創作夢

□恋心は目に見えない
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「おーい。どうした?一番の奴は早く前に出て答えろよー」

 五時間目の数学の授業中、今日の日付に因んで出席番号一番が当てられると教室内は少し変な空気に包まれた。
 誰も席を立たないことで、生徒達がひそひそと話し始める。話の内容は一様に一番って誰だっけ?というものだった。教室内を見渡す生徒達の陰で、私は一人俯いた。

「あ、後ろの空席が一番か。えーと、あそこの席は……朝霧だな」

 先生はやっと、このクラスの出席番号一番が朝霧千尋(あさぎり ちひろ)だと気付いた。
 彼の席は窓側の一番後ろ。私は偶然にも彼から最も遠い廊下側の一番前の席だ。この席が決まった席替えの日は、ホッと安堵の胸を撫で下ろしたものだ。
 俯いていては確認しようもないけれど、どうやら今教室に彼の姿はないらしい。本人が不在であるのをいいことに"朝霧ってどんな奴だっけ?""さあ?知らない""なんか影薄いよね"と、遠慮のない声があちこちから上がる。

「朝霧どうしたんだ。保健室か?……ん?朝霧は今日休みだったか?それとも休んだのは昨日の話だったっけかな。えーと、出席簿出席簿……」

 首を捻った先生は教卓の上で出席簿の確認を始める。私達のクラスの学級担任でもあるんだからさすがに生徒の出欠ぐらい思い出してほしい。
 彼は今日登校していた。朝早めに教室についたら一人で本を読んでいる彼の姿を見かけたから間違いない。私はその姿を見て教室には入らずに踵を返したけれど。
 そもそも彼は、二ヶ月前の入学式から今日まで一度も休んでいないはずだ。私は彼と顔を合わせないようにと避けるあまりに、逆に意識してしまっているせいか彼のことをよく把握していた。

「ああ、やっぱり朝霧は昨日も今日も欠席だな」
「欠席…?」

 先生の言葉に驚いて声が出たけれど、幸い私の呟きは誰にも聞こえなかったようだ。欠席っていうのは何かの間違いなのでは?
 私は昨日も今日も、学校で確かに彼を見かけた。彼と席が近い生徒なら私と同じようにおかしく思うはずだ。するとやはり私の席から離れた場所で声が上がる。

「でも先生!机に朝霧くんの鞄掛かってますよ」
「んー…なら遅刻して来たのかもな。誰か知らないか?」

 彼の隣の席の女子の声だった。ざわついて生徒同士で顔を見合わせるものの、先生の呼び掛けに答える人はいない。多分みんな本当に知らないんだ。
 まさか今日学校で彼の姿を見たのは私一人だけなのだろうか。そんな馬鹿なと思うけど、もしそうなら朝見かけたことを私が伝えた方がいい。しかし普段避けている彼のことで発言する勇気がなかなか出て来ない。

「おーし!朝霧の代わりにこの問題を……」

 躊躇っているうちに先生は授業を再開し、黒板に書いた問題を拳で叩いた。私の隣の席の男子が両手を合わせて何やらぶつぶつ言いながら神頼みしている。

「出席番号二番!伊波、お前の出番だ」
「うっわ!やっぱ来たよー…」

 神頼みも虚しく当てられた伊波(いなみ)が席を立つ。途端に笑い声と激励の声が飛んで、教室の雰囲気は明るくなる。
 伊波は私の机の横を通る際に、ノートの切れ端を置いていった。切れ端には"話があるからホームルーム終わったら教室に残ってて!"と書かれていた。

 彼は、千尋は早退したんだろうか。何で欠席扱いされているんだろう。久々に私の頭は千尋のことでいっぱいになっていた。
 もっとも、千尋のことを考えるのはやめよう。よし、最近は千尋を気にしていないぞ。なんて日常的に考えている時点で、私は千尋を強く意識してしまっているのだ。そして、それをどうすることも出来なかった。


****


「おーい。どうした?一番の奴は早く前に出て答えろよー」
「……は…い……」

 一対一での会話すら満足に出来ない僕が大勢の前に立つのは難しいことだったから、返事をするのが遅れてしまった。僕は何とか返事をして、ゆっくりと椅子を引いた。

「あ、後ろの空席が一番か。えーと、あそこの席は……朝霧だな」
「…………」

 口を微かにパクつかせただけのか細い声が届かなかったのは仕方がない。でも、声どころか一人だけ席を立っている僕の存在に教室内の誰も気付くことはなかった。
 その場で唇を噛みながら俯けば、やはり体から伸びる影がない。真横の窓には教科書とノートが広げられた不自然な空席が映っていた。また、僕の存在は消えてしまったようだ。

 僕が時々周りから存在を認識されなくなっていることに気付いたのは何歳の頃だっただろう。少なくとも小学校低学年の頃にはもう、この症状が現れていた記憶がある。
 原因はわかっていない。こんなおかしな話は他で聞いたことがないから、不幸にも生まれつき影が薄い体質なんだと無理矢理納得するしかなかった。
 確かなのは周りから認識されていないときには決まっていつも影が消えていて、鏡や写真にも僕の姿は映らないこと。僕には自分自身の体がはっきりと見えているけど、僕以外の人の視界からは恐らく僕の姿は影も形もなくなっているのだと思う。

「ああ、やっぱり朝霧は昨日も今日も欠席だな」

 昨日も今日も朝から登校して授業を受けているのに欠席と思われていたなんてショックだった。昨日は一日中、先生からもクラスメート達からも認識されることなく過ごしていたのか。どうも以前と比べて影が消える頻度が増えて、消えてから元に戻るまでの時間も長くなっている。
 この状態だと声までほとんど認識されなくなるということは、過去に実証済みだ。僕が存在を主張する手段は、みんなからすれば誰もいないはずの空間で物を動かしたり、物音を立てるくらいしかない。僕は音が出るように乱暴に、教科書とノートを机に仕舞った。

「でも先生!机に朝霧くんの鞄掛かってますよ」
「んー…なら遅刻して来たのかもな。誰か知らないか?」

 さっきまで机の上にあった教科書が消えたことに隣の席の相手にすら気付いてもらえないのか。なんだか馬鹿らしく思えてきて、開けっ放しのドアへと向かう。クラスメート達が"知ってる?"と話しては首を振る光景を横目で見ながら、僕は静かに教室を後にした。
 一番前の席で俯き、決してこちらを見ようとしない彼女にもきっと僕の足音は聞こえなかった。


 三階の空き教室で過去に運んでおいた椅子に座り、机に顔を伏せて目を閉じる。誰にも必要とされていない埃の被った教室は、僕に似ているような気がして学校内で一番心落ち着く場所となっていた。

 そもそも僕は、幼い頃から存在感が希薄な人間だった。極端に口数が少ない内気な性格に加えて、昔は体が弱く、学校を休みがちだったことも災いし、友達と呼べる存在が出来た試しがない。常に一人ぼっちだといじめっこ達の格好の餌食になりそうなものだけど、彼らに目を付けられることはなかった。
 それは何故かと考えれば、やはり誰も僕に関心がないからだろう。いじめられて泣かされていた他の大人しいクラスメートは、いじめのターゲットにも選ばれない僕よりよっぽどその存在を認められている。

 ただ一人、彼女は例外だった。僕を心から疎ましく思い、目が合えば苦虫を噛み潰したような顔をして不快感を露わにする女の子……香坂さんだけが僕の存在を意識してくれていた。
 香坂さんがそういう態度を取り始めたのは小学三年生の頃。用件があって話し掛けても知らん顔されたり、配布物を回してもらえなかったり、僕が触った場所に触れた手を別の場所に擦りつけたり。前触れもなく受けるようになった行為は、一般的にはいじめと呼称されるものだったのかもしれない。

 でも当人の僕はいじめられていると感じたことはないし、香坂さんを恨んでもいない。むしろ「僕を嫌ってくださってありがとうございます」と、お礼を述べたいくらいだ。
 露骨に嫌な顔をして故意に行われる嫌がらせが、僕の影が消えている状態でも当然のように続けられることがどれだけ喜ばしかったか。空気のような僕を唯一認識してくれる香坂さんは、僕にとってかけがえのない人になった。

「ここさ、人があんま来ないからサボりに使えるんだよ」
「へぇー」
「……ん……」

 どうやら考え事をしているうちに眠ってしまっていたようだ。廊下から話し声が聞こえてくる。僕以外にもこの教室を利用している人がいたのか。あくびをしながら足元に視線を落とすと、影は消えたままだった。

「でも場所を変える必要あったの?」

 よく知っている声……香坂さんだ。もう一人は同じクラスの伊波か。
 伊波は僕と香坂さんと同じ中学出身の男子で、中一のときのクラスが三人一緒だった。中学の同級生でこの高校に入学したのも三人だけ。だから僕は伊波のことを知っているけど、向こうは僕のことなんて少しも覚えてないだろうな。
 香坂さんの声で目が冴えた僕は、二人の会話に耳をすませた。

「ま、まあ……話は教室に入ってからってことで……」
「うん…?」

 このままだと香坂さんと伊波が教室に入って来る。伊波はいいとして、影が消えた状態でも僕の姿を見ることが出来る香坂さんには気付かれてしまう。香坂さんに気がある素振りを前から散々見せていた伊波が、わざわざこんな場所でする話なんて不吉なものとしか思えない。どうしても聞きたかった。
 慌てて教室内を見渡すと真後ろに古いロッカーがあった。埃を被ったそのロッカーの中に素早く身を潜め、教室のドアが開く音に合わせて僕はロッカーを閉めた。
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