもいかないだろう。

「ごめんね。今後は手足だけじゃなくて口も塞ぐことになると思う」
「うん。その方が安心。私ね、あなたを傷付ける言葉を吐くことが何より怖いの。ほら、目真っ赤……泣かせてばっかりでごめんね」
「……平気だよ。君の方が僕の百倍泣いてるだろ」

 彼女の家族はもうこの世にいない。家族四人で乗っていた車が事故にあって、彼女だけが生き残ったのだ。お出かけを提案したのは自分だった、みんなを殺してしまったと悔やみ、自分を責め続けた彼女の心はボロボロになってしまった。
 彼女との親交が深かった人ほど記憶から抜け落ちてしまうのは、もう大切な人を失いたくないという彼女なりの自己防衛の結果なのだろうと医師は言う。

「それに、君は昔から割と手のかかる彼女だったろ? まぁ、そんなところもふくめて好きだけどね」
「うん。私も好き。大好き……」
「……ありがとう」

 いっそのこと彼女と一緒に狂えたら幸せかもしれないと何度も思った。
 それでも僕は、病気を克服した君との幸せな未来を諦めきれない。どれだけ拒絶されても、人殺しだと罵られても、僕を好きだというその一言でまた少し頑張れる。


――お願い! 誰か私を助けてよ!
――ねぇ、本当は聞こえてるんでしょ!? あんた達が男とグルだってこと、わかってるんだからね!!

 朝食の準備をしていると、二階から彼女の叫び声が聞こえてきた。タオルを噛ませておいたのだが、外れてしまったのだろう。丁度いい。八時だ。

「ひっ……い、嫌……嫌……」

 彼女の目に僕はどう映っているのだろうか。目の前に化け物でも現れたかのように目を見開き、引き攣った表情で首を振る彼女は全身で僕を拒絶していた。
 何度だって心は抉られるが、涙をぐっとこらえて、注射の用意をする。
 そうして、できるだけ怖がらせないように、注射に不慣れな僕の緊張が伝わらないように、不格好な笑みを添えて。お決まりの言葉を口にする。

「お薬の時間だよ」

End
 

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