創作夢

□わたしだけが知っている
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 街外れの森の湖には、何千年も生きる竜が住んでいるという言い伝えがあった。
 恐ろしき竜は、その翼で街一つを飲み込む竜巻を起こし、その口で森の木々全てを焼き尽くす炎を吐き、その美しき碧い目を見た者の体を石へと変えるという――


 穏やかな風で揺らめく湖は青く透き通っていた。太陽の光を反射して水面がキラキラと輝く様は絶景だけれど、街の人は気味悪がって誰も近寄らない。
 私が湖畔の定位置に立つと、人一人が通れるだけの細い道が水面を切り裂くように現れた。道の先、丁度湖の中央にあたる場所には、先程まで目に見えなかった洞窟がぽっかり口を開けて待ち構えている。道は洞窟の中まで続いている。


「ハクア!」

 洞窟の最奥は地面がしっかりとしていて、お城のダンスホールのように天井が高い。
 そこに伏せている彼の姿が見えるとすぐさま駆けていって、両手を広げても抱えきれない大きな頭へと抱きついた。しっかりと閉じられた両の目に向かって話しかける。

「今日はお土産を持ってきたの」
「ああ……」

 大地を震わすような低い声が返ってくる。ハクアは、私が住む街に古くから伝わる恐ろしい竜の正体だ。
 全身が白く、硬いうろこのような皮膚で覆われており、背中には尖った岩のような皮膚がボコボコと隆起している。常に翼と尾を丸めているから全長はわからないけれど、二十メートルは優に超えているだろう。

「あなたの体じゃ少し足りないかもしれないけれど、味は気に入ってもらえると思う!」
「……わかったから耳元で騒がないでくれ」

 ハクアが喋る度に私のすぐ近くで開閉される口からは、ゾッとするような鋭い牙が覗く。この大きな顎で噛まれれば人間の体などひとたまりもないだろう。
 だから、ハクアが住む湖に近付いてはならないときつく言われて育ってきた。
 それでも私は幼い頃に湖に来て、溺れたところをハクアに助けられている。それからずっとこの不思議な逢瀬は続いていた。

「火を出して。甘いマシュマロをたくさんもらったの。ビスケットにはさんで食べると美味しいんですって」
「ああ」

 ハクアがフーと囁き程度の息を吐くと地面の窪みに火が燃え上がる。
 強すぎず弱すぎない丁度良い大きさの火でマシュマロをさっと炙って用を済ませれば、ハクアが今度は翼をゆっくり動かす。すると、炎はたちまち消火された。

 この地に古くから浸透しているハクアの伝説は恐らく正しいのだ。ハクアは森を燃やし尽くす炎を吐き、街を飲み込む風を起こすことができるのだろう。
 けれどハクアは恐ろしき竜などではない。洞窟の奥でひっそりと暮らしている心優しき竜だ。彼が火や風を起こすのは私にせがまれた時のみ。ちょっとした料理の際と、冬には暖を、夏には涼を取るためだけだった。

 分厚く、赤黒い舌の上に乗せた小さなビスケットをハクアは一飲みにする。美味しいかと聞いても答えないけれど、一つ食べる毎に舌なめずりをしているからお気に召したのだろう。ここまで持ってきた甲斐があった。
 口とは対象的に固く閉ざされたままのハクアの目元を私は覗き込む。

「今日も見せてくれないの? その目、宝石みたいに綺麗なんでしょう?」
「ああ」

 いつもこうだ。ハクアは私の前で決して目を開けない。

「私、もうじき十六になるのよ」
「……もうそんな齢になるんだな」

 縋るように頬を擦り寄せても、ハクアはピクリとまぶたを震わせるだけだった。





 私が住む小さな街では、女は十六歳になると街の外へ嫁に行くしきたりがある。みな、物心つく前に家同士が取り決めた許嫁の元に嫁いでいくのだ。
 私もまた例外ではなかった。明日は、私の十六回目の誕生日だ――


「ねぇ、お願い。目を開けてってば。私、とっても綺麗なお洋服を着ているのよ」
「…………」

 伝統的な刺繍が施された純白のワンピースに、色とりどりの花を編んで作った髪飾り。誕生日当日の早朝に街を発つ花嫁が身にまとう特別な衣装だ。
 近所に住んでいたお姉さん達の門出を何度も見送ってきたが、ついに明日は自分の番なのだ。せっかくだからと、こっそりこの服を着て会いに来たというのにハクアは私の晴れ姿を見ようともしない。

「強情ね」
「強情なのは君の方だ」
「少しくらい見てくれたっていいでしょ?」

 両手を広げ、くるくる回って見せればスカートの裾が柔らかく広がり、髪飾りの花の香りが私達の周囲を満たす。
 それでもハクアは微動だにしない。なんだかがっかりしながら、硬い皮膚でできたまぶたにそっと唇を当てた。

「ハクアの目、最後に見せてよ」
「君はきっとがっかりする」
「そんなことない。綺麗に決まってるもの。お願い」
「…………」

 長い沈黙の後。わかったと頷いて、ハクアはゆっくりと目を開いていく。
 やっと、やっとだ。待ち望んでいた瞬間が来る。私は真正面の特等席でその双眸を祈りながら見上げた。
 白いまぶたの隙間から輝くような碧色が見えて、縦長の瞳孔がこちらを捉えている。もう何年も前から顔を合わせているが、初めて見たハクアの目は言葉を失うほど美しい。
 湖の色をそのまま映したような色にしばらく見惚れてから、不自由なく動く自らの体に気付かされる。

「……そう。あの言い伝えは正しくなかったのね」

 湖に住む竜の目は、見た者の体を石へと変える――幼い頃から聞いてきた伝承の真実を今、この目で確かめたのだ。

「まるで世界の終わりだとでも言いたげな顔だ。花嫁というのはもっと幸せそうな顔をしているものかと思っていた」
「失礼ね。花嫁なんて大体こんな顔をしているものよ」
「そうか。人の子は変わってるな」

 世界の終わり、か。あんまりな第一声だが、あながち間違いでもないと思った。

「ハクア、あなたと目を合わせても石にならないなら、どうしてずっと目を開けることを拒んでいたの?」
「……目を開けたら君はもう来なくなるんじゃないかと思ったから」

――ああ、気付いていたのね。私があなたに殺してもらいたくて会いに来てたこと。


「残念。石膏像になってあの男の屋敷に並んでやりたかったのに」

 自嘲気味に笑えば、ハクアの切れ長の眼が悲しそうに細められる。

 私の許嫁の男は大層裕福で家柄も良いそうだが、二十も年上だ。幼い頃に一度だけ会った際、使用人を物みたいに扱って折檻しているところを見てしまった。
 今まで見送ってきた花嫁達も誰一人として心からの笑顔なんて見せていなかった。みな、等しく不幸だった。
 自分も同じ道を辿るのだと、私は幼いながらも絶望していた。だからハクアが住むという湖に近付き、身を投げたのだ。

「みんな嘘ばっかり。恐ろしい竜なんてどこにもいないじゃない……っ」
「……天音……」

 湖には、残酷なくらい優しい竜しか住んでいなかった。
 涙がぽたぽたこぼれて地面を濡らしていく。ハクアはめったに動かすことのない前足を私に近付けようとして、頬に爪が触れる前に足を下ろした。

 ハクアは私に触れてこない。鋭い鉤爪はひと撫でするだけで私の薄い皮膚を切り裂いてしまうから、研がれた爪と、綺麗な瞳をいつも隠して洞窟の奥で待っている。
 私はわがまま放題で騒がしい。洞窟の中に迎え入れない選択だってできるのにハクアがそうしないのは、私にもう二度と自ら命を絶とうと考えさせないためだろう。

「天音とここで無為に過ごす時間はかけがえのないものだった。君は愛らしい。愛おしいんだ。すごくすごく……天音なら必ず幸せな花嫁になれる」
「……そうかな」
「ああ。君を愛さない男なんているものか」

 絞り出すような声だった。ハクアの顔は人の作りとは違っていて感情が読み取りにくいけれど、その瞳には深い悲しみと愛情が滲んでいた。これまでずっと目を伏せながら、私を強く思ってくれていたのだろうか。

「最後に一つ、わがままを叶えて。他の男のものになる前に、私の体に触れてほしいの」

 ハクアが私の幸せを望んでくれるというのなら、私はもう湖に身を投げたりしない。明日の朝には精一杯の笑顔で街のみんなに手を振るから。
 せめて今夜だけはハクアを感じてみたい。ハクアに素直に恋をしていたい。

「……できない。君はやわくて、ちっぽけだ」
「ううん。ハクアにならいいの。どれだけ酷くされても。傷をつけられても」

 ハクアの顔に抱きついて、体温の低い肌に頬を当てる。ハクアにわがままを言う時のくせだ。碧色の目がすぐそばで揺れていることだけがいつもと違う。

「天音、本当に……?」
「うん……」

 私はハクアの顔を開放し、目を閉じて人間とは違うゴツゴツとした口の先端に自らの小さな唇を落とした。


「見様見真似だけど、」
「……!?」

 唇を離すのと同時に聞き慣れない高い声が耳に入ってきた。気付けば目の前に男の子が立っている。
 銀色の髪に、湖と同じ色の瞳。端正な顔立ちをしている、年の近そうな少年だった。彼は切れ長の瞳で穏やかに微笑んだ。

「どう? この姿は長くは保たない。でも、天音にぴったりの姿だろう?」

 彼――ハクアは、私のワンピースに似合う白い衣装に身を包んでいる。透き通るような白い肌の一部には薄いうろこのようなものが微かに残っていて、竜の姿を思い起こされる。

「……私のお婿さん、ハクアだったらよかったのに」
「うん。僕はどうして人の子に生まれてこなかったんだろう」

 自然と指を絡ませるように手を繋ぎ、お互いの額を擦り合わせる。鋭い爪もなければ、硬いうろこにも覆われていない柔い肌だ。
 触れ合っている手と額を通してハクアの体温が伝わってくる。彼の体の内側が本当はこんなにもあたたかいこと、気付けてよかった。この温もりを私は一生忘れないだろう。


 天井の岩と岩の隙間からわずかに朝日が差してきて目が覚めると、ハクアは白い竜の姿にもどっていた。横たわる私の体を翼ですっぽりと包み込んでくれていたおかげで凍えることはなかった。
 夢みたいな時間だったけれど、もう行かなくちゃ。出発の予定時間に花嫁がいなかったら大騒ぎになってしまう。
 手早く身だしなみを整えるとハクアの顔に抱きついた。いつものように、しかし、これが最後のハグだ。

「ハクア、さようなら」
「ああ。幸せになってくれ」

 碧い瞳が光を反射して煌めいている。ハクアが目を閉じると、まぶたの隙間から涙が一滴こぼれ落ちた。
 透明な雫はハクアの頬を伝う間にサファイアのような美しい石へと姿を変えていく。その輝きに吸い寄せられて伸ばした私の手の平の上に、ハクアの涙の結晶は落ちてきた。

「綺麗……湖に住む竜の涙は宝石になるのね。知らなかったわ」
「僕も、知らなかった」
「……これ、もらってもいい?」

 静かに頷いたハクアにありがとうと言い残して、私は出口へと向かった。
 手には、何千年も生きてきた竜が初めて流した涙を握りしめて。





 結婚生活は想像の何倍も地獄だった。夫は最初から私に見向きもしなかったし、私も二十も上の夫を愛すことはできなかった。
 結婚から半年が経ち、夜の誘いを断った罰として私はしばらく外に出ることを禁じられている。屋敷の敷地内にある使われていない塔の一室が、今は私の部屋だ。
 部屋には時間を潰せるものも、明かりもない。私は冷たい床に座りながら首からぶら下げたハクアの涙をぎゅっと握る。

「……ハクア。ハクア。あなたに会いたい」

 私はこうして毎日、ハクアに話しかけるのだ。こらえきれず流れた涙がハクアの涙の結晶に落ちた時、真っ暗だった部屋が急にパッと明るくなった。
 光源は外からのようだが、夜も遅いのに変だ。唯一の窓から何気なく外へと視線を向けた私は、言葉を失った。

「っ!!」

 夫のいる屋敷が、近くの建物が、いや、恐らく街全体が燃えているのだ。見晴らしの良い塔の上から見える景色の全てが火の海に包まれていた。
 何が起こっているというのだろう。呆然と立ちすくんでいると、轟音と同時に塔が激しく揺れる。激しい風の渦が、夫のいるはずの隣の屋敷を飲み込んだのだ。
 急に現れた竜巻は塔から遠ざかるように街の方向へ進路を変えた。周囲の建物を破壊しながら大きくなっていく竜巻の中から、翼の影を一瞬捉えたような気がして、

「ハク、ア……?」
「ああ。お待たせ天音」

 私が呟いた瞬間。ひらりと窓から少年が降り立った。白銀の髪に、碧眼の少年、人間の姿をしたハクアだった。

「ハ、ハクア……本当にハクアなのね。あなたに会いたかったの……!」
「僕もだよ。迎えに来るのが遅くなってごめん。人の子は人の元で生きるのが幸せだろうと思った僕が愚かだったんだ。許してくれ」

 半年間、ハクアを忘れられず焦がれていた。窓の外で起こっていることなど頭からすっかり抜け落ちてしまって、彼の胸に夢中で抱きついていた。
 どちらからともなく唇を合わせれば、最後の夜の一時が蘇って幸せが心を満たす。
 何度も角度を変えて口付けを交わしていたら、遠くから私を呼ぶ声がした。

 今まで聞いたことのない切羽詰まった夫の声だ。生きていたのね。そして非常事態に塔で一人の私を助けに来てくれた。
 背後で部屋のドアが開く音がして、思考が現実に戻ってくる。反射的に目を開ければ眼前には美しい碧の瞳が広がっていた。
 でも、その瞳が愛おしそうに微笑んで、すぐに視界は真っ暗になった。

「お前達なに、を、して……っ!!」

 ハクアの手の平が私の両目を覆っている。夫の途切れた声を背中で聞いたけれど、深くなる口付けに思考は再び奪われていた。
 やっと我に返った時には背後に夫の姿はどこにもなかった。あるのは苦悶の表情を称えた石の像だけだ。
 なんだ、言い伝えは本当だったのか。あの湖に恐ろしい竜はいたんだと、どこか他人事のように思った。

「どこに行こうか?天音が望む場所ならどこだって連れて行ってあげる」
「……私、いろんな街を見てみたい!」
「ああ。さあ、乗って」

 窓から飛び降りたハクアの体は元の竜の姿へと戻り、窓枠に背中を寄せてくれている。
 外が真っ赤で、明るく照らしてくれているおかげで、私は臆することなくその大きな背中に飛び込むことができた。
 ハクアの背中は硬く冷たいけれど、周囲の空気はとてもあたたかった。


End
 

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