創作夢
□救済の手は罪に染まっている
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「ただいまー…」
閉ざされていた鍵が開く。玄関から少しかすれた男の声が聞こえ、次に荷物を置く音、そしてこちらに近付いてくる足音。明かりのない部屋の片隅で、夢うつつだった意識が現実に戻ってくる。
私がベッドに潜り込んだのと同時に室内にパッと光が差した。そろそろ男が帰ってくる頃かと電気を消していたせいで目がくらむ。
とっさに漏れた「眩しい」という声で寝たふりをする計画は簡単に崩れてしまった。
「ごめんね。起こしちゃった? 洋服と、時間をつぶせそうな物いろいろ買ってきたよ」
きっと慌ててベッドに入った物音は聞かれているだろう。それを気づかないふりする男の声は弾んでいた。
口元まで被った布団に縋りながら部屋に入ってきた男の様子を目で追う。男は購入品と見られるショップ袋を床に置き、テーブルの上の食器に目をやると、ぽつりと一言こぼす。
「……ん、残してるね」
男の声音が暗くなったのがわかった。その端正な横顔にどこか影がかかったような気がする。
私は男が朝出掛ける前に作った料理に一口しか手を付けなかったのだ。沈んだ表情をした男からの視線を感じ、跳ね上がる心臓。そのまま近付いてきた男の大きな手の平が私の顔に向かって伸びる。
ご飯を残したこと、咎められる! 許して。食べようとしたの。本当だよ。お願い。殴らないで――!
「ごめんなさ――」
「すごいよ! 少し食べられたんだね。うん、よかったぁ。えらい、えらい!」
「あ……」
男の手が私の頭を往復する。宝物に触れるような、幼い子供をあやすような、優しい手だった。顔を庇おうと持ってきていた両手を下ろせば、蛍光灯を背にして微笑んでいる男と目が合う。破裂しそうだった心臓が落ち着きを取り戻していく。
殴られない――そうか、殴らないんだ彼は。
男の部屋に連れ去られたのは三日前のことだった。男は私の通う塾で講師のアルバイトをしている大学生だ。
私はこの三日間、少しも勉強をしていないし、ご飯もボロボロとこぼして上手に食べられていないし、言葉遣いも丁寧ではない。
"良い子"にはほど遠い姿だった。それでも彼は私を"悪い子"だと言って声を荒げることも、手を上げることもしない。
「決まった時間に起きられてすごいね」
「歯磨きしっかりできて良い子だね」
「脱いだ洋服たたんでおいてくれたの? ありがとう」
「髪の毛乾かしてから寝るのえらいね」
現実から目をそらすように寝てばかりいる私が、その日にした何でもないことをただただ褒めてくれるだけだった。
「気付いてる? 玄関の鍵はもう内側から開くようにしてあるんだ」
「え……?」
男の家に連れて来られた日、どれだけドアノブを回しても玄関の扉は開かなかった。窓にも鉄格子が取り付けられており、この家から出る術がないから大人しく男の帰りを待っていた。ここにいるしかないと思ったからそうしていた。
だけど、鍵が開いているのなら出て行ける。自分の家に帰らなくちゃ。
だって、だって、良い子ならそうするはずだから――
「……大丈夫。また鍵を取り付けるから玄関は開かないよ。君はわるいわるーい俺にさらわれちゃった囚われのお姫様だ。可哀想に。もしも逃げようとしたら俺に酷いことをされるかもしれない……だから君は王子様が迎えに来るまでここにいなくちゃいけないんだよ。怖いねぇ」
男は目を細め、私の髪を撫でながら話す。
「……こ、わいからここにいる」
「うん。えらい、えらい」
男はふわりと笑って、私の頬を伝っていく涙を拭った。
きっと王子様はこんな風に優しく触れてくれない。愛おしいとこんなにも目で訴えかけてくれることもない。
――ああ、助けなんて来なければいいのに。彼の手の温もりを感じながら、切に願った。
End