創作夢

□手の届かない場所
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 仕事終わりに近くの廃ビルに立ち寄るのは私の日課になっていた。今日は残業をしたせいですっかり日が落ちてしまっている。
 自らが犯したミスを処理するための残業だ。残業時間に伴う給与が出ないのも仕方がないのかもしれない。しかし、指導とは名ばかりのほとんど暴言と言ってもいい叱責をされたことには納得がいかなかった。

 今日あった出来事を思い返しながら長い階段を上っていく。大嫌いな人達の顔が次々と脳裏に浮かんで怒りがこみ上げるが、結局最後は不甲斐ない自分自身が悪いという結論に辿り着いて思考は停止する。
 屋上のドアを開けると、馴染みの先客が私に視線を向けた。

「お姉さん遅かったね。残業?」
「うん、」

 馬鹿な私がミスをしたから――そう続けようとした言葉を飲み込む。私と彼との間柄で不必要な情報だと思ったからだ。

 毎日このビルの屋上で顔を合わせる彼は、すぐそばの有名な進学校の生徒だ。崩すことなく着こなしている制服は泥や砂で汚れていて、顔や手にはかすり傷が多い。今日も頬に真新しい傷が増えているから、怪我をしていない私の体まで痛むような気がした。
 特に待ち合わせをしているわけではないが平日の仕事終わりに来ると彼はいつも柵に手を付き、眼下の景色を眺めている。

 彼のことは名前も知らない。唯一知っているのは通っている高校の情報だけだった。
 受験生であった頃の私が彼と同じ高校を目指すなんて言い出そうものなら「ふざけるんじゃない。真剣に進路を考えろ」と叱られるだろう。それくらい飛び抜けて偏差値が高い進学校だ。
 彼とはこれまで歩んできた道も時間も大きく違うだろうが、この屋上に来る目的だけは同じだった。今日も一日たくさん痛い思いをしたから、救いを求めている。

「お姉さんはさ、なんで飛びたいの?」
「自分の部屋や満員電車なんて見飽きてるもの。最後の瞬間くらい特別な景色が見てみたいじゃない」
「僕も同感……」

 屋上の柵に身を乗り出しながら眼下を見下ろす少年が小さく同意をする。視線の先にはアスファルトが広がっていた。10階立てのビルの屋上から飛び降りて、あの固い地面に叩きつけられたらひとたまりもないだろう。
 彼とは仕事の話も学校の話も家族の話もしたことがない。話すのはここから飛び降りた後の未来について。地面に落ちたその先はあるのだろうかと、まだ見ぬ場所に思いを馳せる時間は心地の良いものだった。


「あ……あ……あぁぁっ」

 屋上のドアに新しい鍵がつけられて、侵入禁止の貼り紙に追い返された日――
 いつも上から見下ろしていた真っ黒なアスファルトに赤い染みがあった。
 目に入った瞬間、私はその場に崩れ落ちて咽び泣いていた。毎日顔を合わせていた少年が、私のまだ知らない特別な景色を見て、手の届かないずっと遠くに行ってしまったのだと悟る。
 一番最初に屋上に来た目的は彼と同じだったのに、私の目的はとっくに変わってしまっている。私は明日を、今日を生きていくために彼と話をしに来ていたのだ。
 毎日顔を出す彼もまた同じ気持ちのはずだと信じていたから、涙が止まらない。

「……お姉さん。そんなに泣いたら涙で染みが流れちゃうよ。きっと明日には消されるんだろうけど、これは誰かが次の場所に行けた証なんだから。よくがんばったねって僕らだけは言ってあげなくちゃ」

 地面に額をこすりつけて泣きじゃくる私の隣に、いつの間にか少年が立っていた。目を引く進学校の制服はいつも通り汚れていて、白い肌には見慣れないあざがある。

「お姉さん、また残業だったの?」
「うん……ミスしたの。私、馬鹿だから」
「そっか。僕も殴られたよ。弱虫だから」
「っ」

 とっさに名前を呼ぼうとして、彼の名前をまだ知らないことを思い出した。
 私は彼のことをまだ何も知らない……だけど、「本当にさ、来るの遅いんだよ」そう言って微笑んだ彼の目は赤く腫れていたから。彼が毎日屋上に来ていた理由だけは私も知っている確かなことだった。

End
 

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