創作夢

□君は知らなくていい
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――塾の帰り道。友達と寄り道をして帰りが遅くなった私は、普段なら避ける道を選んでいた。
 ちょっとした林と林に挟まれたこの道は外灯が一つもなく、陽が落ちると真っ暗になってしまう。だから少し気にし過ぎているのだろうか。さっきまで距離を開けて後ろを歩いていた人が、私を追って足を早めているように思うのは……。

 昼間なら見向きもしない"痴漢に注意"という看板が不安を煽る。自意識過剰な勘違いだと思いたい。私がそうであるように後ろの人も早く家に帰りたくて急いでいるだけかもしれない。いっそのこと追い抜いてもらおうと、私は思い切って足を止めた。
 すると、私のものではない後ろの足音もピタリと止んだ。誰かに付けられている……不安は確信へと変わり、私は走り出した。
 それを合図に後ろから私を追う足音が夜道に響き渡る。恐怖で声を上げることも出来ず、ただただ必死で走った。後ろの人の方が遥かに足が早い。確実に縮まっていく距離。もっと早く、早く。追いつかれてしまう。

「や――っ!」

 真後ろに気配がして、大きな手に視界を奪われる。次に口を塞がれ、羽交い締めにされた。
 怖い、怖い。誰か助けて…!声にならない私の叫びは、誰にも届かなかった。


二日後――

「都さん、お願いがあるんだけど……」
「ん、なあに?何でも言って。あ、ただしお小遣いアップの相談だけは聞けないなあ」

 塾を辞めさせてほしい。それがお願いだったが、私を塾に通わせたのはお父さんだし辞めるには相応の理由が必要だ。塾のレベルについていけなくなったとか、塾の友達と仲違いして通いづらいとか、適当な嘘を言ったところでサボりたいだけと思われて聞き入れてもらえないだろう。
 家族なんだから本当の理由を話せばきっと親身になって相談に乗ってくれる。そんなことはわかっていたけれど。

「……ごめん!やっぱりいいや」
「あっ、天音ちゃん!?」

 茶目っ気のある笑みを浮かべる都(みやこ)さんに背を向けて、自分の部屋に駆けこんだ。ドアにもたれてズルズルとしゃがみこむ。
 明日は月曜日だ。今日言わなければ明日からも塾に行かないといけなくなるのにまた言い出せなかった。

 半年前に私の義理の母となった都さんはとても気さくな良い人だったから打ち解けるのに時間は掛からなかった。お父さんが単身赴任で離れて暮らすようになってからも私達は上手くやれていた。
 ただ、高校生の私が父の後妻をお母さんとして受け入れることは難しい。女友達のように親しくはなれたけど、まだ本当の意味で家族にはなれていない。友達にも相談出来ない話を都さんに話せるわけがなかった。

「天音、リンゴ食べる?」

 座ったままぼんやりとしていたら背にしていたドアが揺れる。控えめなノックと、遠慮しているような小さい声……都さんと共に家族になった一歳歳上の義理の兄、優月(ゆづき)くんだ。
 後でリンゴを食べようねって都さんと話していたんだった。でも、今このタイミングでリビングに行けばさっきのお願いの件を聞かれることは目に見えていた。
 私は音を立てずにドアから離れ、勉強椅子に座ってから今は勉強中だからいいと伝える。貰い物のすごく美味しいお高いリンゴだそうだから惜しい気持ちもあったけれど。

 少しして、またノックの音が響いた。

「勉強しながらでも食べられるように天音の分持ってきたよ。ドアを開けてもいい?」
「え、と……う、うん。ありがとう」

 本当は都さんにさっきの話をぶり返されるよりも、優月くんと二人きりで顔を合わせることの方がずっと気まずいのだが高級リンゴの誘惑には勝てなかった。

「あれ、勉強は終わったの?」
「あっ!い、今終わったとこ!」
「そっか。家でも勉強なんて偉いね」
「あはは……」

 問題集やノート、筆記用具を広げた形跡が微塵もない綺麗な机の上にリンゴの乗ったお皿を置いて、優月くんが小さく笑う。
 私は思わず苦笑してしまう。勉強していなかったこと、気付かれてるんだろうな。

 会話が途切れた部屋には気まずい沈黙が流れる。沈黙なんていつものことだった。都さんを介さなければ優月くんとは会話が続かない。一緒に暮らし始めて半年が経つのに未だ私と優月くんは電話番号もラインも交換していない。連絡先を知らなくても何一つ困らないほどに、私達の間には距離があるのだ。
 そもそも優月くんと兄妹になるなんて最初から無理があったのだと思う。なにせ優月くんは同じ高校に通っている先輩で、塾も同じだ。私達はお父さん達が再婚する前から顔見知りだったのだ。

 優月くんは美形だの王子だの騒がれていて女子から人気がある、学校でも塾でもちょっとした有名人だった。普通なら関わる機会がない人だけど、私の親友と優月くんの友達が付き合っていたから多少の繋がりがあった。
 繋がりといっても、上級生の教室に友達の付き添いで行った際に一言二言話す程度だ。それでも半端に知り合いだったばっかりに、私は優月くんのことを同じ学校の先輩……ひいては異性としか認識出来ずにいた。
 これからはちゃんと"兄妹"として打ち解けられないものかと試みたりもしたけれど、今のところは上手くいっていない。

 ただ、今感じている気まずさはそれだけが原因ではなかった。用事が済んでも一向に部屋から出て行こうとしない優月くんがついに話を切り出した。

「ねぇ、天音。何か……相談したいことはない…?」
「……え、と、相談って?」
「その、一昨日の……夜のこととか……」
「え、一昨日?別に何もないよ。あ…はは……」

 友達にも都さんにも言えずにいることを、それほど親しいわけでもない優月くんに話せない。ごまかそうにも無理がある私の乾いた笑い声に、優月くんは何か言いたげな、今にも泣きそうな顔で唇を噛んだ。
 一昨日の夜と同じ表情だ。ああ、忘れたいことほど脳裏にこびりついて離れない。

 一昨日の塾の帰り、真っ暗なあの道で男に目と口を塞がれた後……林の中に引きずり込まれて顔も知らない男に乱暴された。
 そして、天音天音と名前を呼ぶ声で目が覚めた。一番最初に視界に入ってきた、携帯画面の明かりに照らされた優月くんは泣き出しそうな顔をしていた。
 気を失っている間に男の手によって後処理を終えられていた私の衣服に乱れはなかった。まるで本当に何もなかったみたいに。
 だから「大丈夫?怪我はない?何があったの?」と聞かれて、大丈夫。塾サボって寝てたなんて苦しすぎる嘘をついてしまった。他の言い訳がとっさに浮かばなかったことも理由の一つだけれど、私は多分、悪夢を見ていただけなんだと思いたかったのだ。

「……ごめん。無理に話さなくていいよ……ただ、僕を頼ってほしいんだ」
「…………」

 あの日優月くんは、帰りが遅い私を心配して塾まで迎えに行く途中、道の真ん中に私のカバンが落ちていることに気付いて林の中を探してくれた。優月くんは優しい人だからきっとこの二日間、私を助けられなかったと思い悩んで責任を感じているのだと思う。
 それでも私はやっぱり話すことが出来ない。"ありがとう。悩みが出来たら相談に乗ってね"と言って笑顔を作った。


 翌日の放課後、いつも一緒に塾に行っている友達とは別れて一人で学校を出た。
 この時間帯ならまだ外も明るいけれど、今の季節はあっという間に暗くなってしまう。明るいうちに家へ帰りたい。一人になるのが怖いから人の多い道を選んだはずなのに、私は道行く知らない人の存在に怯えている。焦る気持ちが自然に足を早めた。
 学校帰りの他校生や中学生、犬の散歩中のおじさん、自転車に乗った若い男の人、すれ違う誰もが私を追いかけてくるような気がする。早足から小走りになって何度も後ろを振り返り、その人達が私とは逆方向に歩いていくことを確認しては安堵した。
 私はもう、以前の私と同じようには外を歩けないのかもしれない。

 自宅が見えてくると、無事に帰ってこられたことにほっと胸を撫で下ろす。都さんと優月くんと三人暮らしのこの家に私を傷付ける人はいない。私にとってどんなシェルターより安心出来る場所だった。
 都さんは仕事で帰りが遅くなるそうだから今日塾をサボったことはバレないと思うが、明日はどうしよう。さすがに無断で何日も休んだら塾から連絡がいってしまうだろう。

 そうなる前に一昨日あったことを話して塾を辞めさせてもらうか、勇気を出して塾に通い続けるか選ばなくてはならない。
 私は昔から厳格な父が苦手だ。都さんに話せばお父さんにも伝わるのは確実なことが言いにくさに拍車をかけていた。

 こういうとき、お母さんがいてくれたらなと思う。世界で一番大好きだった人、一番信頼していた人、一番私の味方でいてくれた人……お母さんになら何でも話すことが出来た。
 お母さんはきっと、"怖かったね。お母さんがいるからもう大丈夫だよ"と言って優しく抱きしめてくれただろう。私が頼めば絶対お父さんに話したりしない。会いたくてたまらないのに、お母さんはもうこの世にいない。

 もしもお母さんがいてくれたら……そんなことを考えているうちに少し心細くなった。早く中に入ろう。私が家に入る前に必ずする癖、ポストを開ける。
 手紙が一通届いていた。封筒には"香坂天音様"とだけ印刷された紙が貼られている。差出人の名前と住所、切手も消印もない気味の悪い手紙に胸騒ぎがして、その場で封を切った。
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